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大学にいなくても学問はできる! 「在野研究ビギナーズ」荒木優太さんインタビュー

文:篠原諄也 写真:斉藤順子

学校の外に面白いものがある!

――荒木さんが在野研究に関心を持ったきっかけを教えてください。

 大学院の修士課程に行ったんですが、博士後期課程には落ちたんですね。その理由のひとつには、大学の指導教員が「教育免許を取らないと進学させてくれない」という方針をもつ方で、私は「教師になりたい」という意欲が全くなかったことがありました。

 それで「どうしたもんかな」と思っていた時に、自分は教育に関してはやる気はないけれども、研究と呼ばれる営みには執着があるなという反省がありました。大学の中にいないけれども研究をやるスタイルもありうるんじゃないかと考えたんですね。

 あらためて近代の様々な学問的な達成を眺めてみると、在野の人が意外に頑張って打ち立てたものがあることに気づいたんですね。それをひとつの知恵として受け止められないかなと思って書き始めたのが(在野研究者の人生を紹介した)『これからのエリック・ホッファーのために』(2016年)の元となる原稿でした。

――教育に関心がないというと、もともと学校嫌いだったんでしょうか?

 中高時代は学校の友達と仲良くするのが苦痛でしたね。私、コミュニケーションが本当嫌いなんで「面倒くせえな、くだらないな」と思っていました。それに1時間くらいひとつの場所に座ってなきゃいけない。私、堪え性がないと言いますか、集中力がないので苦痛なんですよね。

 もともと昆虫少年で、昆虫博士になりたいと思っていました。だから学校の勉強は退屈で「虫取りとか行きたいなー」と思っていた。要するに学校は合わなかったということですね。

――学校の外のほうに関心があったんですね。

 文学や出版に興味を持ったことの原体験には、そもそも「学校の外に面白いものがある」という直感があったと思います。本だって「昆虫採集のように勝手に収集して、勝手に分析すればいいじゃん」と思うんですよね。

 だから、いま仮に学問的な制度を大事にするという観点をとっても、私は学校そのものよりも図書館というアーカイブにずっと興味があります。図書館の中で色んな資料に巡り合う。その感覚はフィールドで昆虫と出会うことと似ている。「こういうレアものがいた! ゲットだぜ! ではどういう風に読み解けばいいか?」という感じですね。

――文学に関心を持つようになったのはいつだったんでしょう?

 高2の時でした。さっきも言ったように、私はコミュニケーションが本当に嫌いだったわけですが、でも人々は私に気をつかって休み時間に話しかけたりするわけですよ。私からすると「余計なお世話なんだけどなー」と思うわけですが。それに対して、どういう対処をしたらいいのか。思いついたのが、本を読んでいるふりをすることです。ブックオフの100円コーナーで買ってきた本をただ捲っていくパフォーマンスをする。そうすると人間というのは本を読む人に対して話しかけたりしないわけです。教室にいながら人と話さなくてよくなる。素晴らしい。で、捲ってる動作をたんたんと続けていくのも面倒だから、自然に文字を目で追うようになるわけです。結果的に読んでいる。読書好きの完成です。

清掃のバイトをしながら研究を続ける日々

――大学に入ってからは本を読みふける生活ですか?

 そんな感じですね。ゼミの飲み会にも行きませんでした。本当に孤独な男でしたよ。授業はちゃんとでていて、英語の授業なんかもほぼ休まないのに、赤点ギリギリだったりする、そんな毎日ですね。もともと小中高では1回も学校を休んだことがないんですよ。意外と真面目なわけです。授業はほぼ聞いていないけれど学校は休まない。そういう生真面目さが、私を学校嫌いにさせているのかもしれません。逆にね。

――大学を出てからは清掃のバイトをしながら、研究や原稿の執筆をしているそうですね。毎日どんな生活なんでしょうか?

 朝5時に起きて、出勤して清掃する。昼前に家に帰ってきて、飯食って午後から論文を書いたり、本を読んだりする。図書館に行くこともあります。17時に犬の散歩をして、飯を作って食う。毎日そんな感じですかね。ただ最近、勤務先のビルが建て直しをする関係で清掃のバイトを辞めてしまったので、年明けくらいにまたバイトを探そうと思っています。

――荒木さんにとって、労働と研究の関係性とは?

 研究と賃労働を結びつけたいと思うタイプもいるのですが、私はその2つは区別したほうがいいかなと思っています。そのほうがどちらにもいい効果があるように感じます。私の労働は肉体労働なわけですけど、毎日の工程が同じで、筋肉の動かし方もほぼ同じ。そういう機械的な肉体労働は、実はものを読み書きする行動にも、ある種のテンポというかリズムを与える働きがあるかなと思いますね。

――『これからのエリック・ホッファーのために』では、港湾労働をしながら論文を書いたホッファーなど様々な在野研究者の先人の伝記的事実をエッセイ形式で紹介していました。南方熊楠や小室直樹といった研究者も「在野」だったという視点で再考されています。実際に先人を調べてみて、どうでしたか?

 非常に簡単な感想ですが、色んな奴がいるなと思いました。アカデミズムからみても立派な成果を挙げている奴が一方にいるかと思えば、他方には「トンデモ」に類別されるような破天荒者もいます。「大学の外」と一口に言っても、それだけでは語り尽くせない。豊かさであると同時にカオティックでもある、その多様性は『これエリ』でも、今回の編著でも、捨てられないものでした。

――これまでに在野研究は学問の世界で重要な役割を果たしていたのでしょうか?

 そういう側面はあると思います。例えば、在野研究じゃないと難しいテーマがあることは確かでしょう。『これエリ』では、「女性と研究」というチャプターを設けていましたが、女性史、つまり女性が歴史の中でどのようなポジションがあったのか(なかったのか)。そういった視点は、正規の歴史学の外じゃないとアプローチできなかったことだろうと思います。あるいは、これは非常に危険なところもあるんだけれども、政治運動と学問の関係性も、在野のある種の自由さがなければ、非常に難しいものになったでしょうね。

ウェブの発信が「他者性」の確保に

――今回はその『これエリ』の現代版を作る企画だそうですが、どういう基準で執筆者を選んだのでしょうか?

 まず第一に自分は何ができないか。つまり自分の無能さを考えました。例えば、私は教育に関心がないので、高校教員の内田真木さん(有島武郎研究)や家庭教師をやっている星野健一さん(仏教研究)に依頼しました。あと、私はフルタイムで働く力がないので、サラリーマンとして働きながら論文を書いている伊藤未明さん(批評理論・視覚文化論研究)や内田明さん(近代日本語活字史研究)にお願いしました。そうすることで、結果的に私には書けないユニークな本が完成するだろうという期待がありました。

 第二部の星野健一さんの「センセーは、独りでガクモンする」(九章)と私の「貧しい出版私史」(十章)は、この本の孤独担当パートなんですよね。編者の意図としては。仲間がおらず、ひとりで学問をしている。その課題を批判的に引き受けたのが、第三部「新しいコミュニティと大学の再利用」です。「仲間がいない!……か・ら・のー、コミュニティ!」みたいな構成になっています。

――『これエリ』の中で「在野研究の心得」として「コミュニティを作ろう」とありましたが、荒木さん自身は実践しているわけではないのでしょうか?

 私個人はやっていないです。ただ、先人をみると客観的には、コミュニティに属したり、つくったりしておいたほうがいい。間違いなくそう思います。私の場合は、資質が合っていないということですね。

――なぜコミュニティは重要なんでしょう?

 やっぱりひとりでやっていると、様々なリサーチや物の書き方などがひとりよがりになっちゃうんですよね。その偏りを矯正していく手段として他者がいる。それを支えるのがコミュニティなんです。自分の研究をより客観的で開かれたものにしたいと思うならば、コミュニティにアクセスしたほうが色々楽だと思います。

――荒木さんは他者をどのように作っているんでしょうか?書いたものをチェックしてもらったり、アドバイスをもらったりしますか?

 そういった機会はほぼないですね。私の場合は多分、ウェブでの発信が他者性の確保に繋がっているのではないでしょうか。私がやっていることは、基本的には、いままで閉ざされていたものを開く、オープンにする運動だと思っています。もともと紀要論文みたいなものは、ほぼ固定した少数の読者しかいない。けれどそれを開いていく。

 だから近代文学の論文を電子書籍で発表したし、YouTubeで他人の論文を紹介する活動「新書よりも論文を読め」をやっています。そこで様々なユーザーから「荒木が言っていることは違うんじゃないか」などとツッコミをもらって、自分自身を反省していくんです。

――今回執筆している方でも、逆卷しとねさん(学術運動家・野良研究者)や朝里樹さん(怪異・妖怪研究)など、ツイッターやブログで発信をしている方が多いですよね。

 研究者は研究成果をきちんと評価してもらうためには、やっぱり縁が重要だと思うんですよね。いやらしい言い方をするとコネです。大学に属することの一番のメリットは、人的ネットワークの中に参加することが自動化されている点です。しかし、在野はそうしたものに欠け、運頼みになってしまう。それを補うために、オルタナティブなメディアに頼っていくのが、ひとつの常道としてあるのかなと思います。

――荒木さんは序文で「在野研究には明日がない」けれど「『あさって』ならばある」と書いていましたね。どういうことでしょう?

 私から見ると、大学の人々は今、非常に困難な状況に追い込まれています。つまり、基礎研究と呼ばれる、一見役に立たない研究が非常にできにくくなっている。即効性のある役立つ学問のありかたが常に求められている。極めてストレスフルな状況にあるはずです。しかしなぜそんな枷が出てくるかといえば、公的なお金を使うという制約に由来しているわけです。

 その意味で、勝手にはじめる在野研究者はもっと自由に活動できるんじゃないかなと思います。すぐやってくる明日の米の心配ではなく、もっと遠い未来に向けてことを起こせる。何の役に立つのかよく分からないけれども、でもなんかやりたいと思えることを研究する。それが在野研究者のひとつの特権としてあると私は考えているわけです。 

――その一方で、荒木さんは「在野研究はアカデミズムの従僕ではないが、反アカデミズムの丁稚でもない」(「在野のための推薦本」竹内洋『丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム』の紹介文)とも書いていたのが印象的でした。

 在野という言葉はある種、ロマンチックな響きを持っています。つまり「在野であるから、体制側にない特別な価値があるんだ」といった転倒のロジックです。在野研究の歴史を調べていても、非常によく出てくるんですよ。そのロジックが強力になりすぎることに対する警戒心はよく理解できます。

 理想を言えば、在野とか何々大学とか、肩書きなしで研究成果だけでお互いに語り合いたい。だからわざわざ「在野」と喧伝するのは、理想状態から遠のくじゃないかという批判もあります。それなりに理解できます。ただ、いま現在、在野で学問をしたい人が抱える様々な悩みや思い、そして無能感や焦燥感とともにある小さな実践がこの世界にあることを知ることは結構大事だと思うんですよね。在野という言葉がつくるアングルでは、それが拾える。その後で、もし在野という言葉を使わなくてもいいくらい、つまり肩書きなんてどうでもよく、中身が問われる世界が到来するのならば、それは悦ばしいことですよね。