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母語の外で書く 言語の隙間がもたらす解放 鴻巣友季子〈朝日新聞文芸時評2022年10月〉

青木野枝 Plasmolysis 2

 英国のEU離脱の根底には英語話者の外国語嫌い、それによる欧州での孤立があるのではといわれる。EUの代表者らと協働できるような語学力と文化意識をもつ人材が足りない現状もあるようだが、こうした言語的ひきこもりは経済にも響いており、日本も他人事(ひとごと)ではない。

 今後、通訳機などの発達でコミュニケーションは楽に広がるだろうが、異言語との摩擦が減ることで深層にある思考空間は狭まる方向にいくのではないか? そうした今、ドイツに在住し言語を越境する作家多和田葉子の提示する「エクソフォニー」は再評価を要するだろう。母語の外に出て考え書くことを意味し、世界文学論や文化論に欠かせない概念だ。

 その多和田が欧州を広く舞台にしたのが『地球にちりばめられて』『星に仄(ほの)めかされて』『太陽諸島』の三部作(講談社)である。語り手の1人は北欧留学中に母国が消失したらしいHiruko。最終巻『太陽諸島』では主要人物6人がHirukoの母国の現状を探る船旅に出る。

 Hirukoは手製の混合語「パンスカ」を使うが、デンマーク語、独語、英語、日本語なども飛び交い、言語がスイッチするたびに人の話す内容も語調も変化する。軍艦の暴力性丸出しの姿にむしゃくしゃした者はあえて非母語の英語で悪態をつき、またある者は英語では建前を、母語では本音を漏らす。言語の変化は思考に確実に影響を与えている。

 本三部作は、多民族の集まる欧州間の政治的衝突や文化的齟齬(そご)を浮き彫りにすると同時に、個人が直面する全体主義の潮流や、逆に自由と平等を謳(うた)いながら権威にへつらい弱者を排除するグローバリズムに抗する物語でもあるだろう。

 しかし多和田は武器をもって突撃しない。力でなにかをねじ伏せて達成感に酔う集団に疑いの目を向け、かわす、こける、投げだすなどの手段で対峙(たいじ)する。『星に仄めかされて』でもアメリカ商業映画に見られるような固定観念や差別意識を転換させていくが、「ちょっとずれていたり、抜けていたり、ボケていたりする」という医師の言葉は多和田文学の真髄(しんずい)をついているだろう。私は多和田式の武器なき戦術を「ズレ、ヌケ、ボケの術」と呼んできた。本三部作でも物事の解決や完遂はほとんどなく、企図は次々と頓挫する。それが爽快なのだ。

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 グレゴリー・ケズナジャット「開墾地」(群像11月号)の主人公ラッセルもエクソフォニーの人である。日本人社会の寂れぶりが目立つサウスカロライナの町に生まれ、再婚した母が家を出た後は、イラン出身の養父独りに育てられ、日本の大学に留学した。久しぶりに帰った家を鬱蒼(うっそう)と覆う葛(くず)は、彼の閉塞(へいそく)感の表れにも見える。彼は母語である英語の世界にいるほうが逃げ場がなく、思考の自由を奪われたように感じるのだ。母語は文字通り母が話していた言語。彼の恐怖の源は母という理不尽な存在にある。米国の町に同化せずイランの故郷に戻ることもしなかった父とラッセルは、微弱な共振の波を通わせながら1週間を過ごす。

 彼は終盤で言う。「英語に戻ることも、日本語に入り切ることもなく、その間に辛うじてできていた隙間に、どうにか残りたかった」。これは、多和田の「わたしはA語でもB語でも書く作家になりたいのではなく、むしろA語とB語の間に、詩的な峡谷を見つけて落ちて行きたいのかもしれない」という『エクソフォニー』の言葉と響きあうように思う。

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 カナダの詩人アン・カーソン『赤の自伝』(小磯洋光訳、書肆侃侃房)は、ギリシャ神話「ゲリュオン譚(たん)」の翻訳から生まれた快作だ。ステシコロスが書いたこの神話は当時の前衛だったらしい。英雄ヘラクレスではなく退治される怪物の視点から物語り、決まりきった形容字句を廃していった。カーソンは現代英語の外に出て古代の異言語を翻訳することで閃(ひらめ)きを得たのだろう。その舞台を20世紀に移し、同性愛カップルの旅の物語に翻案した。ゲリュオンは母に抑圧され兄には性的虐待を受けながら翼を隠して生きるマイノリティーとして、ヘラクレスは気まぐれで冷淡な少年として蘇生する。

 古代ギリシャの叙事詩の雄々しい韻律をすて、カーソンが採ったのは抒情(じょじょう)的で韻律のないヴァース・ノベル(詩と小説の融合)の文体だ。内容、形式とも悉(ことごと)く「男のヒロイズム」の足を払って痛快。エクソフォニーのもたらす解放を感じた。=朝日新聞2022年10月26日掲載