世界中から集まっていた知性 一度は決めた米国移住:私の謎 柄谷行人回想録㉒
記事:じんぶん堂企画室
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――1990年代の柄谷さんとアメリカについて、もう少し聞かせてください。
柄谷 ほとんど毎年、アメリカと日本を行ったり来たりしていましたね。あの時点ではほとんど国籍不明になっていた(笑)。よくあれだけ飛行機に乗っていられたもんだよ。今じゃ考えられない。アメリカでは僕は、新進気鋭の若手批評家のような感じでしたね。だから日本に帰ると、急に年を取ったような気がして。
――1975年にイェール大学に客員教授として招かれて以降、イェール大やコロンビア大の客員研究員、他の大学での講演などで、80年代にはすでにアメリカにはしばしば行かれていたと思うのですが。
柄谷 90年にニューヨークのコロンビア大学の客員教授として呼ばれて、以来2年に一度くらいのペースで一学期間講義をすることになったんですよ。アメリカのあちこちから講演に呼ばれることも増えた。
――当時のインタビューで、不景気でニューヨークの街に非常に物乞いの人が増えていたことが印象的だという話をされていました。
柄谷 確かに、ニューヨークというのは、資本主義の生むさまざまな問題や、移民や貧困など、すべて引き受けているようなところだった。年々、アジア系、特に中国系の学生が増えてきたりして、世界の変化が見えやすい場所でしたね。
――コロンビア大学での所属は東アジア学科の日本科ですか。
柄谷 比較文学科と両方に籍があった。もともとコロンビア大学の日本科は、エドワード・サイデンステッカーとかドナルド・キーン(いずれも日本文学研究者)がいて、日本科の名門でした。川端康成や三島由紀夫を取り上げて、エキゾチックで美的な日本文学のイメージを作った。アメリカでの日本学では、一時期はこれが主流でした。
――エキゾチックで美的な日本文学受容は、柄谷さんの「仮想敵」だったわけですよね。
柄谷 そうですね。僕が最初に行ったイェール大学でやった、『日本近代文学の起源』のもとになった講義は、コロンビア大学的な日本文学への批判でもあった。イェールの日本科はコロンビアほど有名ではなくて、毛色も違っていた。僕を呼んだマクレラン(日本文学研究者、イェール大教授)は、志賀直哉『暗夜行路』の翻訳者で、志賀が川端や三島のようなエキゾチックな方向には行かなかったことを評価していた人だったし。マクレランは、僕のそういう姿勢を見抜いていたんだね。
――90年のアメリカでは、そういった日本文学のイメージは変わりつつあったんでしょうか。
柄谷 残っていたとは思う。だけど、むしろ批判の対象になってきていた。70年代くらいまでは、川端や三島、あるいは安部公房、大江健三郎も、アメリカでほぼリアルタイムで読まれていたし、作家の側も外国で読まれることを意識していた。その頃には、日本文学と西洋文学、あるいは中国文学でもいいけども、そういう区別が自明の前提としてあった。
しかし、90年代には、グローバリゼーションということなのかもしれないけど、どこの国の文学かということは、あまり言われなくなってきたんですね。エキゾチシズムが消滅しつつあった。何より、アメリカ人は以前ほど小説を読まなくなっていた。
――考えてみれば、94年に大江健三郎がノーベル賞を取ったというのも象徴的ですね。68年に日本人初のノーベル文学賞を取った川端がまさに日本的なものとしての評価だったの対して、大江さんは世界文学として評価されたとしばしば指摘されます。エキゾチックな日本文学のイメージが揺らいでいる中で、コロンビア大で何をするかというプランはあったんですか。
柄谷 なかったんじゃないかな。その頃は、その場のインスピレーションで何にでも対応できたし。
――授業について、過去のインタビューでお話になっていたので、参照してみますが、初めの頃扱っていたのはナショナリズムの問題だったそうですね。90年代初頭には『日本近代文学の起源』の英訳草稿が出来ていたので、学生に読ませながら、自分でも別の角度から再検討された、と(『柄谷行人インタビューズ1977-2001』)。
柄谷 そうでした。ただ、僕はその時点ではもう文学に興味を失っていた。(第21回参照) 学生は、文学批評に関心を持っている人が大半でしたけれど。
――その後は、「ファシズムと日本」をテーマにされたとか。マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』から入って、ハイデガーやグラムシを読み、日本の問題に入っていくような。
柄谷 当時の学生には実に優秀な人がそろっていて、皆そういう話をスッと理解してくれた。授業中の議論も活発だったし、授業のあとも皆で飲みに行ってその続きをやるんだけど、いつも盛り上がってすごく楽しかったですよ。学生の多くは、その後アメリカの大学で教授になって、今では重鎮みたいになっている人たちもいます。
――楽しそうですね。ご自身が扱うテーマも日本文学に限らなくなっていったわけですね。
柄谷 『マルクスその可能性の中心』の延長にあるような、理論的な話になっていった。当時のアメリカには世界中からいろんな人が集まってきていて、知的な中心地ができていた。コロンビアの比較文学科だけを見ても、サイードもいたし、スピヴァクやダバシも(エドワード・サイードはパレスチナ、ガヤトリ・C・スピヴァクはインド、ハミッド・ダバシはイラン出身の文芸批評家、思想家)。みんな文筆家としても有名だったからね。僕はまだ英語の本もなくて、アメリカでは一般の人は誰も知らないだろうに、と思うと、そこに当然のように迎え入れられていたのが不思議な気がしました。
――多様で一流の人が集まっていたんですね。
柄谷 日本研究と関係なく付き合える人たちがいたんですよね。僕自身、やっていることが横断的な性格だったから、交流がどんどん広がっていきました。たとえば、95年にデリダがカリフォルニア大学で僕の論文について連続講義したとき、中国からは汪暉(思想家、精華大教授)が来ていた。彼とはそのあと長いつきあいになりました。
――スラヴォイ・ジジェク(スロベニアの哲学者)と知り合ったのもこの頃ですか。
柄谷 いや、ジジェクとは80年代には面識があった。90年代には、色々な学者やアーティストに引き合わされて、有名な人もいたんだと思うけど、こっちは誰だかわからないからね。覚えているのは、ジュリア・クリステヴァ(ブルガリア出身、フランスの批評家、思想家)くらいかな。なぜか僕のことを知っていてくれて、熱心に話しかけてくれた。
――90年代のアメリカには開かれた空気があって、いろんな人が行き来して、専門を超えて話し合えていたんですね。
柄谷 日本人同士でもそうだった。90年代、僕はアメリカで大江健三郎に何度も会ったんですね。文学の学会で何度か一緒になって、帰国してからも大江さんの家を訪ねたりして。その頃、大江さんと初めてじっくり話した。
あるとき大江さんがこういう話をしたのが印象に残っています。彼にはよく小説に出てくる光さんとは別に、もう一人息子さんがいるでしょう。その息子さんが大江さんの本棚にたくさん並んでいた僕の本を見て、柄谷さんは偉い人だね、お父さんに本を送ってこないんだから、と言ったと(笑)。「著者謹呈」とかそういうことが書いてないって。僕は最初、大江さんが何を言おうとしているのかわからなくて、答えに窮した。「本を出したら送れってことなのかな」とかさ。だけど、たぶん、これは彼一流の自虐的サービスなんじゃないかと思った。だって、大江さんが自分で僕の本を買っているってことでしょう?
――ずいぶん回りくどいですね(笑)。
柄谷 実際、大江さんは『探究』だとかの僕の本をいろいろ読んでくれていましたね。だから僕も、自分がその頃考えていたスピノザだとかカントだとかについて、遠慮なく話すことができたんです。
――大江さんは柄谷さんがデビューした69年の群像新人賞の選考委員の一人ですから、面識は20年以上前からあるわけですよね。
柄谷 ええ。ただ、日本にいると、党派的・政治的な問題といえばいいのかな、何となく互いに距離があった。気楽に話が出来るような感じではなかったんでしょうね。
――お互いが日本で抱えている文脈を離れて、一対一の知識人同士で話をできる自由さが、アメリカにあったわけですか。
柄谷 そうですね。中上健次とも、日本にいるときよりも自由に話せた。湾岸戦争反対運動のことも、そういう会話から出てきたんです。それから、坂本龍一もよく僕の部屋に遊びに来てた。彼と親しくなったのは、ニューヨークですね。編集者だった彼のお父さん(坂本一亀)とは旧知の仲だったけれど。音楽のことは、僕は知らないからね。文学とか哲学とか、そういう話をした。彼は物知りだから、楽しかったよ。
――90年代の柄谷さんは外へ向かっていたんですね。
柄谷 そうですね。これからアメリカだろうとフランスだろうと、移り住んでやっていけるような気がしていました。
外国が近くなったのには、思想の世界で、文学とか哲学とか自国の文化とかいった既存の領域を超えて考える、という動きが世界中に広がっていたこともあったと思う。
――どういうことでしょう。
柄谷 たとえば、それまでは、僕がヴィトゲンシュタインとかカントとかについて論じていても、これは文学であって哲学プロパーではない、とか言われていたんですよ。だけど、90年後半にもなると、哲学科から招待がくるようになった。マルクス主義の世界でも、僕は特に日本人としてみられていなかった。つまり、日本のマルクス主義の紹介だとか、そういうことは誰も僕に求めなかった。
――なるほど。 “批評”という活動のなかでも、純粋な文学だけでなく、哲学とか思想、あるいは、人類学とか精神分析まで取り込むことがもう普通のことになっていた、ということですか。
柄谷 そうですね。ただ、僕の英語の著作は、90年代半ば近くになってようやく出始めた。著作が出ていないと、他の著者たちとのコミュニケーションも面倒なんです。一から説明しなきゃいけないからね。だから、これまでの集大成のような本を英語でまとめようとずっと思っていた。
――『日本近代文学の起源』が93年、『隠喩としての建築』の英訳が95年に出ています。英訳するときにかなり手を入れたそうですね。
柄谷 特に『隠喩としての建築』は、『探究Ⅰ』でやった内容まで含めて、徹底的に書き直したから、実質的に別の本ですね。後に岩波から定本で出たものは、この英語版とほぼ同じ内容です。
――英語で本が出て、反応が変わってきた実感はありましたか?
柄谷 いろいろと反響はありました。ただ、『日本近代文学の起源』については、僕のほうでは、そんな大昔に書いた本なんか今更興味ないよ、という感じだった(笑)。当時とは別の文脈で受け止め直されてはいましたけどね。たとえば、ポストコロニアリズム的な本として扱われたり。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』は、ポストコロニアリズムを代表する本だとされていますが、彼も僕の本を読んで気に入ってくれて、講演を一緒にやりたいという申し込みもあった。
柄谷 96年には、プリンストン大学のアール・マイナー(日本文学、比較文学研究者)から、正教授としてきてほしいと打診された。彼がやっていた学部長を引き継いでほしい、という話でした。英語で本が出ていなければ、なかった誘いでしょう。
――またしても名門ですね。
柄谷 いい話だとは思ったけど、プリンストンには親しい人がいなかったし、校風も保守的だった。いろいろな意味で決心がつかなくて、結局断りました。そのあとも、サイードからニューヨークのコロンビア大学の教授に、デリダからカリフォルニア大学のアーバイン校の教授に誘われました。親しかったマサオ・ミヨシ(アメリカ文学者)からもカリフォルニア大学サンディエゴ校の教授になってくれと。
いま考えると、僕は90年代半ばには外国に行くつもりになっていたんだね。だから、というわけじゃないけど、98年に、彼女(妻の凜さん)に求婚したんだ。いろんな意味で生まれ変わるというか、死に変わるというか(笑)。一人で行くのは嫌だということもあったしね。
――凜さんは、インドのデリー大学の哲学科中退を経て、ケンブリッジ大学の神学宗教学部を卒業したばかりだったとか。後にはユダヤ教に関する翻訳なども手がけられているんですよね。
柄谷 ええ。再婚も含めて、90年代の終わりに僕は再生したんです。移住に関しては、浅田(彰)君は、そんな必要はないんじゃないですか、通っていればいいんですよっていう意見だった。でもそのときは、本当にアメリカで読まれるようにするためには、向こうで本を出したり講演したりしているだけじゃだめだ、と思っていたんだよね。『トランスクリティーク』の英訳も出ることになって、この本さえあればアメリカでもずっとやりやすくなると思っていたし。
――凜さんに当時の柄谷さんについてお聞きすると、「快活で自信にあふれていて、飛ぶ鳥を落とす勢いだった」と。「日本でも外国でも、どんな批判がきても、赤子の手をひねるようにやすやすと反論できたし、矢でも鉄砲でも持ってこい、という感じだった」とお話しされていました。
柄谷 そうか。そうだったのかもしれない。英語は得意とはいえないのに、大切な局面では、ほとんど超能力のような感じで相手の言っていることが分かったしね(笑)。
――最終的にアメリカ行きについてはどう決断したんでしょうか。
柄谷 2000年の1月に、移住するつもりでニューヨークに引っ越しました。97年からコロンビアの客員正教授になっていたから、いよいよアメリカでやっていこうと思っていた。しかし、その翌年から予想外のことが重なった。一つは、9・11です。
僕は、その時には関西にいたんだけど、1週間前にニューヨークから帰国したばかりだったからあぜんとしました。そのあと、アメリカの社会も大学も急速に変わってしまった。反イスラムの空気が強くなって、右傾化したんです。コロンビア大学も、精彩がなくなって。9・11のせいだけではなくて、それ以前から進行していたことが一挙に表面化した、ということなんでしょうけど。
それに加えて、日本に長くいなければいけない事情が重なって、アメリカへの移住を阻む方向に、いろいろが動いていったんです。それで、アメリカ行きのことはしばらく棚上げにしてあらためて考えよう、ということにせざるをえなくなった。
――アメリカに残っていればよかったと思うことはないですか。
柄谷 ないですね。どこに行っても狭いんですよ、結局は。専門に閉じこもる傾向はどんどん強くなっていったしね。
アメリカ行きは断念したけれど、そのあと思いもかけないところから、いろいろな連絡がくるようになりました。クルド人運動家で獄中にいる人とか、アメリカの神学校の教授だとか。しばらく前には、ウルグアイのムヒカ元大統領から著作に推薦文を頼まれて、驚きました。ラテンアメリカの運動家や政治家からの連絡は、コンスタントに来ているんだけど、ここ数年さらに活性化してきました。世界的に社会運動が破産したように思える今だからこそあなたの理論が希望だ、というふうに言われるのは、何よりうれしいですね。
僕の希望的観測かもしれないけど、『力と交換様式』の英訳が今年出るから、それで交換様式について知る人が増えるんじゃないかな。交換様式論というのは、僕の実感だと、まだ全然広まっていないし、理解されていない。だけどこれは、これから長く続くであろう戦争と動乱の時代にこそ必要なものだと思っているんです。
(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、交換様式論の着想についてなど。月1回更新予定)