人種隔離政策下でつくられる歴史と経験
記事:明石書店

記事:明石書店
南アフリカをはじめて訪れた時のことだから、きっと2014年2月のことだ。首都プレトリアに数日滞在して東海岸の都市ダーバンに向かう。国内便で到着し、ダーバンに降り立った時の海からやってくる湿気と高地に滞在した後(プレトリアの高度は1300メートル以上)だったので空気の濃さを強烈に感じたことを今も覚えている。せっかく海辺に来たのだから砂浜を歩き、それから中心街にいってみようと思い、泊まっていた格安ホステルの主人、ぶっきらぼうだけど実は親切なイギリス系白人のエルマーに道順を尋ねる。地図を見ながら、教えてくれる。
「ずっと降って海まで着いたら右に曲がって歩いていくとすぐだ」と言って、彼は赤いサインペンで、地図に斜線を引いていく。「この赤い部分は危ないから行かないこと」と断言する。海から繁華街に向かうと、(比較的)安全な場所は、ピクスレー・カ・セメ通りで終わる。次のレンベデ通りからは赤いゾーンだ。
南アフリカの歴史をそれなりに勉強してきた自分にとって、この境界線は覚えやすかった。人種差別的な政策を敷く白人政権に融和的なアフリカ人政治家ピクスレー・カ・セメ。アフリカ人の自立を説き、体制への強硬な対立姿勢を示したアントン・レンベデ。「お金は肌の色を白くする」という格言に従うならば、お金を持っている観光客の「白人」である私は、アフリカ民族主義者の通りから先の地区には入ってはいけないのだ。大学院生が金を持っているわけはないだろうという言い訳は通用しない。
「行ってもよい」エリアにあるショッピングセンター「ワークショップ」で買い物をする。土産物屋の店主と話をする。
「彼女に金のアクセサリー、買って行かない?」と店主が尋ねる。
「出世したらね」と私は返答する。
宿からこのショッピングセンターまでどうやってきたのかと尋ねる店主に「歩いて」と答えると、目を丸くして「私たちみたいなアジア系」は歩かない方がよいとアドバイスをもらう。
世界的に悪名高い人種差別政策であるアパルトヘイトが終わって20年を経ても、南アフリカの人々は日々、人種を意識しながら暮らしていた。法的にはどこに住むか、どの学校に通うのか、あるいはどの「人種」の人と結婚するのかは自由になった。しかし、いまだに生活や交際の範囲は、人種によって大きく異なる。
ダーバンの中心地の程近く、先述のショッピングセンターから一ブロック海側に降った場所に、ダーバン国際会議場がある。ダーバンと聞いて2001年にこの年で開かれた国連主催の「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」(通称、ダーバン会議)を思い浮かべる人もいるかもしれない。奴隷貿易、奴隷制、植民地主義やアパルトヘイトといった過去をあらためて問い直し、植民地主義の過去に対する責任を明示、補償の可能性を検討したこの会議は、植民地主義や人種主義に関する研究の一つの参照点となっている。ショッピングセンター「ワークショップ」と国際会議場の間にある国際ホテル・チェーン、ヒルトンにも会議の関係者が多く宿泊していたはずだ。アパルトヘイトを克服した国南アフリカでこの会議が開かれたことの世界史的な重要性を感じつつも、このような国連の会議で議論される人種主義と会議場のすぐ近くに集まる人々の生活との隔たりにも気づかずにはいられない。エルマーからもらった地図では、もちろん会議場には赤い斜線は引かれていない。
本書は、南アフリカにおけるアパルトヘイト体制の形成を主題とし、人種隔離政策が厳然と存在した時代に生きた人々の日常に分け入ることで、人種隔離政策がいかに維持されていったのかを検討する。もちろん21世紀の現在に生きる私たちは、南アフリカの人種隔離体制が悪しきものであると知っている。1994年に民主化されるまで南アフリカでは、少数派の白人入植者の子孫が、多数派のアフリカ人の参政権を剥奪し、都市への移動を制限するなど抑圧的な支配体制を敷いてきた。アパルトヘイトと呼ばれたこの人種隔離体制は、人々の住む場所を分け、経済的・社会的不平等を作り出すとともに、その政策を正当化してきた。しかし、この体制が全くの悪であるならば、なぜ20世紀末に至るまで維持されてきたのだろうか。第二次大戦後、アジア・アフリカ各国が植民地支配から独立していく中で、そしてアパルトヘイト体制を敷いた白人入植者の子孫が、人口的には10%強という圧倒的に少数派でしかない状況下で、この政策は続けられてきた。
本書は、20世紀前半の南アフリカにおける人種隔離を基礎としたアフリカ人統治政策と同政策への抵抗運動における歴史の政治的利用を検討することで、人種隔離政策とアフリカ人の「伝統」が分かち難く結びついたものとして創造されたがゆえに、この制度が長期にわたって継続したことを明らかにする。人種隔離政策は、ヨーロッパからの植民者と現地のアフリカ人を公共施設の利用から、居住地地域、法体系に至るまでさまざまな点で分離する。その基底には、アフリカ大陸に「文明」をもたらすヨーロッパからの移民と、伝統を保持すべきアフリカ系の「部族」という歴史の分岐が存在した。哲学者の議論の中にではない。裁判の進行に、教員資格試験の中に、図書館の目録に、そしてその人物がどこに移動できるかを決定するパスの中に、この分岐は書き込まれていたのである。それゆえ本書が、取り上げる史料は、多くの場合人々の日常に根差したものだ。たとえば、破られた絵葉書、学校で使われた歴史教科書、作文、あるいは博物館の蒐集品。これらの史料を分析することで、20世紀前半の南アフリカに生きた人々が日常的に抱いていた期待――家族の歴史を残したいという思いであったり、教員や(ズールー語で)作家になりたいという希望――これらの淡い期待が人種隔離という大きな体制と共存し、ある場合には体制の維持のために組み込まれていったことが明らかになる。
本書の目的は、人種隔離の時代を生きた人々がいかに過去を利用していったのかを検討することで、南アフリカにおける人種差別の歴史を日常から見直すことである。あるいはこう言い換えてもいいかもしれない。ダーバンの都市の喧騒の中で人種や民族を意識せざるを得ない人々の生活と、瀟洒な国際会議場で行われる人種差別に関する議論のつながりはなにかと問うことが重要なのだ、と。
多くの歴史学の研究書が出版されてはすぐに忘れ去られていく中で、もし本書が読者の記憶に残り続けることがあれば、このように憶えておいてもらえたらと期待している。すなわち、アパルトヘイトとはなんであったのかという問いと同じくらい、人々がその時代をどう生きたのか、何を経験したのかを考えることが重要であると説いた本として。著名な歴史書に倣って述べるならば、人種隔離時代を生きた人々の日常生活を知ること、探究することへの渇望を引き出すことができれば本書の試みは成功したと言えるだろう。