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「親ガチャの哲学」戸谷洋志さんインタビュー 生まれる環境は選べない。では、どう乗り越える?

戸谷洋志さん=篠田英美撮影

「親ガチャ的厭世観」の正体は

――「親ガチャ」に着目した経緯を教えてください。

「親ガチャ」は、2010年代から主にインターネット上で使われていた言葉でした。特にここ数年は非常に広く社会に浸透してきて、何か時代の空気を反映するキーワードになりつつあると思っていました。その一方で、テレビでは著名人が「親ガチャ」という言葉に強く反発を示していました。「親ガチャ」なんて馬鹿らしいとか、親に申し訳ないなどと頭から否定していました。

 私はすごく違和感があったんです。人々の生きづらさを反映した「親ガチャ」という言葉が浸透してきている。同時に、それに対してものすごく反発する人も社会の中にいる。このいびつな関係の背後には、何があるのかと思いました。「親ガチャ」という言葉を語らざるを得ない人々の生きづらさは一体どこにあるのか。それを探求したいと思って、この本を書くことになりました。

――そうした生きづらさを本書では「親ガチャ的厭世観」と表現していますね。これはどういうものでしょうか。

 生まれてきた家庭環境によって、人生の選択肢が大きく制約されてしまう。だから自分の人生を変えることはできないと最初から諦めてしまっている人生観のことです。自分の人生がすべて決まっているので、何かを成し遂げようとも思わない。成功している人を見たら「生まれた環境が良かったからだろう」と考えてしまう。つまり、親の功績になっている。そうすると、自分の人生を自分ごととして感じられなくなって、あたかも他人ごとのように眺めてしまう。そのように自分自身に対して冷めた眼差しを向けてしまう状態が、この厭世観の内実なのかなと思っています。

――自分の人生がうまくいかないのは、親の責任だと考えるのが「親ガチャ」です。改めて責任とはどのようなものでしょう。

 責任は、意志の概念とセットで出てくる概念です。つまり、近代以降の人間観では、人間は自由意志を持っていて自分の行動を自分で選択することができる。その代わり、自分が選択したことに対しては責任を負わなければならないとされます。

 例えば、私がペットボトルを手で持ち上げるとしましょう。これは「私がペットボトルを持ち上げるという意志を持って持ち上げた」と説明されます。逆に私はペットボトルを持ち上げないこともできる。その2つの選択肢がある中で、持ち上げるほうを選択しているわけですね。これが意志です。

 ペットボトルが持ち上がった原因は、私が持ち上げることを選択したということにしかないわけです。したがって、自分で意志した行為の原因は自分自身にある。行為を起こした人間に責任があるというのが、伝統的な責任概念ですね。

――「親ガチャ」を考える上ではどういうポイントが重要でしょうか。

 親ガチャ的厭世観で想定されているのは、自分が生まれてきた環境によって人生が決まってしまうということです。これは言い換えると、自分の人生では意志して選択することができないことになる。だから親ガチャ的厭世観というのは、意志と選択の能力を否定する人間観です。

 これは哲学の議論では一般に決定論と呼ばれる考え方です。人間に自由意志などないのであって、すべてがある種の自然法則に従って決められていると考える。例えば、ペットボトルを持ち上げることを、決定論の立場で考えてみましょう。科学的には、脳に電気信号が走って、その電気信号が筋肉を収縮させて、持ち上げさせています。脳の電気信号はなぜ発生するかというと、生理現象のメカニズムの中で起こるのであって、それはすべて自然法則のメカニズムである。まるでビリヤード球が次の球にぶつかっていくように、自然界の出来事の連鎖の中で必然的に起こってくるわけです。

 もしそのように考えるとしたら、自分では意志に基づいて行為していると思っていることであっても、実は自然法則にしたがって最初から決定されている行為となる。意志や選択という概念自体が、実は人間の幻想に過ぎないと考える。それが決定論の基本的な立場になります。そうすると、責任を否定しないといけなくなりますね。なぜかというと、私の行為に先行する原因がさらにあるからです。

自暴自棄に陥るのは間違っている

――しかし、マルティン・ハイデガー(ドイツの哲学者)の責任概念を参考にすると、決定論の立場でも責任が生じるとのことですが。

 ハイデガーは責任を行為ではなくて、その存在から説明しているんです。つまり私が責任を引き受けなければならないのは、私が私であるからだといいます。ハイデガーは決定論的な行為の連関、つまり自然現象の連鎖の一つとして私が何かをすることが仮に正しいのだとしても、それでも人間は責任の主体でありうる可能性があるんだというんです。

 例えば今日(2024年2月27日)、私がペットボトルを持ち上げることは、決定論の立場で考えると、宇宙が始まった瞬間から決まっている。しかし、今日このペットボトルを持ち上げた人間が私であるということは、決して説明できないのだとハイデガーは考えます。つまり、私たちはある自然現象の連鎖の中で生まれてくるし、もしかすると決定論的に何もかも行為が決められている世界に生まれてくるかもしれない。しかし、その生まれてきた人物に私がなったということは、つまりその人物として私が生まれてきたということは、説明がつかないんだと。

 そうだとすると、私の行為に対して私は何も意志していないかもしれない。しかし、その人間に私がなっていることには何の理由もなくて、それ以上遡れる原因がないんですよね。とにかく、なぜか私は私なんです。だから、私は人生を引き受けないといけないというんですね。

――「親ガチャ」を捉える上でどのような示唆があるでしょうか。

 人は生まれてきた家庭環境によって、人生の選択肢がある程度制約されるのは否定できないことです。ただ、そこで自分の人生は何も変えられないんだ、自分の人生として引き受けることは無意味だと、自暴自棄に陥るのは間違っていると思っています。

 たとえ生まれてきた環境によって制約があるのだとしても、その人生を自分の人生として生きることはできるはずです。その確信を持つことで、自分の人生を大切にできるようになる。何か暴力に誘惑されても、それに対抗できる自己配慮や自己肯定感を持つことができる。そのように自分を引き受けるためには、いわゆる自己責任論とは違う形で、自分の人生に責任を引き受けられないといけない。その可能性を、ハイデガーを手がかりに考えました。

他者と対話する機会を

――また、社会において「親ガチャ的厭世観」で苦しむ人が救われるためには、傾聴や対話の場があることが重要だと戸谷さんは指摘していました。

 実はハイデガーの哲学には少し問題があるんです。自分の人生を引き受ける時、人間関係を断って1人で孤独にならないといけないと考えていました。しかし、私はその部分についてはハイデガーが間違ってると思っています。むしろ人間は孤独な状況において、自分自身を引き受けられる余裕を持てません。

 とりわけ「親ガチャ的厭世観」を持って苦しんでいる人々は、自分自身と向き合うことすらできないほど力を奪われているし、傷つけられている。だから、自分自身を引き受けるためには、むしろ他者とのかかわりが必要なんです。自分の言葉を受け止めてくれる誰かがいるという信頼が必要だと思います。

 そのようにハイデガーを批判した哲学者がハンナ・アーレントでした。ハイデガーは、孤独の中で人間の本来性を取り戻すと考えましたが、アーレントは他者との対話の中で、人間は自分の姿をあらわすと考えました。つまり私達は1人でいると、自分が何者であるかわからない。しかし、人前で何かを語る時に、初めてその人が誰であるかが明らかになってくるというんですね。自分の言葉を聞いてくれる他者が必要であると。

――どういう場所だと良いでしょうか?

 アーレントの議論は政治的なディスカッションの場を想定していましたが、私は対話が行われるのはささやかでプライベートな場所でもいいと思います。現代社会では、地縁や血縁に根ざした伝統的でクローズドなコミュニティーはどんどんなくなっています。マンションで隣の部屋の人の顔を知らないことも当たり前ですよね。

 そういう状況の中で、他者と対話する機会をいかに作っていくか。例えば、私自身は哲学カフェという対話型ワークショップをやっています。これは元々、1990年代にフランスで始まった形式で、制限時間2時間ほどで友情、正義、お金といったテーマを設定して、自由に語り合うんですね。僕が面白いと思うのは、たった2時間だけですぐに解散して、関係は解消するということです。本当にかりそめのコミュニティーであるにもかかわらず、そこにいる間はすごくメンバーシップを感じるんです。

 もちろん哲学に限らず、趣味について語り合う場もいいですね。カフェで友達と対話するだけでも、自分自身を見つめ直すきっかけとなる。そのように人々が対話をする空間が、いろんなところに作られていくことが大事だと思っています。