小説は終わったのか 戦後文学の最後から見たもの:私の謎 柄谷行人回想録㉑
記事:じんぶん堂企画室
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――1992年に盟友・中上健次、95年に妻・冥王まさ子という身近な作家が相次いで亡くなり、柄谷さんは「文学と縁が切れた」とおっしゃっていました(第20回参照)。特に中上の死については、近代文学の終焉に関わる一つの区切りとして象徴的に語ってこられたと思います。
柄谷 僕は、70年代の終わりには文学の終わりを意識するようになっていた。それが否定できないほどにはっきりしたのが90年代だった、そういうことなんじゃないか。
――少し先のことになりますが、2003年には「近代文学の終り」と題した講演をするに至りますね。
柄谷 実は、あの話は、僕が自分から言い出したことではないんです。身近な人たちには、もう文学のことは書かない、とか、文学はもうだめだ、とか言ってはいましたけどね。それを聞いた編集者が、そのことを話してほしいとインタビューを企画した。僕としては、あまり気乗りがしなかったんですよ。文学が終わったという話は、積極的に宣伝したいことじゃなかったから。静かに文学から離れられれば、それが一番だった。
だけど、当時は僕に文学を牽引していってほしいと期待していた人が多かった。だから、今後もう文学についての原稿は書きませんよ、と知らせておく必要はあるかな、と思ったんです。だけど、結果的に、文壇に宣戦布告でもしたかのように受け止められてしまった。それで、近代文学の終わりについて、まとまった話をせざるをえなくなって……。そんないきさつだったと思います。
《柄谷さんは、「近代文学の終り」で、近代的な国民国家の成立には、文学、とりわけ近代小説が重要な役割を果たしたことを確認しつつ、その役割は終えたと指摘した。社会階層などでバラバラだった人々を、“想像の共同体”としての国民(ネーション)としてつなぎ合わせる過程で、共感を生み出す小説が基盤となった。娯楽として軽視されていた小説の地位は向上したが、代わりに知的・道徳的な負荷がかかることになった。近代小説は、虚構にすぎないが、より真実らしさを追い求めてリアリズムを課題とした。しかし、国民国家が世界各地に広がったこと、さらに映画などよりリアリティーを喚起しやすい形式が発達したことなどが重なって、特権的な地位を失っていった、とみる》
――当然というべきか、一部の文学者は反発しました。韓国でも話題になったそうです。
柄谷 近代文学―小説ですね―が決定的な意味を持った時代は終わった。だけどそれは、文学がなくなるとか、文学にはもう意味がない、ということではないんですよ。才能のある作家は常に出てくるものだ、とか、文学を読む人は少数であってもいなくなることはない、とかいった反論がありましたが、それと近代文学の終わりは矛盾しないんです。文学の終わりには、いろいろな要素があって、個々の作家だけの問題ではないから。たとえば、テクノロジーの問題があります。リアリズムという意味では、映画やテレビの映像のほうが文章よりも有利ですよ。小説は書く側にも読む側にも想像力が求められるから、負荷が大きい。その点、視覚や聴覚に訴える映像は楽なんです。
――確かに、日本で一般家庭までテレビが普及したのは70年代でした。
柄谷 小説の凋落を促した大きな要因が、テレビをはじめとする視覚的メディアだというのは、よく言われていますね。
――テクノロジーということで考えてみれば、近代文学そのものが、文字の複製技術である活版印刷の発展があって広がったんですよね。メディアの形式に関していえば、主役が紙からテレビになったのが70年代から90年代だとすれば、さらにインターネットにとってかわられてきたのが、この20年だったという気がします。
柄谷 ネットが出てきて変わった面も大きいと思います。実際 、2000年代以降には、古典的な文学を読む人はほとんどいなくなったんじゃないですか。
――そうですね。実感としても、かなり限られた人になってきたと思います。
柄谷 70年代には、まだまだ文学は読まれていたんですよ。そして、多くの人たちは文学は永遠だと思っていた。そういうときには、文学が終わりかけているという洞察には意味があった。だけど、今の人たちは、文学の永遠を信じるも信じないも、文学を読んだことすらない、という感じでしょう。そういう人たちに向かって、文学の終わりだなんて言ってもしょうがない。
――柄谷さんがリアルタイムで経験したことについて、少し順を追って聞いていきたいと思います。70年代末というのは、『日本近代文学の起源』(80年刊行)に収録される論文を書いていた頃ですね。近代文学は近代的人間の自我や内面を描いたのではなく、むしろ小説が内面や自我を作り出し、近代国家の形成に一役買ったのだ、という考えはすでにここで示されていました。
柄谷 そういうことが言えたのは、すでにその時に近代文学の終わりを感じていたからだと思う。一般的にいって、起源が見えてくるのは、終焉のときなんですよ。
――最近読んで面白かったのですが、文芸批評家の平野謙が75年に、その頃作家・松本清張が宮本顕治(当時の共産党委員長)と池田大作(同、創価学会会長)の会談を取り持ったことなどをあげて、「戦後三十年間における現代作家の驚くべき社会的地位の向上」を「痛感した」と書いていました。同時にその社会的地位向上に反して、文学の「内実」が希薄化していることとのギャップを嘆いています(「ひとつの締めくくり」『志賀直哉とその時代』所収)。
柄谷 確かにその頃にはまだ、政治と文学の関係はどういうものか、なんていうことが、大真面目に論争されていた。政治経済から世相まで何でもかんでも文学者に意見を仰いだりして、世間では文学者は偉いということになっていたしね。
他方で当時文学が軽いものに変質していった、というのもその通りだと思います。『日本近代文学の起源』を書いていた時期(78~79年)にやっていた、新聞の文芸時評では、文学の変化を実感しました。
――言葉遊び、引用、パロディー、物語といった形式を持つものですよね。作家としては、中上健次、津島佑子、村上龍、村上春樹、高橋源一郎といった名前を挙げていました。70年代末の時点では、柄谷さんはそこにリアリズム中心の近代文学を超える別の可能性を感じていたようですが、90年代に入ると、こうした文学は急速に力を失った、とも書かれています。なぜだったのでしょう。
柄谷 そうですね……。一つの理由としてあげられるのは、近代小説というのは、“差異”から出てきたものだ、ということでしょうか。たとえば、ゴーゴリ独特のリアリズムは、ロシアに、先進諸国からはなくなってしまったような、成員の関係が濃密な共同体が残っていたことから生まれた。日本の夏目漱石も、中国の魯迅も、コロンビアのガルシア=マルケスも、それぞれの社会独特の背景から生まれた。当たり前のことみたいだけど、重要です。
――ゴーゴリは19世紀の作家ですが、他の3人は20世紀に活躍した作家です。国による発展の違いが文学の源になったわけですか。
柄谷 アメリカ国内での不均衡が背景にあるフォークナーなども、同じです。都市と農村とか、先進国と後進国とか、男性と女性とか、そういう差異が動力になった。だけど、高度成長とグローバリゼーションによって、差異は消滅の方向に向かいました。
――格差や悩みが近代小説のエンジンになっていた分、社会や人々が均質化して描くことが減っていった、と。
柄谷 格差がなくなること自体は、当然望ましいですよね。近代小説にとっては難しい状況になるというだけのことで。
――しかし、差別や理不尽や矛盾のようなものは、まだ残っていたのではないでしょうか。
柄谷 それはもちろんです。今だって、格差は拡大しているし、ますますひどくなっている問題も多い。だけど、そうした矛盾は、先ほどあげたような漱石やフォークナーの時代、あるいは戦後文学の時代まではもっとはっきり見えたんです。そして、差異をあぶり出すことによって新たな共同性を築くこともできた。
だけど、もう小説にそういう求心力はないでしょう? 小説だけじゃなくて、思想も求心力を失いました。宗教もそうです。アルジェリア独立戦争やベトナム戦争、中東戦争では、それに対する言説の上での世界的な連帯が自然発生的に起こった。でも、今はない。それを牽引する思想家や作家もいないし、メディアもない。ただ、バラバラな反応があるだけ。
――小説の終焉については、95年に行われた大江健三郎さんとの対談でも話題になっています。大江さんは、D・H・ロレンス(1885~1930)の『虹』などには「小説を書く人間の喜びに満ちている」けど、ギュンター・グラスにもガルシア=マルケスにもそれはもうない、と言います。「小説というジャンルは終わろうとしているんじゃないか」というのが大江さんの言葉ですね(95年3月「世界と日本と日本人」『大江健三郎 柄谷行人 全対話』所収)
柄谷 大江さんも僕も、小説はもう終わりだと感じていて、かなり長くその話をしました。大江さんは僕より六つ年上ですが、戦後文学の最後を経験していた、という意味では、同世代人で、感じ方も似ていたのかもしれない。対談で大江さんが、不謹慎なことを言うようだけれど、中上が92年に死んだのは論理的にも正しかったのではないか、と漏らしていた のが印象的でした。
この対談の頃には知らなかったけれど、ボルヘスも小説は行き詰まって完全に袋小路に入っている、と67、8年にやったアメリカでの講義で明言しているんです。ボルヘスは、小説はそうだけれど、短編や物語は永遠のものだろう、とも言っています。この講義は、『詩という仕事について』という岩波文庫に入っています。
――まったく違う場所で、それぞれに小説の終わりを敏感に感じ取っていた小説家がいたんですね。
柄谷 それから今思い出したけど、2000年くらいのことかな、BBCのインタビュー番組にノーベル賞作家の(V・S・)ナイポールが出ていたことがあった。彼はそこで、小説は終わった、という主張をしていたんだけど、インタビュアーが、そんな言い方は大げさなのではないか、小説は現に栄えている、とかなんとかいう応答をした。そうしたらナイポールが、あなたは全然分かっていない、昔小説家は、今とはまったく比べ物にならないくらい特権的な立場にあったんだ。今自分が若かったら、小説家なんかになりたいとは思わないだろう、というような反論をしていた。それを見て、まあ皆同じようなことを感じているんだな、と思いましたね。
――96年の対談(「戦後の文学の認識と方法」同)では、大江さんは近代の日本文学が「生き生きした意味を持った」「必要とされていた」時代は限られていて、具体的には野間宏の『真空地帯』や大岡昇平の『野火』などがベストセラーになった戦後文学の一時期を挙げています。
柄谷 戦後文学には普遍的なものがあったんです。その最後が大江さんの『万延元年のフットボール』(67年)だった、ということかな。もう内容は忘れたけど。
――大江さん自身も、「文学が本当に必要で意味のある時代に自分が引っかかっていた、それを信じて作家活動をしていたのは『万延元年のフットボール』のころで終わりじゃなかっただろうか」と語っています。柄谷さんは、江戸時代の一揆と60年安保を題材にして、明治以降の日本近代化が抱える矛盾を想像力の力によって描き出した作品だ、とされていました。89年に書いた「大江健三郎のアレゴリー」(『終焉をめぐって』所収)で、「『万延元年のフットボール』において、大江は、日本近代史の『総体』を喚起し、それを『救済』しようとしたといってよい。(中略)だが、それは期せずして日本における『近代文学』の終焉を告げるものであった」と書いています。
柄谷 後に続く作家は、大江さんが完成させた戦後文学の後にどんな文学をつくるか、そういう難題をつきつけられることになった。中上健次の『枯木灘』は、それを突き抜けて出てきた。確か、村上春樹の『1973年のピンボール』も大江さんのパロディーでしょ。大江さん本人ですら、行き詰まって引退してしまったわけだし。
――94年の小説断筆宣言ですよね。先輩記者に大騒ぎになったと聞きました。でも、結局その後も書き続けましたよね。
柄谷 僕は文学から離れてしまったけど、大江さんは粘った。矛盾を抱え続けて大変だっただろうと思う。
――柄谷さんは、大江さんが、87年の『懐かしい年への手紙』で、すでに過去 に向かっていたことを指摘していました。過去に小説を書いている自分を書いた小説ですが、自伝のようでいながら虚構なのだ、と。その頃、日本では昭和が終わり、世界では冷戦構造が終わって、文学の終わりも重なった……。柄谷さんの『終焉をめぐって』はそんな本でした。
柄谷 いろいろな意味で大きな転換期だったんだね。晩年の中上も、それを感じていたのでしょう。それで、アジア全体へと視点を広げることによって新たな差異を獲得しようとした。その小説は、試行錯誤しながら長く書いていたけど、結局未完に終わった。92年の中上の死は、近代文学の死を象徴するものでした。もちろん、これは僕個人の経験であって、文学には別の可能性も残されているでしょう。もう小説を読まなくなってしまった僕には、とやかく言う資格はないけれど。それでも、ここ数年実感しているのは、やっぱり自分は文学者なんだ、ということですね。文学を論じなくなってからも、ずっと文芸評論のスタイルでやってきた。どんなテキストであれ、どんな制約からも自由に、その「可能性の中心」を見出そうとしてきた。
――90年代は、柄谷さんはアメリカと最も頻繁に行き来していた時期です。日本文学の批評から出発した柄谷さんが、文学の終わりを覚悟したということとアメリカ行きは関係していたのでしょうか。あるいは、日本の文壇に見切りをつけたとか?
柄谷 文壇がどうの、ということは特に考えていなかったと思いますね。30代で、ド・マンから、君は英語で本を書いて世界で読まれるようにすべきだ、と言われて以来、ずっとそれが課題だったから、アメリカ行きは自然な流れだった。アメリカやヨーロッパが偉いということじゃないですよ。そんなものは偉くも何ともない。それぞれにローカルなだけです。ただ、ある頃からアメリカには世界中から人が集まってきて、思想の中心をつくっていた。普遍的に考えるためには、日本に閉じこもらずに、そういうところに身を置くのもいいと思った。90年代には、『日本近代文学の起源』と『隠喩としての建築』の英訳が出たこともあって、自分の気持ちがどんどん外に向かっていたんです。大江さんと親しくなったのも、アメリカででした。90年以降にアメリカで同じ会議に参加したりして一緒に過ごしているうちに、自然に距離が近くなったんです。
(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、アメリカ移住を考えていたことについてなど。月1回更新予定)