文学と鉄道の本当は幸せな関係〜「鉄道目線」で文学を見たら新しい地平が開けた
記事:幻戯書房
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日本で初めて鉄道を専門とするフリーライターとなったのは、私の師匠であり、〝レイルウェイ・ライター〟を名乗った種村直樹だ。1973年に毎日新聞社の記者を辞め、フリーとなった。しかし、鉄道雑誌などはそれ以前から存在している。では、誰が書いていたのかと言えば、筆が立つ鉄道ファン、あるいは鉄道会社の社員などだ。
その中には、文学にも造詣が深い方々もいた。そして、文学と鉄道を結びつけた著作も少なからずあり、私も10代の頃から愛読したものだ。ただ不満もあった。なぜか「この作品のこの場面に鉄道が出てくる」だけを繰り返すパターンが目についた。もしくは、鉄道を一部の舞台とした小説のアンソロジーばかり。
もうちょっと鉄道が好きなら、そこに描かれている鉄道がいかなるものであるのか。例えば「蒸気機関車」「横須賀線の二等車」と書いてあったら、それがどんな形式か、どんな背景があって、その列車に使われていたのかは追っていない。もっと深掘りして欲しいなあという不満である。
種村直樹は『鉄道ジャーナル』誌上などで、そのときどきの鉄道を、ルポルタージュという形で活写した。それが現在まで残っているから、東北新幹線や青函トンネルの開業時の模様がよくわかる。ただそれも、1970年代以降の話だ。
では、明治大正ともなるとお手上げかと言えば、そうではなかった。碓氷峠にアプト式鉄道が通じる前の馬車鉄道は、資料が非常に乏しいことで知られるが、これに森鷗外、正岡子規が乗って〝記録〟を残していたことに気づいた時は、小躍りして喜んだものだ。特に鷗外の紀行文『みちの記』の記述は、当時の客車がいかなるものであったか、どんな運行をしていたのかがよく理解できる。
子規は子規で新聞記者らしく、明治27(1894)年の開業直後の総武鉄道(現在のJR総武本線)に乗り、紀行文を残している。これによってその時の、乗車した客車の構造がよく理解できる。切符の発売方法に対する記述などは、目を見開いて読むべきだろう。車両に対する研究は鉄道ファンの間でも盛んで、資料的価値が高い本が編まれているが、では、総武鉄道では切符はどのように売られていたのかなどという、今で言うソフト面の研究は、寡聞にして見た記憶がない。正岡子規に感謝するしかない。
子規の系譜に連なる歌人たちも、鉄道とは縁が深かった。子規を崇拝した伊藤左千夫は、自宅の目の前を総武鉄道が走っており、道を挟んだ向かいが鉄道車両メーカー「汽車会社」の工場であったというのが愉快。左千夫が営んだ牧場の跡地は、現在の錦糸町駅南口のバスターミナルだ。左千夫の弟子、土屋文明と斎藤茂吉にも鉄道を詠み込んだ短歌がいくつもある。いかにも「新しい歌」に心血を注いだ人たちらしい作品だと思う。『アララギ』は、中央本線が諏訪まで通じたからこそ誕生したと考えている。
鉄道を愛し、汽車に乗り、後世に残る紀行文を記した作家としては、内田百閒、阿川弘之、宮脇俊三が〝御三家〟と言われる。もちろん異論はなく、ユーモアにあふれた随筆は今も愛読している。百閒の『阿房列車』シリーズ、阿川の『南蛮阿房列車』など、宮脇の『時刻表2万キロ』などだ。
それだけではない。『鉄路の行間』を執筆しつつ、誰か面白い作品を残した作家はいないかと探していて、出会ったのが若山牧水。自由に旅した歌人との印象が強いが、明治18(1885)年に日向国の山深い地で生まれたにもかかわらず、外の世界へのあこがれから地図と時刻表の愛読者となったエピソードには、さもありなんとうなずいた。まだ交通も不便な明治時代に、足の向くまま気の向くままの気まぐれ旅ができたのも、地図と時刻表に精通していた賜物であろう。
一方で、鉄道好きと見られがちだけど、そうではなかろうと思ったのが太宰治だ。この筆名での処女作は『列車』と言い、『鉄路の行間』でも取り上げたが、あくまでフィクションにしたかったのか、鉄道に関する記述は正確なようでそうでもない。『人間失格』で跨線橋に失望したくだりは、三鷹駅西側にあった〝太宰が愛した跨線橋〟との紹介と矛盾するような気がする。
『濹東奇譚』で廃止直後の京成白鬚線跡を描いた永井荷風、『武蔵野夫人』で線路のもつれを恋愛のもつれに結びつけた大岡昇平、『吉里吉里人』で迷走した井上ひさしの記述など、まだまだ語りたい作家はいくらでもいる。今回は昭和までの作品に絞ったが、現代文学にも時代性を反映した印象深い鉄道描写はある。文学に限らず、鉄道が描かれた映画、音楽、絵画なども少なくない。新刊が出たばかりだが、もっともっと追求してみたいと、もうすでにうずうずしている。