「ネイティブに笑われない英語を」なんて教室の宣伝文句が未(いま)だにあるが、言語に「本場」や「正統」があるという考えは根強い。しかし最近はこうしたネイティブ信仰を揺るがす、第2言語で創作する作家の活動が目立つ。昨年の野間文芸賞はリービ英雄、上半期芥川賞は李琴峰、そしてグレゴリー・ケズナジャットが京都文学賞を射止めた。
ケズナジャットの『鴨川ランナー』(講談社)収録の2作は、アメリカ人英語教師の戸惑いを通して、最強のグローバル言語である英語の“挫折”を日本語で描ききっている。英語のネイティブに期待される像と、現実の自分との隔たり、その違和感を作者は「きみ」という二人称を表題作の主語にすることで表現した。これは言語間の線引きをぼかし、物語を解き放つ手段でもあったと言う。
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言葉の正統性とはなにか? ここで、非母語作家についても詳論するレベッカ・L・ウォルコウィッツ『生まれつき翻訳』(佐藤元状、吉田恭子監訳、松籟社)を紹介したい。翻訳という行為を通じた世界文学論であり、主に英語文学をとりあげるが、それによって英語の覇権を強調するのではない。むしろ英語の一強主義に多彩で創造的な疑義の網を投げかけるのだ。
扱われるのは、「翻訳されるのを見越して書かれた作品」「他言語で書かれたふりをした作品」「翻訳のふりをした作品」「作者と翻訳者が協働する作品」というユニークさ。カズオ・イシグロは翻訳されるのを前提に、イングランドでしか通じない単語や言い回しは避けて書くし、J・M・クッツェーは英語の原作よりオランダ語の翻訳版を先に出版してしまう。作者特権の放棄を示すことで、オリジナル(本物)VS.派生物(紛〈まが〉い物)という図式や権威主義を突き崩そうとする戦略だ。
最近の日本でいえば、デビュー作にして先日読売文学賞を受けた川本直の『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』などは「生まれつき翻訳」の最上の成功例と言えるだろう。入念な仕掛けで翻訳書に擬態し、作者/訳者の“共謀”によって米文学史の正典をひっくり返してみせた。
言語ヘゲモニーを転覆させる作家といえば、多言語使いの多和田葉子だが、「群像」連載中の「太陽諸島」を含む三部作も痛快の極み。母国喪失した主人公は「パンスカ」というお手製の混合語を駆使し、一方、英語は警告や罵倒や無感情の発語などに使われ絶妙な批評を感じる。
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今月は、詩人や翻訳家らによるシンポジウム「詩の翻訳、詩になる翻訳」(文学界3月号)も刺激的だった。ウォルコウィッツは翻訳を原作の下位に置かず、作品は単一の著者や言語に支配されるものではないと断言するが、これと響きあう発言を伊藤比呂美もしている。詩が他言語に翻訳できないと言う「原文原理主義」は「傲慢(ごうまん)」だとし、「自分の言語にふんぞり返ってるようなものじゃないですか」と喝破するのだ。
詩作の源泉を語る四元康祐が、英詩とその邦訳を並べて読むうちに、その亀裂の奥に詩が見えたという言葉にもはっとさせられた。そう、翻訳とは時に世界の生の姿を露(あら)わにする転換装置なのだ。
それを如実に示しているのが、遠藤周作の多層的な戯曲「善人たち」(新潮3月号)である。日米戦争開戦2年前、日本人神学生がNY州の町で牧師補トムの家に預けられる。従順な彼コウキチが地元に温かく迎え入れられる一方、かつて恥ずべき行いをしたとして父親に排斥されたトムの姉が都会から帰宅しても周囲は冷たい。基督教のドグマと家督の「父」の教えが重なりあい、基督教の善意と優位者の傲慢が交錯する。
幕開けと幕切れは南島の戦場が舞台だ。トムは自分とコウキチには基督教という「共通の言葉」があると言うが、大半が英語で語られている(はずの)本作も「生まれつき翻訳」の効力を発揮する。英語が苦手な日本人の科白(せりふ)は拙(つたな)い日本語で表現され、英語ネイティブの科白は流暢(りゅうちょう)な日本語で書かれるという皮肉な言語の疑似反転によって、善意の背後に隠れた力関係の圧倒的な不均衡や、心の揺らぎが露わになる。
『生まれつき翻訳』の巻末鼎談(ていだん)では、2種類の翻訳が提示される。原文をひとつの正しい意味に落としこもうとする「チャンネル」型の翻訳と、複数の意味の可能性を開放しようとする「プリズム」型の翻訳だ。「翻訳」は「小説」と言い換えてもいいだろう。=朝日新聞2022年2月23日掲載