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「責任を引き受ける」とは、どういうことか――小さな哲学的考察(後編)

記事:春秋社

弱い責任と物語的責任の交錯――星の王子さまより
弱い責任と物語的責任の交錯――星の王子さまより

(前編はこちら)

選択と決断が自己形成へと繋がる

 「私」が他者を傷つけたとき、その行為はいかようにでも解釈し直すことができる。「私が他者を傷つけた」と、その責任を引き受けることもできれば、「私は他者を傷つけていない」と居直ることもできる。そうした解釈の多様性に決着をつけさせる確定的な基準はない。そうであれば、誰だって自分の責任を回避することが、望ましいと思うものではないか。そうであるにもかかわらず、それでも「私」が自分の責任を引き受けようとする、ということは、なぜ起こるのだろうか。

 この問題を考えるうえで、ジャン=ポール・サルトルは興味深い思考実験を挙げている。あるところに、苛烈な暴政によって支配された国に生きる、一人の若者がいる。その若者は母親と二人で暮らしていた。ある日、彼は仲間たちからレジスタンスに参加することを誘われる。レンジスタンスになれば、戦士として権力と戦うことになる。当然、母親のもとを去らなければならないし、場合によっては命を落とすかも知れない。もしも若者がレジスタンスに参加すれば、母親は悲嘆に暮れるだろう。しかし、その暴政に対して沈黙することは、彼の正義に反している。

 この若者は、どちらかを自分の行為として選択しなければならない。そのとき、選択の根拠になるものは何だろうか。サルトルによれば、そうした根拠になる確定的な基準など存在しない。だからこそその選択は一つの決断であり、その決断に対して若者は責任を負うのだ。この二つの選択肢のうち、どちらかを選び取るとき、それはこの若者の人生がある決定的な仕方で、取返しのつかない形で、形成されてしまうということを意味する。しかし、見方を変えれば、それが決断であるからこそ、その選択に対する倫理的な判断の余地が生まれる。それは、「私」が何者でありたいのか、という観点から、「私」は決断するということだ。決断が自分自身を形成するからこそ、どんな自分を形成したいのか、という観点から、何を決断するのかも導かれていくのである。

「深い評価」と物語

 チャールズ・テイラーは、こうしたサルトルの事例を取り上げながら、この若者の決断が自分自身の人生に対する「深い評価」に根差したものだと指摘している。それは言い換えるなら、自分が何のために存在するのか、という根本的な水準で、目の前の選択を吟味することだ。そうした出来事は、日常生活のなかでそう何度も繰り返されるものではない。しかし、人生の重要な局面において、私たちは深い評価によって物事を選択する。それは自分が何のために生きているのかを選択することでもあるのである。

 テイラーは後に、こうした選択によって形成される人生のあり方を、物語と呼んだ。人間が何のために生きているのかは、物語によって表現される。それは、常に前後の出来事によって意味づけられているのであり、過去と連続しながら、未来を先取りする形で、描き出される。私たちは、人生の重要な局面において、自分の人生の物語に基づいて物事を選択しているのであり、またその選択が、物語を完成させていく。そのように考えるなら、自分の人生の物語と首尾一貫するために必要である限りにおいて、人間は自分にとって負担となるような責任も、引き受けることを選択することができる。

物語の持つ弾力性

 ただし、物語は決して決まりきったものではない。むしろそれは、新たな出来事に直面することで影響を受け、変化し、書き換えられていく性質を持つ。物語にはそうした弾力性が認められるのだ。しかも、そうした物語の書き換えは、単に新しい出来事が追加されていく、ということだけではなく、それ以前の出来事の意味を訴求的に訂正する、ということをも含む。この意味において、物語の弾力性は訂正可能性を持つのである。

 しかし、そこには危うい側面も存在する。物語が訂正可能であるなら、「私」がいまどんな選択をしようとも、それは後から訂正し、正当化できることになってしまう。たとえ人生の物語を逸脱するようなことをしても、どうとでもすることができる。そうであるとしたら、結局のところ、自分の人生の物語と首尾一貫した選択をしようという動機は、極めて不確かなものに過ぎないことになってしまう。それどころか、それは、後からどうとでも物語化することができるのだから、いまどんなことをしても構わない、という無責任な居直りを正当化することにさえなる。

 そうした無責任さを回避するために要請されるのは、訂正可能な物語のなかで、あえて、訂正できないものを維持することである。もちろん、物語は常に訂正可能なのだから、そうしたものは反事実的なもの、仮想的なものに過ぎない。しかし、そうして訂正不可能なものを設定すること以外に、私たちが訂正可能性の無責任さから免れることはできない。

責任を引き受けるとは、かけがえのない自分を肯定すること

 訂正不可能なものとは、いったい何だろうか。それはたとえば、これを譲ってしまったら、もはや自分を自分だと思えなくなってしまうようなものである。そうしたものをあくまでも保持すること、それを守り抜くための選択をすることが、人生の物語と整合する決断への動機となるのである。

 「私」が他者を傷つけたとき、どのようにして、その事実を引き受けることができるのだろうか。それを左右しているのは、その事実から目を背ける自分を、自分の人生の物語の主人公として受け入れられるのか、ということだ。責任を引き受ける、ということは、この意味において、人生の主人公として生きることでもある。それは、責任という概念から普通に連想される重苦しさとは裏腹に、自分自身の人生を肯定するポジティブな一面に気づかせてくれるのではないだろうか。

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