大澤真幸が読む
20世紀の中頃、サルトルは思想界の皇帝だった。サルトルの文学と哲学は世界中で読まれ、彼の政治的行動が注目された。今日彼に匹敵する巨人はいない。どうして人々はあれほどサルトルに熱狂したのだろう。
サルトルは、「神の不在」を率直に全面的に引き受けた最初の(西洋の)思想家だったからではないか。彼は、「王様は裸だ」と叫んだ少年だ。カント以降の哲学者は、「神」に明示的に言及して議論を正当化することは稀(まれ)だが、なお神の存在を暗黙裡(り)に前提にしていた。しかしサルトルは「神はいない」と叫び、そこから出発した。
するとどうなるか。人間には、神から与えられた目的も意味もない。だから人間は自由だ。いや自由であるほかない(「自由の刑に処せられている」)。ここから、『存在と無』の最も重要な命題、対自存在(意識をもった存在、つまり人間)は「それがあるところのものではなく、あらぬところのものである」が出てくる。私は定まった意味や同一性もなくまず存在しており、自由な選択を通じて、未(いま)だあらぬ何者かになるほかない。「実存は本質に先立つ」(『実存主義とは何か』)も同義である。
アンガジュマン(政治参加)という考えもここから導かれる。私たちは皆状況に巻き込まれているわけだが、それは、「状況を受け入れた」ということをも含めて、私たちの自由な選択の所産である。とすれば私たちは状況に責任があり、それに積極的に関与することができるし、すべきだ。サルトルはアルジェリア戦争に関わり、反植民地主義の立場から積極的に発言した。
往時の影響力を思うと、サルトルの忘却のされ方はすさまじい。私の考えでは、それは、サルトル後の世代の思想家が密(ひそ)かにサルトルを羨(うらや)み、彼を乗り越えようとしたことの皮肉な結果である。彼らは「サルトルはもう終わった」かのようにふるまったのだ。ゆえに、サルトルという補助線を入れて読むと、超難解な構造主義以降の本も急にわかりやすくなる。=朝日新聞2018年6月28日掲載