「プロレタリア文学は「できる勇気の文学」である。」『プロレタリア文学セレクション』編者・荒木優太氏インタビュー
記事:平凡社

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——『プロレタリア文学セレクション』には25作品が収録されていますが、ラインナップを初めて目にしたとき、読者投稿欄やパンフレットも候補に挙がっていて、「これもプロレタリア文学なの?」と驚きました。
荒木優太:そうですね。せっかく本をつくるのだから、これまでにはないものにしたいという気持ちはかなりありました。私は『小林多喜二と埴谷雄高』(2013年、ブイツーソリューション)という本を初めて出したのですが、これは小林多喜二と埴谷雄高という二人を軸に、政治と文学の不思議なつながりを考えるという内容のものでした。小林多喜二を中心にしてプロレタリア文学にはずっと関心がありましたし、いつかアンソロジーに挑戦してみたいという気持ちがありました。
ただ、セレクションを編むにあたって、著名な作家中心主義ですとどこか物足りない1冊になるのではと思っていました。ですから、自分の関心領域を盛り込むことは意識しましたし、それ以外に何か面白いアプローチができないかということを考えていました。そこでまず、プロレタリア文学の通史(文学史)に関する書籍を読んだり、どういった観点で作品を選んでいるのかを知るために既存のアンソロジーを読んだりすることから取り掛かりました。
――通史を読むというのは?
荒木:通史にまずあたってみたのは、できるだけ数多くの作品の中から作品を選んでいったほうが選ばれたものの「質」、あるいは「方針」というものがより明確になっていくと思ったからです。そもそもの選択肢が少なかったら、乏しい内容になってしまいますから。また、通史はエピソードに寄り道せずに作品名が淡々と、たくさん出てくる点が非常に使い勝手がよく、重宝しました。それらの作品がそれぞれどういう関係にあるのかということを(通史の)著者の視野の中にあるとはいえ、骨格が作られているので作品をマッピングしていくという目的では便利でした。まずは50作品ほど選び、全体のバランスや現代性などを考慮しつつ、最終的に25作品になったという感じです。
——「文字という重労働」「紙は製本されずに散らばる」「女性にとって革命とはなにか?」の3部立てになっていますが、どのような想いで、またどんな視点で章立てをなさったのでしょうか。
荒木:実は最初は「海」「集団」「子供」という章も立てておりまして、全体で6、7章くらいをイメージしていました。事務的な話になってしまいますが、全体で6、7章の構成にすると予想していたページ数を超えてしまうということもあって難しいということもありました。
プロレタリア文学の外せないところ、これを外してしまったら私がプロレタリア文学を論じる意味はないのではないかと視点から作品を選んでいるうちに、2つのポイントが浮かび上がってきました。それは、「読むということ」と、「書くということ」でした。この「読む」「書く」、「読める」「書ける」ということが当たり前のことだと思わないというところにプロレタリア文学の最大の特徴があると思っています。
先ほども申しましたが、最初は6、7つのテーマがあり、それらに惹かれつつも、この「読む」「書く」は外してはならない、この2つをテーマにして作品を選び、「文字」「紙」「女性」の3つを章のテーマに据えました。
【収録作品】
第一部 文字という重労働
宮本百合子〈エッセイ〉「雲母片」
小林多喜二〈小説〉「誰かに宛てた記録」
前田河広一郎〈小説〉「灰色」
山路英世〈詩〉「印刷工の歌」
武藤直治〈小説〉「新文化印刷所」
林房雄〈小説〉「謄写版の奇跡」
府川流一〈読者投稿欄〉「便所闘争」
パラレタリア文学1 太宰治〈小説〉「花火」
第二部 紙は製本されずに世界に散らばる
徳永直〈少女小説〉「欲しくない指輪」
ドストエフスキー、幸徳秋水訳〈小説〉「悪魔」
鈴木清次郎〈小説〉「人間売りたし」
村田千代〈小説〉「ヤッチョラ」
黒島伝治〈小説〉「穴」
阿部鉄男〈パンフレット〉「どうしたら上手に謄写印刷出来るか(抄)」
片岡鉄兵〈小説〉「アスファルトを往く」
✕✕✕✕✕〈詩〉「奪へ、奪へ何でも奪へ」
パラレタリア文学2 横光利一〈小説〉「高架線」
第三部 女性にとって革命とはなにか?
平林たい子〈小説〉「殴る」
大野優子〈読者投稿欄〉「珍らしがられる仕事」
佐藤季子〈読者投稿欄〉「小学教員は講談社の社員也」
大田洋子〈小説〉「検束のある小説」
松村清子〈実話〉「廓日記」
平林英子〈小説〉「最後の奴隷」
壺井栄〈小説〉「種」
パラレタリア文学3 葉山嘉樹〈小説〉「寄生虫」
——25作品の中で読者の皆さんにとくにお薦めしたい作品を挙げていただけますか?
荒木:うーん……そうですねえ、第二部で取り上げているドストエフスキー作・幸徳秋水訳の「悪魔」ですね。成立事情を含めていろんな意味で面白い作品です。幸徳秋水といえば、1910年の大逆事件のことを思い浮かべる方が多いと思います。日本の社会主義運動が停滞の時期に入ってしまったという、大変エポックな事件で、その引き金を引いた秋水が訳している作品です。そしてこの作品の著者であるドストエフスキーはいわずと知れたロシアの大文豪で、社会主義運動の容疑で監獄に入っていたことがあります。秋水が言うには、この「悪魔」はドストエフスキーが監獄の教誨所の壁に書き残していたもので、それを別の囚人が見つけてシャツの袖に書き写して外の世界に持ち出したという不思議ないわれのある作品だとされています。
「悪魔」にはプロレタリア文学を理解するうえで2つの重要な特徴が含まれています。「壁小説」というものをご存じでしょうか。この壁小説というのは、その名のとおり、全文が壁に貼ることができるくらいの短い小説のことです。当時、労働者は過酷な労働で本を読む時間がありませんでした。そういう環境の中でも、思想や知識みたいなものに接近させるにはどうしたらよいのかと考えたときに、休み時間に読める程度の短いものがあるならばよいのではないかという思惑があって壁小説が書かれるようになりました。そういう観点において、この「悪魔」は壁小説の登場を予告させる、そんな面白さがあります。
そしてもう一つですが、この「悪魔」を読む上で注意してほしいのが、この作品では、宗教が悪役じみたタッチで描かれているという点です。マルクスの「宗教は民衆のアヘンである」という有名な言葉がありますが、来世での幸福、救済、あるいは信じる心はやがてあなたを救ってくれますよといった御為(おため)ぼかしによって現実社会の変革が遠ざかってしまうという批判、つまり偽(いつわり)の解決によって目くらましを受けているのではないかというような批判を表現したものです。「悪魔」はマルクスがいうような批判的なメッセージを戯画的に描いていまして、そこに注目していただけたらと思います。
さらに、編者解説の中でも書いたのですが、作者がドストエフスキーであるというのにも色んな嫌疑がありまして、そこはぜひ作品を読んでみて確かめてみてください。
——各章の最後に「パラレタリア文学」と冠した作品を紹介するページがあって、「花火」(太宰治)、「高架線」(横光利一)、「寄生虫」(葉山嘉樹)が紹介されています。この「パラレタリア文学」も興味深いです。
荒木:この「パラレタリア文学」というのは、パラレルでパラサイティック(parasitic)な文学を意味した私の造語です。パラサイティックは、生物が他の生物に寄生して生活したり、人間でいえば、他人や社会に依存して生活したりする様子を指す言葉で、これら「パラレタリア文学」は、プロレタリア文学といわれてイメージされる作家や作品に“寄生”してその真価を発揮させている作品です。プロレタリア文学の「あわい」がうまく表現されていて、それをふくめてプロレタリア文学の豊かさだと考えます。狭義の意味でのプロレタリア文学の定義から外れてしまうけれども、決して無視できないと考え収録しました。
——荒木さんにとって「プロレタリア文学」とは?
荒木:私はキャリア的に、“立派な媒体”の中で文章を発表してきた人ではありませんでした。この立派な媒体というのは、文芸誌や紙の本のことです。私のキャリアのスタートは、電子書籍によって毎月毎月、近代文学関係の論文を勝手に発表していくインディペンデントなものでしかありませんでした。独りよがりであると言えるのかもしれませんが、ただ、使命感を持ってやっていたという自負はあります。
そうした状況の中で勇気づけられたのが、プロレタリア文学の存在でした。プロレタリア文学には、何らかの条件や資格というものなければ書くことができない、発表することができないという抑圧的な見方を打ち破ってくれるパワーがあって、そういうところに非常にはげまされました。
今回出す本がどのような方の手元に届くのかはわかりませんが、かつて自分がプロレタリア文学に大いに勇気づけられたように、何かをするための、何かができるための、一助になれば嬉しいです。そういう気持ちもあって、プロレタリア文学はひと言で表現すると「できる勇気の文学」なのかな、といま、強く感じています。
構成=平井瑛子(平凡社・編集部)