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西田幾多郎と松下幸之助

記事:春秋社

西田幾多郎肖像(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
西田幾多郎肖像(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

3、働きつつ見る、働きつつ学ぶ

 働くことは、自己の存在証明であり、それは一般的に言えばある種の「学び」を伴うものである。働くことを通じて、人は人生における重要な何ものかを学び取ることができる。

 西田はこれより一歩進めて、働くことが、学びそのものと考えている。彼はこの「学び」をしばしば「見る」と言い換えている。人が何か「見る」ということは、何かを認識ないし、理解していることであり、知見を広げたり堅固にしていったりしているとも言える。西田は以下のように言っている。

 主客合一の立場に於ては、知即行である、フィヒテの云つた如く働くことが知ることである。(NKZ4-28)
 我々が現実の世界に於て働くといふ時、我々の行為は単なる運動でもなければ単なる意識でもない。我々は一歩一歩に物を見て行くのである。(NKZ7-343)
 見るといふことと働くといふこととが矛盾的自己同一として、形成することが見ることであり、見ることから働くと云ふことができる。(NKZ9-168)
 私の見ると云ふのは無作用的作用型的に働くことである。(NKZ10-51)
 何処までも自己自身を限定する事実として、我々の自己の存在をも事実として限定せんとする絶対現在の自己限定の尖端に於て、物と我との矛盾的自己同一的に、即ち行為的直観的に我々の自己の自覚と云ふものが成立するのである。そこには真に見ることが即働くことであり、働くことが即見ることである。(NKZ10-86)
 我々の自覚に於て、働くことが知ることであり、事実が事実自身を知る。……而もそれは単に内からと云ふのではなく、我々の自己は外から呼起されるものでなければならない。(NKZ10-375)
 我々の自己が矛盾的自己同一的世界の個物として、創造的世界の創造的要素として働く所に、我々の自己が実存するのであり、かかる矛盾的自己同一の過程を直観と云ふのである。即ち我々の自己が、矛盾的自己同一的に、物となつて働き、物となつて見る所に、我々の直観があるのである。(NKZ10-451)

 西田の場合は、働くことで何か学べるものがあると考えるよりは、人間が真に何かを「見る」あるいは「知る」ことは、働くことであると考え、真の意味で「働く」ことが「即見ること」と考える。そこに一切の働きがなければ、一切の「見る」「知る」という行為もありえない。働くことと知ることは、同じことの裏と表のように西田は見ている。これを西田は「行為的直観」と術語化している。

 働くことは一種の行動である。西田も「行為的直観」と言うように、「働く」を「行為」としばしば言い換えている。この言い換えが可能ならば、高神は頻繁にこの問題を取り上げている。

 知恵の眼を覆い隠す垢をとり除くようにつとめて、絶えずその仕事に努力し、精進することが肝腎です。なんといっても智目と行足の並行です。知恵を眼とし実行を足として、絶えず努力してゆけば、必ず成功の彼岸に到達するのです。……なすことで学べ、といいます。事上磨錬といいます。人格と技術、技術と人格とをつねに合致せしめてゆくこと、それが私どもによって一番大切なことです。(TKS6-43)
 元来人間は、脚なくて頭だけで歩けるものではありませんが、同様に頭なくて脚だけでも歩けるものでもありません。頭と足とによって始めてそこに正しい人間の歩みがあるというきわめて平凡なことをわれらはいま一応お互に考え直してみる必要があるかと思います。(TKS6-221)
 心の垢をとりはらい、智慧の眼を覆い隠す垢をとり除いて、絶えず努力しつづける事が肝腎である。なんといっても智慧を眼とし、実行を養うことである。智目と行足である。所詮、人生の理想への道は、自覚と努力である。それより外によき方法はないのである。『なすことで学べ』、事上磨錬ということばがある。人格と技術、技術と人格の二つとを、つねに一つに合致せしめてゆくこと、それが私どもにとって一番大切なことである。(TKS7-289)

 高神は「仕事に努力し、精進する」ことを「行足」や「実行」と言い換える。西田の言う「行為的直観」を「なすことで学べ」という当為の言い方で分かりやすく言い換えている。あるいは、元々真言宗の僧侶として持っていた知識を用いて、西田の哲学をこのように解釈したのかもしれない。

 また、高神は八正道について説明する際に次のようにも言う。

 この八道のうちで最も肝腎なのは、なんといっても「正見」と「正精進」とである。正見とは正しい見方、正しい人生観世界観である。何を正しく見るか。それは仏教の根本原理である「因縁」の原理をはっきり認識することである。次に正精進とは正しい努力である。因縁の原理をあきらめて、われわれの日常の生活の上にしっかりあらわして行くことが、苦を離脱して、さとりへ赴く唯一の方法である。……何事も「知る」だけではいけない。「行う」ことがなければ、ほんとうにものを活かしてゆくことはできない。(TKS7-317 〜318)

 八正道のうち、あえて「見る」と「精進」を強調していることから考えても、高神の思想は西田と方向性を同じくしていると言える。

 同様のことを、松下はより端的に述べている。

 自分の体験から申しますと、働きつつ学ぶといいますか、これがいちばんいいと思うんですね。学問をするということも結構ですけど、やはり実地の体験の場をもって、学びつつ実験をしていくということです。社会といいますか、会社といいますか、職場といいますか、そういうところはいわば道場ですから、人間形成の上に非常に役に立つんじゃないかと思うんです。
 私は学校に行っておりませんけど、それでも多少ともやってこられたのは、実社会の中で庶民生活をしていた、それがいつも道場であり、体験を重ねつつ人々からいろいろ教えてもらってきたからです。それである程度仕事もできたわけです。(MKH15-18)

 三者とも日々の仕事の中に悟りやある種の気づき、ないし学びがあることを捉えようとする。近代資本主義の労働に仏教の修行と同等の意味を認める思想は、高嶋米峰が切り拓いた新仏教の思想であり、友松圓諦、高神覚昇が全日本真理運動を興して世に広めた思想であった。高嶋が跋を書いた清泉芳巌『禅話 働きながら悟る』(大東出版社、一九三七年)はその題名が、三者の共有した思想を明瞭に現している。西田はこれを「行為的直観」と呼んで現に我々が行っていることとし、またそれをより普遍化しようとする。高神と松下は、これを当為の主張としている。存在と当為の相違はあれ、三者の思考は同じ方向性を有している。これをやや抽象化し、一般化した思想について、次節で述べる。

(『西田哲学の仏教と科学』「第二部「科学を考へ直す」第八章 経済学 働く人の哲学 pp.269-274より転載)

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