印象派にハマる。 雑誌『ふらんす』(白水社)11月号より
記事:白水社
記事:白水社
【Claude Monet - 150 ans d’impressionnisme | Twist | ARTE】
【11月号の「[特集]印象派にハマる。」は、吉川一義さん、中山ゆかりさん、西岡文彦さんが、「印象派の魅力」について教えてくれます。】
モネの画業を評し「水の青春の物語 l’histoire de la jeunesse des eaux」と綴ったのは、イメージに関する考察で知られる哲学者ガストン・バシュラールであった。
実際のところ、若きモネがその革新的な画風の端緒を見出したのは、セーヌ河畔の水浴場ラ・グルヌイエールで盟友ルノワールとキャンバスを並べて制作した時のことであり、ル・アーヴルの港の夜明けを描いて印象派の命名の由来となった代表作『印象 日の出』(1873)から、画家晩年の睡蓮を描いた名高い連作まで、モネの画家としての足どりは、常に水という主題をめぐって刻まれていた。
当初はまったく売れない前衛画家に過ぎなかったこのモネ、ルノワールら印象派を世に出し、天文学的ともいうべき高価格で落札される今日の評価の礎を築いたのは、パリの新興画商ポール・デュラン=リュエルだったが、1907 年、67 歳になっていたモネは、この恩人デュラン=リュエルの画廊で予定されていた「睡蓮」連作の二度目の個展を、直前になって延期したいと申し出ている。モネの詫び状によれば、人に見せられるような作品があまりにも少なく、既に破棄した絵は30点以上に上るという。
友人への手紙でも、「水と反映の風景 paysages d’eau et de reflets」に取り憑かれてしまい、老いた自分の手に負えないかも知れないと、窮状を吐露している。
確かに、絵画に「反映」や「鏡映」といった反射像を描くのは至難のわざで、たとえば鏡映像は鏡の枠を描くことで、反射の仕組みを視覚的に説明しないことには、画面を見る人にはそれが反射像であることが認識できない。自画像の過半は鏡に映った画家の姿を描いているにもかかわらず、鏡映像でなく画家像と認識されているのはそのためである。絵画に反射像を描くためには、反射面の枠組み、すなわち鏡であれば枠、水面であれば岸辺といった輪郭を明示する必要があり、これができない場合は反射像と実像の双方を描かなくては、見る側には反射像が実像に見えてしまうのである。
じつは当初からモネの主題は水面の反射にあったのだが、晩年に至って、反射面としての水面の輪郭を消去し反射像のみを描くことに「取り憑かれた」ことから、主題は難題に一変、老境の画家を窮地に追い込むことになったのである。
【Robert Wilson - "Les Nymphéas" de Claude Monet】
ラ・グルヌイエールの川面の反射を描いた際には川辺の風物が成し、ル・アーヴルの海面の反射を描いた際には港湾の風景が成していた、反射面としての水面の輪郭の機能を画面から排して、ジヴェルニーの自邸の池の水面に映る天空のみを描くという野望に憑かれた老巨匠は、従来の「睡蓮」では画面の上部に描いていた実像としての天空すら画面から排し、青春期からの主題「水の反映」のみを画面に描くという前人未到の試みに着手していたのである。そういう意味ではモネの画業は、まさに「水の青春の物語」であり、その青春は、老いてさらに純化されていたことになる。
モネの申し出を承け、翌々年の1909 年5 月に開催されたデュラン=リュエル画廊の個展に出品された「睡蓮」の連作は、睡蓮の浮かぶ水面に天空の像を鮮やかに映し出し、あたかも睡蓮が宙空に開花したかのような魔術的な絵画空間を描出している。時の首相ジョルジュ・クレマンソーら多くの賓客を迎えた同展は、現代小説の祖マルセル・プルーストも訪れたと推測され、畢生の作『失われた時を求めて 』第一巻(1913)に描かれる天空に咲くかのような睡蓮は、この時期に草稿が記されたという。三十代半ば過ぎ、次代を拓く記念碑的小説を構想中の小説家は、老画家の昇華してみせた美を、正しく見抜いていたのであろう。以降、モネは86歳で亡くなるまでの17年間、自庭の池の睡蓮が彩る反映を描くことに専念している。
【2つの楕円形の広間をつなげた無限大記号を思わせる全壁面を、モネ描く睡蓮が飾っていることで知られている。】
バシュラールはモネを讃えて、世界が自らの美を初めて意識したのは、水の反映においてのことであろうと綴っている。知られる通り、睡蓮をいうnymphéasは神話の精霊ニンフ nymphe に起源を持つ言葉である。水の精でもあるこの可憐な女神に由来する名を持つ睡蓮に彩られた反映が、バシュラールも謳った通り世界が初めて自身の美を知った鏡像であるならば……あるいは、世界そのものの鏡像ないしは自画像ですらあったのかも知れない反映を、モネは自庭で描き続けていたことになる。
おそらくそれは、老画家の自画像でもあったに違いない。
【雑誌『ふらんす』2024年11月号連載、西岡文彦「印象派のディテール」より】