焰に包まれた築850年の世界遺産 ノートルダム大聖堂再建の日を待つ
記事:白水社
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【著者アニエス・ポワリエのインタビュー動画 'The Soul of France': New book revisits the embers of Notre-Dame, one year on(英語)右下の歯車アイコンをクリックすると字幕翻訳できます。】
火災の夜を思い起こすと、万華鏡のような映像と千々に乱れる感情が次々に心に浮かぶ。鮮黄色の煙が渦を巻き空に舞うのが台所の窓越しに目に入り、階段を駆け下りトゥルネル河岸に跳び出し、ノートルダムの南の薔薇窓の真向かいに立つと、赤と橙の焰が屋根から吹き上げ、群衆の沈黙がとどろき、人々の虚ろな目、刹那の凄惨な美、頰をつたう真珠の涙、無言の祈りをつぶやく唇、にわかに野戦外科医に変身したかのような消防士たちの機敏な動作、あちこちから巨大な蛇のように延びる消火ホース、松明のように燃え盛る崩落寸前の尖塔、瑠璃色の空を背に映える薄紅がかった石造りの中世建築が目に入り、北塔から黒煙が立ち昇れば耐えがたい想念と酷い予感に胸を衝かれる──ノートルダムは逝ってしまうのではないか。
わたしたちには確かな拠り所が欠かせない、それがわたしたちの存在を支える骨組みであり、この道しるべ抜きに人生を歩むことはままならず、まして数多の試練や苦難を耐え忍ぶことなどできはしない。過去850年間、ノートルダムはそうした拠り所だった。そのことをうっかり忘れていた人々は2019年4月15日の宵、不意をつかれ、激しく動揺した、ノートルダムがもしわたしたちの目の前でもろくも崩れ、消えてなくなるようなことがあるのなら、同じく確かなものと思われてきたもの──民主主義や平和、博愛精神にも同じことが起こりうるのではないか。翌朝心理カウンセラーを招き支援を求めたパリの小学校の校長たちには、そのことがよくわかっていた。多くの子供がバルコニーや舗道で拾った黒焦げの木片を小さなビニール袋にたくさん詰めて登校した。親は我が子にその小さな炭のかけらは十字軍の時代に遡ると教え、取り返しのつかないことは何ひとつ起きていないと言い聞かせる必要があった。ところが子供は安心させられても、自分自身となるとそうはいかない。
その晩、悲劇を初めて伝える映像がソーシャル・ネットワークとテレビの画面に洪水のように溢れ出すと、パリ発祥の地、フランスの揺籃の地である小さな島シテ島に世界のありとあらゆる地域からすぐさま波立つ感情がうねりとなって押し寄せた。わたしたちパリ市民は、歴史上たびたびあったように、悲嘆に暮れる心で結ばれ、世界とひとつになった。
なぜわたしたちは皆それほど心に深い傷を負ったと感じたのだろうか。
ノートルダムは遠い昔からたんなる大聖堂、カトリック教徒にとっての祈りの場、13世紀に遡る美しいステンドグラスのある歴史的建造物を遥かに超える存在だった。ノートルダムは人類が建築の分野で成し遂げた最も偉大な成果のひとつであり、文明の顔、国家の魂である。神聖なのに世俗的、ゴシック様式なのに革新的、中世のものなのにロマンティックなノートルダムは、神を信じる者にも信じない者にも、キリスト教の信者にもそうでない者にも神と出会い、難を避ける場をつねに提供してきた。
ヴィクトル・ユゴーとかれのせむし男は200年前に陥った悲惨な放置と荒廃からノートルダムを救い出し、世界のヒロインに変身させた。中世美術を研究し、元々あったはずの尖塔を添えて面目を一新させた建築家ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクのおかげで、ノートルダムは1860年代に中世の面影を残しつつ壮麗な姿を取り戻す。写真と映画という新たな芸術形式を通じて、ノートルダムは世界中にその姿が広く知られるようになり、カジモド、エスメラルダ、そしてファサードを飾る奇怪ながら憎めないガーゴイル(樋嘴)等とともに、生き生きとした存在感を具えて世界中の人々の想像力のなかに登場を果たす。ゴシック様式の大聖堂として生き返ったノートルダムに寄せる愛は、このようにして世代を越えて受け継がれてゆく。
ノートルダムはうっとり見とれるほど美しいために、誰も消滅しうるとは夢にも思わなかったともいえる。十世紀以上にわたり建てては建て直され、完璧を目指して果てしない工事の続くノートルダムの愛らしさは唯一無二であると同時に多面的でもあった。人それぞれにノートルダムの好みの景観がある。左岸から飛梁の翳に佇む庭園に向かいアルシュヴェシェ橋を渡りながら望む姿を好むひとがあれば、さらにそのやや東のトゥルネル橋の中ほどからの眺めをよしとするひともある。ここから見る大聖堂は、フランス号の名を帯びる船の厳かな舳先のようにそびえ立つ。はたまたシテ島の双子にあたるサン=ルイ島のオルレアン河岸から見た姿、緑陰濃い築堤の湾曲に沿って進むうちにわかに現われる姿を愛でても、あるいはたんに大聖堂正門前の広場中央から、西の薔薇窓と双塔の壮麗さを満喫するのもよい。このほかモントベロ河岸、シェイクスピア&カンパニー書店のテラスからの眺望を好む向きもある。
パブロ・ピカソは裏手の庭からの眺めを好んだ。1945年5月15日、闘牛狂の画家は写真家のブラッサイにこう訊ねた。「ノートルダムを後ろ側から撮ったことはあるかい 、ヴィオレ= ル=デュクの尖塔がとてもいい、聖堂の背中に飾り付きの銛を突き立てたように見える」
わたしのお気に入りはモントベロ河岸の下、ビュシュリー通りとオテル・コルベール通りの角からの眺め。1948年10月にシモーヌ・ド・ボーヴォワールが尖塔の見える小さな屋根裏部屋を借りた建物の右隣、中世から残る三段の階段を降りたところ。路面の高さにかろうじてノートルダムを一瞥すれば、つい隠れた姿を推し量り、もっと見たいとの思いに駆られ、否応なく惹きつけられる。
ノートルダムの美しさは、こんなものと高を括れる類では決してない、それは日々新たな奇跡であり、視線を合わせるたびに呆然とするばかり。ノートルダムの愛らしさの秘密は親しみやすさと気高さが力強く結びつき、暖かく厳かなところにある。記念碑的な建物がどうしてこれほど親密でありながら立派でもありうるのだろう。
ノートルダムの過去を掘り下げるのは、フランスの魂に、栄光と苦悩、矛盾に満ちた歴史に身を浸すことにほかならない。過去850年間、ノートルダムはフランスの最良の時と最悪の時を目撃した、2019年4月15日、ノートルダムはひとの不注意により死に瀕したが、生命を賭す覚悟を固めた人々の勇気により、いまわの際で救われた。
『ノートルダム フランスの魂』はモーリス・ド・シュリー、農家の息子に生まれ、12世紀後半にノートルダムの当初の建設を取りしきったパリ司教に敬意を表す。そして、パリに逆らって統治は叶わないと悟り、カトリックに改宗してノートルダムに参拝し、新旧教徒争う30年にわたる戦争により酷くも分断された国家の宥和を成し遂げたアンリ4世に焦点を当てる。アンリの息子、ルイ13世は王冠とフランスの命運をノートルダムの聖母マリアに奉献し、そのまた息子ルイ14世、「太陽王」は父親の誓願を実現する。
1789年、そしてロベスピエールの恐怖政治の続く間、ノートルダムの抜け目のないオルガニストは聖歌に替えて革命歌と「ラ・マルセイエーズ」を奏し、同じく目端の利く参事会員は守るべきは太陽王とその父親の彫像と定め、聖母マリアには容赦ない無神論者と筋金入りの共和派を前にして、人手に頼らず我が身を守っていただくことにした。参事会員の判断は図に当たる、畏れ知らずの革命派にできたのは、聖母の黄金の王冠を取り去るところまで。ファサードの上部柱廊に並ぶ28名の王たちはさほどの幸運には恵まれず、各々首を失う。革命のさなか献堂先を理性に更めたノートルダムを、ナポレオンが当初の信仰へ復帰させる。1804年にそこで皇帝の戴冠式を執り行なうことにより、ナポレオンはまたノートルダムをフランスの公的、政治的な営みの中心に据え、ヴィクトル・ユゴーとかれのせむし男の活躍に道を拓いた。
ユゴーの小説は1830年7月革命の波瀾の日々に執筆され、革命の熱に駆られるパリ市民、ノートルダムのせむしの鐘撞きカジモド、美しいジプシー女エスメラルダが司教補佐フロロの油断のない眼差しの下で交錯する様子を完璧に捉えた。豊かな想像を呼び起こす挿絵を添えて出版された小説は破格の成功を収め、ついには国中がにわかに中世から受け継いだ遺産の価値を見直し、崩れかかった記念建造物を修復する必要を感じるまでになる。刊行後まもなく、フランスの歴史的建造物の保存を目的とする国家機関が設けられ、ほどなく新種の建築家、芸術家ならびに学者が国に招集され、由緒ある石材の過去の威光を蘇らせる事業に従事することとなった。
ヴィオレ=ル=デュクは苦心しながら22年をかけ、ノートルダムに中世の壮麗さを取り戻す。尖塔が完成してから数年後、オースマン男爵がパリとシテ島を大幅に改造した。中世の住居と隣接する狭い路地を一掃して、オースマンはノートルダムに威風を添える。いまや島の尖端に独り建ち、ノートルダムは何キロもの遠方からもその姿を望めるようになった。
火災の夜、多くのパリ市民が1944年8月26日を思い起こした。この日、200万の同胞の喝采を浴びながらシャンゼリゼ通りを歩き終えたド・ゴール将軍がノートルダムに立ち寄り、危難の時代を終え、テ・デウムを奏で神に感謝を捧げるミサに参列した。正面門扉から満員の堂内に歩み入ると、2階から数発の銃声が響いた。狙撃手がフランスの指導者めがけて銃弾を浴びせたが、ド・ゴールは胸を張って歩きつづけ、身廊を抜け内陣へ向かう。参列者の多くは大理石の床に平伏したものの、ド・ゴールが至極冷静で、動ずるふうもないのを見て、徐々に信徒席に戻った。マニフィカト(聖母マリアの賛歌)は端折られ、将軍は入場したときと同じように胸を張ってノートルダムを後にした。
ド・ゴールなら今回のノートルダム再建をめぐる争いをどう考えるだろうか。燃えさしのまだ生暖かいうちに、フランスの世論は二分されたように思われた。一方が以前と同じ姿をふたたび見たいと願えば、他方は21世紀の天才の手を幾ばくかでも添えたいと考える。これは臆病者と果敢な者、あるいは賢者と愚者の間の争いなのだろうか。フランスの首相エドゥアール・フィリップまで、火災のわずか2日後に尖塔の再建をめぐる国際的なデザイン・コンペを発表せずにはいられなくなった。マクロン大統領自身も、「以前にもまして美しい」ノートルダムの再建を五年以内に行なうと言い出した。ふたりの言葉をきっかけに、SNS上にはおよそ途方もないアイデアがどっと押し寄せる。クリスタル製の尖塔、屋上庭園、巨大な黄金の松明、屋上プール、ガラスのドーム等々、建築家たちは宣伝のチャンス到来と血眼になり、国際コンペに大喜びで応じ、奇天烈な設計案を打ち出した。パンドラの匣が開いた。
過激でありたい、デザインし直し、作り替え、世界を眩惑したいというフランスのこのやむにやまれぬ衝動はいったい何なのだろう。21世紀の天才がノートルダムを建てた中世の工人に対抗できると本気で思うのだろうか。少なくとも今回に限っては、ヴィオレ=ル=デュクが1865年に残した姿にノートルダムを復元し、維持すればよいのではないか。毎年1400万を数える訪問者のために、どう見ても乱雑な周囲の街区や入路を手直しする機会ともなるだろう。長く待望され、大いに必要とされる博物館を前庭の向こう、中世に建てられ、今では半ば空き家のオテル=デュー(「神の館」の意)、パリ市立病院に設けることさえ夢ではない。
ノートルダム再建をめぐる争いは始まったばかり、この先激しさを増すのはまちがいない。フランスで最も富裕な三家、ピノー、アルノー、ベタンクール家は、焰が屋根を蹂躙する間にもノートルダム再建に五億ユーロを寄付すると約したが、その行為を正当化する必要に迫られた。ノートルダムの運命よりも、寄付に通常ともなう免税措置に関心があったのではないかと「黄色いベスト運動」は問う。それだけの金があるのなら、古びた石より苦しむ人間に使ったほうがよいのではないか。黒焦げの残骸の巨大な山に優る大義は他にないのか。
本書の執筆は、絶望から穏やかな楽観に至る風変わりな旅路に譬えられる。日の出がセーヌの川面を薄紅色に染め、2019年4月16日の明け方、ノートルダムが傷つきながら今も堂々とそこに建つのを目にして以来、わたしはためらいながらも、望みをつないできた。その数時間前には双眼鏡を手に、ステンドグラスの窓が持ちこたえたのを確かめて、拳を宙に突き上げたのだった。
ノートルダムを救った人々と会い、火災後の数週間、数か月、週7日、1日24時間、痒いところに手の届く看護婦のようにノートルダムの世話に当たり、軀体を強化し、焦げつき壊れても再利用できる残骸をひとつひとつ丹念に拾い集め、保存する作業にあたった人々の話を聞き、再建について助言する人々、再建の資金を提供する人々にインタヴューし、工事現場を訪れ、妙に聞こえるかもしれないけれど、石に手を触れ、鉛中毒の有無を確かめる血液検査まで受けてみて、わたしはこうしたすべてを通じて、先々に待ち受ける難題と、ノートルダムがふたたび立ち上がるのを見届けようとする人々の底無しの、根っからの善意とやる気を痛切に感じたのだった。
【アニエス・ポワリエ著『ノートルダム フランスの魂』「まえがき」全文】