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日本語に普遍性と公正さをビルトインする ——片岡義男著『日本語の外へ』書評(評者:仲俣暁生)

記事:筑摩書房

英語と日本語への熟考が、やがて読み手を世界の認識の根源まで導く鮮やかな思考の書。
英語と日本語への熟考が、やがて読み手を世界の認識の根源まで導く鮮やかな思考の書。

日本語という制約

 人の意識を規定するものは言語である、という考え方はそれほど突飛なものではない。しかし言語がある国の文化や歴史、そこに生きる人の精神のあり方をどこまで根底的に規定するものであるかは、議論が分かれるところだろう。片岡義男は、日本人にとって日本語の「性能」がもたらす限界は根源的だと考えた。本書が一九九七年に刊行されたとき、その言明の激しさはどこまで真摯に受け止められただろうか。
 日本とアメリカ、この二つの国をそれぞれの言語という視点から論じた短いエッセイを連ねたこの本は、全体としてみれば一つの長大な国家論・言語論となっている。同じ主題がなんども繰り返され、読者は次第に片岡の独特の言語観、そして国家観に対して自身の立場表明を迫られる。
「母国語は、それを母国語とする人たちを、思考や感情など人間の営みのすべての領域において、決定的に規定する。母国語を母国語らしく自在に駆使すればするほど、母国語の構造と性能の内部に人は取り込まれていく」(「母国語の性能が浪費される日々」)。これは本当だろうか。
 一九九〇年代という時代は、冷戦後の新しい国際秩序が形成され、個人と社会の関係においても大きな組み換えが始まった時期だった。その新しい原理をわかりやすい言葉でいえば、グローバリゼーション、あるいは新自由主義ということになる。そうした趨勢がはじまった時期に片岡がこの本で説いたのは、日本人の意識と行動を全面的に覆う「日本的システム」とでもいうべきものが、日本語という言語が原理的にもつ制約から来ているということだった。
 たとえば当時の日本の(めずらしく英語に堪能だった)総理大臣が話す英語などを例にとり、片岡は「日本人の話す英語」がなぜ、本当の意味での英語になりえないのかを繰り返し論じる。日本語話者である片岡がそれを日本語で指摘できると信じうる理由は、彼が「日本(語)」と「アメリカ(語)」のいずれにも全面的に帰属しない、中間的な場所にいると自覚しているからだ。片岡にとっては日本語もアメリカ語も、決定的なところで「母国語」になり得なかった。

四半世紀のち、今あらためて本書を読む意義

 四半世紀以上の歳月が経ってこの本をあらためて読み返すと、第1部「アメリカ」で論じられる米国社会の疲弊と分断は、いっそう進んだように思える。クリントン民主党政権の誕生はリベラル・デモクラシーの勝利を意味せず、その後の共和党・民主党政権の繰り返しを経て、二度目のトランプ政権の誕生という結果を生んだ。一九九〇年代にどん底にあったアメリカ経済はデジタルネットワーク社会の覇者となった巨大IT企業が先導する好景気で沸き立つものの、「国家」としてのアメリカ合衆国はいまなお深い分断のもとにある。
 同じ時代を日本は「失われた三〇年」として過ごしたが、片岡が徹底的に批判の対象とした「日本的システム」はその間にかなり壊れたといっていい。そしてアメリカ社会の疲弊と崩壊を追いかけるように、分断とその固定化が進んでいる。その意味で第2部「日本語」のなかで論じられている主題のいくつかは、もはや懐かしささえ感じるほど過去のものになっている。
 では、刊行から四半世紀近い歳月を経て、いまこの本を読み直す意味はどこにあるだろうか。言語論・国家論という体裁をもつ本書の真の主題は、普遍性と公正さ、その根拠となるべき論理と、日本におけるその不在にある。閉鎖的な「日本的システム」が解体され、グローバリゼーションに参加すればすべてが解決するということではないし、日本人が日本語を話すことをやめ、アメリカ語で話すようになれば普遍性と公正さがそなわるということでもない。
 日本語による思考と行動そのもののうちに、私たちは普遍性と公正さ、論理性を、あらためてビルトインしなければならない。その指摘に対して四半世紀前に震撼しそこねた人々は、いまこそ震撼すべきである。

片岡義男『日本語の外へ』(ちくま文庫)
片岡義男『日本語の外へ』(ちくま文庫)

『日本語の外へ』目次

第1部 アメリカ
湾岸戦争を観察した
 八月二日、軽井沢、快晴
 犬にでもくれてやれ 
 ウエイ・オヴ・ライフを守る 
 町を囲んだ黄色いリボン 
 「日本はアメリカとともにあります」と首相は言った 
 「神の目から見れば」 
 仕事をすませて家へ帰ろう 
 大統領の得点 
 帰って来る死体の映像 
 ヘリコプターは上昇し飛び去った 
 メモリアル・デイにまた泣く 
 第九条
 
フリーダムを実行する 
 個人主義にもとづく自由と民主の視点 
 真実はまだ明かされない

遠近法のなかへ
 『クレイジー』というテーマ曲 
 エルヴィス・プレスリー・エコノミックス 
 現状は好転していかない 
 「彼らはとにかく頑固だよ」 
 ラディカルさの筋道 
 ヒラリー・ロダム 
 ヴァージニア・ケリーの死 
 グレン・ミラー楽団とともに 
 もっとも良く送られた人生 
 大統領が引き受けたこと 
 小さく三角形に折りたたんだ星条旗 
 煙草をお喫いになりますか 
 午後を過ごす最高の場所 
 キノコ雲の切手 
 ジープが来た日
 ちょっと外出してピストルを買って来る 
 キャロル・ホルトグリーン 

第2部 日本語
世界とは母国語の外のこと
 薄い皮だけがかろうじて英語
 懐かしいネガティヴ・ステレオタイプ 
 頭のなかが日本語のままの英語
 「モースト・インポータント」とは? 
 母国語の呪縛の外へ 
 IとYOUの世界 
 生まれながらにして客観をめざす言葉 
 現実のしがらみと「私」 
 利害の調整、という主観の世界
 動詞とは個人の責任のことだ 
 話しかたと聞きかたの洗練 
 アメリカ国内文脈ではなく、世界文脈の英語を

母国語の性能が浪費される日々 
 人生のすべては母国語のなかにある 
 母国語は「いつのまにか自然に」身につくか 
 母国語の性能と戦後の日本 
 江戸から円高まで――日本という試み 
 あらかじめ約束されていた結果

ペシミズムを越えようとしていいのか
 資本主義への合流車線
 遠く懐かしい文化論の時代 
 真の文化とは時間の蓄積だ 
 僕の国は畑に出来た穴だった 

解説 高橋源一郎

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