1. HOME
  2. インタビュー
  3. 社会のスマート化が進むと、人間はどうなる? 「スマートな悪」戸谷洋志さんインタビュー

社会のスマート化が進むと、人間はどうなる? 「スマートな悪」戸谷洋志さんインタビュー

戸谷洋志さん

満員電車の暴力性に抱いた違和感

――本書は現代社会にあふれる「スマート」なものの負の側面に触れていますが、なぜこのテーマで執筆したのでしょう?

 いくつか動機がありますが、一番大きかったのは、子どもの頃から満員電車が大嫌いだったんです。大学生の頃は千葉の自宅から東京の大学まで通学していました。毎朝、総武線の通勤ラッシュにつかまって、すごい苦しい思いをしていたんです。

 いつもすごく疑問に思っていました。たとえば、職場や学校では、パーソナルスペースといって、それ以上近づいたら不快に思う距離感がありますよね。しかし満員電車では、目の前にすぐ他人の顔や体があるわけです。グイグイ押されたり、突き飛ばされたり、すごく不快な思いをする。あれは暴力ですよね。でもなぜかそれが許される空気があるんです。

――確かに言われてみると、異常ですよね。

 大量の人が千葉や神奈川などから東京まで、毎日1、2時間もかけて移動する。都市のシステムを成り立たせるためには、とても効率的かもしれません。しかし効率化ばかりを追い求めると、満員電車のような生々しい暴力を見えなくさせてしまう。それを当たり前のように感じさせてしまう働きがあると思ったんですね。

 効率化を追い求める社会は、一体どこに向かっていくのか。それが私が関心のある問題でした。そうした中で、すごく象徴的な概念だったのが、政府が「第5期科学技術基本計画」で掲げている「超スマート化社会」です。

Getty Images

――どういうことでしょう?

 これは政府が今後重点的に資金配分する科学技術の分野を列挙したものです。実は20年近く何度も更新されていますが、第5期(2016〜20年)がすごく特徴的なのは、最初に未来の社会のイメージを「超スマート化社会」と掲げた上で、それを達成するためには、どんなテクノロジーが必要かを特定しているところです。

 一言で言うと、世の中をすべてスマート化していって、問題が解決されていく社会。僕がすごく疑問に思ったのは、スマートであること自体が、価値があるように語られていることです。もちろん便利になったり、工数が削減できたりすることはあるので、そういう意味では良いことなのかもしれない。

 しかし、そこで生じるネガティブな側面もあるのではないかと直感的に思いました。その時に僕の脳裏によぎったのが、満員電車の話。世の中をスマート化すると、そうした何らかネガティブな側面も出てくるのではないかと思ったんです。

人間が社会に最適化している

――本書では「スマート(smart)」という言葉の語源から考察されていました。

 「第5期科学技術基本計画」は、超スマート化社会を目指そうという割には、そもそも「スマートさとは何か」が定義されていないんです。僕はそれはすごく疑問に思いました。

 「smart」の語源を調べてみると意外だったのですが、「痛み」や「苦痛」なんです。そして「鋭い」という意味も加わって、それから今日の私たちが思うような「賢い」という意味が出てきました。今でも英語では「smart」という言葉で「痛み」を表す用法もあるようです。

 なぜ「痛み」から変わってきたのかを考えました。たとえば、タンスの角に足をぶつけると、足が痛いという感覚以外はなくなりますよね。頭がかゆいと思っていたとしても、感じなくなってしまう。つまり、痛みは感覚ですが、同時に人を無感覚にもさせるわけです。そのように、余計なことを考えさせなくするところから、「鋭い」という意味合いが現れてきて、今日の私たちの思う「賢い」という意味合いが出てくる。

 たとえば、哲学者のイマニュエル・カントはまさに、苦痛というのはある感覚であると同時に、人間を別の感覚から切断するもので、そこに苦痛という感覚の特徴があると分析しています。政治哲学者のハンナ・アーレントも、苦痛に陥っている人間は自分自身と向き合ってしまって、それ以外の外界のリアリティから孤立してしまうと言うんですね。私が感じている苦痛は私だけのものであって、それを他人に分け与えたり、わかるように伝えたりすることはできないんだと。

 こういった余計なことを感じさせないようにする性質を、本の中では「最適化」という言葉で名付けています。物事をスマート化するというのは、要するに最適化することであると解釈しました。

――具体的にはどういうことでしょう?

 たとえば、自動車はどのようになると、スマート化したと言えるでしょうか。車体が軽くなったりなど、単にスペックをよくすることは、スマート化とは呼びません。そうではなくて、人が近づいただけでセンサーが反応したり、車とスマホのアプリが連動していたり、といったことだと思います。人間がその車を使うのに支払うべき手間や工数を削減してくれるときに、スマート化したと言われるんです。

 そのようにテクノロジーというのは、それ自体が自ずと最適化するように進歩していくと考えた哲学者がハイデガーでした。彼は「集ー立(Ge-stell)」という概念で表現しています。現代テクノロジーの本質は、他の用途のために使えるように、次々と形を変えていくことだと考えました。

 これは見方を変えると、プロダクトは自分自身の目的によって存在することはできないということです。自分が関わっている他のものとの関係によって、自分のあり方を左右されてしまう。それを「非本来的」だと言うんですね。

 同時に彼は人間自身もそうしたプロダクトになってしまうといいます。典型的な例でいうと、労働がそうですね。働いていると、職場で求められている役割をこなさないといけません。本来自分には必要がなかった役割を演じないといけないわけです。

 彼は「人材(human resources)」という言葉を例に挙げています。これはまさに人間をリソース、要するに資源として扱う眼差しです。現代のテクノロジー社会では、人間は単なる資源として扱われていて、他の様々なテクノロジーに利用されるために最適化されてしまっている。それが私の解釈するハイデガーの技術論です。

 つまり、超スマート化社会とは、人間自身が超スマート化社会に最適化してしまっていると思うんですね。人間が主人なのではなく、むしろ逆にスマート化させられてしまっているのではないか。

スマートな人間が引き起こした厄災

――それはどういう問題点があるでしょう?

 システムに対してスマート化してしまうと、もちろんメリットもたくさんあると思いますが、悪いこともたくさんあります。その一例として本の中で取り上げたのが、アドルフ・アイヒマンです。ナチスドイツの将校の一人で、ユダヤ人を強制収容所に送る列車の調整などをしていました。

 ハンナ・アーレントが『エルサレムのアイヒマン』という本を書いています。その中で「悪の陳腐さ」という概念を提唱しました。要するにアイヒマンというのは、ものすごい悪意を持った悪魔のような人間だったわけじゃない。実はどこにでもいる役人に過ぎなかったんだと。そういう人が大きな犯罪に手を染めてしまったことが、非常に大きな問題だと考えていたわけです。

 一方で『エルサレムのアイヒマン』をよく読んでみると、アーレントが描いているアイヒマンは、標準的な能力の人間じゃないこともわかります。彼はめちゃくちゃ仕事ができたんですよ。たとえば、ユダヤ人を強制収容所に送るための移送計画や車両の手配においては、天才的な手腕を持っていました。

 つまり、途轍もなくスマートな人間だったわけですね。ところがそれによって、何百万人ものユダヤ人の虐殺を可能にしてしまった。優秀だったのに、ユダヤ人のことはまったく想像ができなかった。

 ここに大きな逆説があります。物事をスマート化することが、必ずしも人間にとって良い結果をもたらすわけではない。非常に大きな災厄が引き起こされることがあるのも、一面の事実なんじゃないか。それを歴史から学ぶことができるんじゃないかと思うんですね。

超スマート化社会が全体主義へ

――テクノロジーの問題にもつながるのでしょうか?

 アーレントと同時代の哲学者で元夫でもある、ギュンター・アンダースという人がいます。アンダースは人間を無責任にしてしまうところに、現代のテクノロジーの大きな問題があると洞察していました。

 つまり、システムに対して人間が最適化しようとしてしまう。自らシステムの歯車になってしまおうとしてしまう。このテクノロジーそのものが持っている問題が、政治的な全体主義を引き起こしていると解釈したんですね。

 全体主義において人々が無責任になってしまうのは、根元を探っていくとそもそも物事を最適化したい、システマチックに解決したい、そしてそのシステムの中で自分は歯車になってしまいたいという、人間の欲望があるんだと。この欲望が現代のテクノロジーを支えているのであり、そこから全体主義は立ち現れてくるんだと解釈しました。

 もしもアンダースやアーレントが超スマート化社会を眺めていたら、間違いなく全体主義だと言うに違いありません。同時に超スマート化社会の中から、アイヒマンのような人物が現れてくるのだとしても、何も不思議には思わないだろうなと思います。

Getty Images

――そうした中でどうしたらいいのでしょう?

 アーレントやアンダースが言うように、人間がシステムの歯車になることに問題があるとします。では、システムから完全に自由になって、歯車でなくなることができるのか? それはできないと思うんですね。むしろできると思うのは、すごく危険なことであると思うんです。

 それに関連して、この本で取り上げたのは、オウム真理教の問題でした。現代社会の資本主義のシステムとは別の自由な世界を作ろうとした。しかし、結果的にはそのシステムの中に人々を閉じ込めてしまい、大きな破局を引き起こしてしまいました。

 作家の村上春樹さんが鋭く分析しています。人間とは何かのシステムの中でしか生きていけない。でもひとつのシステムだけに最適化するのではなくて、別のシステムに対しても開かれていることはできる。人間の開放性とは、そうしたものでしかありえないのではないか、と言うんですね。僕もまったくその通りだと思っています。

システムを結ぶ「ガジェット」のように

――どのような心構えでテクノロジーに接していくといいでしょうか?

 本書で打ち出したのが「ガジェット」という概念です。ガジェットというのは、道具でありながらも、別のものと交換やカスタマイズができるものです。

 今日においては、電子的な機械やそれを補助する道具を指しますね。僕自身ガジェットが好きなのですが、パソコンの「左手デバイス」というものを使っています。これはボタンを押すと、特定のウェブサイトを開いてくれたりするんです。それを導入すると、他のキーボードやマウスの使い方が全部変わります。

 このようにガジェットというのは、私たちが使っているシステムの閉鎖性の外部から入り込んできて、そのシステムのあり方や回路を変える力を持っていると思うんですね。かつ、後からなくすこともできるんですよ。それがシステムの閉鎖性に抗う道具のあり方なんじゃないかと考えています。

――複数のシステムを「結ぶ」ものという表現をしていました。

 「結ぶ」というのは、「つなぐ」と似ていますが、違うんです。結ばれたものは解くことができる。正しい手順で解いていけば、必ずもとの姿のままに戻すことができるんですね。

 この解除可能であるということが、すごく大事だと思っています。異なるシステムを融合させて、ひとつに合体させてしまうことではないわけですね。

 超スマート化社会は、サイバー空間とフィジカル空間の融合が大事だと言っています。すべてを融合させようとする社会なんですよね。それは結局、私たちが生きるシステムをひとつにしてしまうことです。ひとつになってしまったシステムから、逃れられなくすることでもあるわけです。

――そうしたガジェットの考え方は、道具に限らず、人間にも応用できそうでした。

 ガジェットとして自分をイメージすることができれば、私たちは今属しているシステムがすべてではないと気づくことができます。そのシステムに最適化しないといけないわけでもない。そういう風に思いながら、システムの中で生きていくことが可能なんじゃないかと思いました。

 今、自分が携わっているシステムから離れることができるようにするということですよね。おかしいなと思ったらそのシステムを全部やめて、別のシステムの中で生きることができる。そういうエスケープ(逃げる)先を常に作りつづけておくことが必要だと思います。