「人種差別問題」の歴史とその本質[前篇]『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ』
記事:白水社
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【Notes of a native son: The world according to James Baldwin】
本書が一風変わっていることは認めざるを得ない。伝記ではない、けれども伝記のように感じられる箇所もある。文芸評論ではない、けれどもボールドウィンのノンフィクション作品を精読する。ボールドウィンがそうしたように歴史にこだわるが、単純な歴史書でもない。結局『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ』は、私たちの生きる時代について何か意味のあることを語るために三つすべてを組み合わせたものだと言える。本書は進んだり戻ったりし、過去と現在とのあいだを揺れ動く。そのなかで私はアメリカの歴史における今のこの困難な時代についてボールドウィンとともに考える。
たしかに、アメリカという国の理念は窮地に陥っている。多くの人は、建国の父たちの信条やアメリカがこれまでも見せてきた立ち直る力に慰めを見いだすだろうが、私たちが崖っぷちに立っていることに変わりはない。ドナルド・トランプが大統領になったことが、一九六〇年代の動乱以降アメリカ政治の表面下でわめいていた勢力を解き放った。数十年にわたり政治家たちは白人の恨みをかき立て、利用した。企業は政府に対する支配を強め、アメリカの労働者たちを屈服させた。公益の理念は私欲の容赦ない追求に変わってしまった。共同体は崩壊し、人口構成も変化した。恨みはいっそう強くなり、国の骨組みが衰えて、私たちは皆互いと争っている。アメリカ政治の表面下で蠢いていた亡霊が今では大っぴらに現れるようになり、一度の大統領選挙ではその飢えを癒やすことはできないだろう。道徳の仕切り直しをするときが来ており、私たちはアメリカが真に多人種からなる民主主義国家になるかどうかを今度こそ決めなければならない。
【James Baldwin Confronts Trump's America In Eddie S. Glaude Jr.'s 'Begin Again'】
アメリカの歴史上、私たちはこれまでにも二度、同じような局面を迎えたことがある。(一)南北戦争と南部再建、そして(二)二十世紀半ばの黒人解放闘争である。歴史家たちは(一)をアメリカの第二の建国、(二)を第二のリコンストラクションと表現してきた。どちらのときも米国の中心にある重大な矛盾が争点となった。エイブラハム・リンカンは一八六五年三月に行った二度目の就任演説で、南北戦争の流血の原因に直接言及した。
戦争による甚大な苦しみがすばやく過ぎ去ることをわれわれは軽々しく期待し、熱心に祈ります。それでも、それが二五〇年間にわたる奴隷の報われない苦役によって蓄えられた富がすべて失われるまで、そして鞭によって流れた血が一滴残らず剣によって流れた血で償われるまで続くことが神の意図することなら、三〇〇〇年前にも言われたことを今も言わなければなりません。「主の裁きは真実で、ことごとく正しい」
約一〇〇年後の一九六三年、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士が、感動を誘う「私には夢がある」演説で、第二のリコンストラクションに込められた願望を言葉にした。
みなさん、私たちは今日も明日も困難に直面していますが、それでもなお私には夢があると申し上げたい。それはアメリカの夢に深く根ざした夢です。私には、いつの日かこの国が決意して立ち上がり、「われらはこれらの真理を自明のものと考える。すなわち、すべての人は平等につくられている」というその信条の真意を体現するようになるという夢があります。
どちらの局面も裏切られた。片方は人種隔離体制の到来で、もう片方は「法と秩序」〔治安強化の意味だが、ここでは黒人に対する締め付けを意味するフレーズ〕を求める声やいわゆるサイレント・マジョリティによる納税者の反乱で実現しなかった。どちらのときも人種についての有害な解釈を根絶することができなかったことが積み重なり、現在の危機に重大な影響を及ぼしている。こう考えるといい。もうツーストライクに追い込まれているのだ。
私がアメリカの現在の不調を人種問題に帰することに異議のある人もいるかもしれない。私たちが直面しているものはそれよりもずっと深いと言うのである。でも私にはそう思えない。歴史上のこの醜悪な時代の核心には、国としての「私たち」の正体が悪いほうに変化している──「私たち」の正体が自分たちにもわからなくなっている──という認識がある。「アメリカをふたたび偉大に」や「アメリカを偉大なままに」のようなスローガンは、現在の出来事に照らせば批判を免れない時代への感傷的なあこがれに等しく、私たちの目の前に次々と訪れる危機は、一部には、けっして取り戻すことのできない過去に戻ろうとする必死の試みから生まれている。実に多くのアメリカ人が民主主義を見せかけだけでもめざすことを捨て去る──つまり残酷で憎悪に満ちた政策を支持する──のを厭わないことは、アメリカなる理念が明白な偽りであることをさらけ出している。
【James Baldwin Discusses Racism | The Dick Cavett Show】
ニューヨークにあるションバーグ黒人文化研究センターの図書館で、私はロバート・ケネディからジェイムズ・ボールドウィンへの手書きの手紙を見つけた。アラバマ州バーミングハムの街頭でデモや暴力が起きた後、ケネディがボールドウィンのほかロレイン・ハンズベリーやジェローム・スミスなどボールドウィンの仲間たちと会ったことはよく知られているが、この会合は大失敗に終わった。ケネディはボールドウィンと彼の動機や政治観に対して疑念を抱いた。FBIのボールドウィンについてのファイルからも読み取れることである。しかしジョン・F・ケネディの暗殺後、この一団を代表してボールドウィンはボビー・ケネディ〔「ボビー」はロバートの愛称〕に手紙を書き、心からのお悔やみを述べた。ボールドウィンは、ボビーの兄のぞっとするような暗殺は、一九六三年五月二十四日に一同があれほど激しく議論した闘争と区別して理解されるべきではないことをケネディにわかってほしかった。「私たちの苦しみについて伝えようとしてきたことの理解を妨げたものが何だったにせよ、それは苦しみによって消えるもので、私たちがあなたの悲嘆を共有するのを許してくれるよう願います。これからのつらい時期に、あなたが私たちの苦闘を共有していることを私たちはわかっています。私たちの苦闘は同じものだからです」。ボールドウィンはケネディに、アメリカの困難の根っこにあるものを見て取ってほしかった。つまり、ほとんどの場合、人間は自分に正直に生きるのを拒み、人種の偶像の裏に隠れるのを少しも厭わず、その偶像を守るために人を殺す気まであるということである。ボールドウィンのこの洞察は今日にも関係している。私たちが目前にしている道徳の仕切り直しには、アメリカという国の原罪の跡が残っているからである。
しかし残骸を掘り起こすことでこれとは別の、より具体的な問題も出てきた。初期の公民権運動の有望さと危険を目の当たりにしたボールドウィンは、その運動のために喜んですべてを賭けようとする作家として有名になり、財政面でも支え、より公正なアメリカを追求するために皆と一緒に華奢な体を張るまでした。アラバマ州セルマで学生非暴力調整委員会(SNCC)が行ったフリーダム・デーの抗議行動に参加した二日後の一九六三年十月九日、ボールドウィンはファーン・マージャ・エックマンによるインタビューで、セルマで見てきたことを話した。ボールドウィンは、保安官のジム・クラークやその部下たちに脅され腹をすかせながらも有権者登録をするために列に並んだ平凡な人びとの勇気について述べ、その状況全体のあまりの不当さに激しい怒りを感じていると言った。
「ヘルメットがね、庭園のようでした。実にたくさんの色で」とボールドウィンは、有権者登録をするために辛抱強く並んで待っている人たちに威張る警官について言った。「銃や棍棒や突き棒を持っていて」。エックマンは、人びととセルマの警察とのあいだで緊張が高まったときに怖くなかったかと尋ねた。ボールドウィンは、自分はひどく腹を立てていたと答えた。「実を言うとそれは──本当に怖くなるのは──朝に怖かった。始まる前に。初めてあの辺を歩き回ったときも怖かった。でもその後は全然怖くなかった……恐怖心がのみ込まれてしまうんですね……憤激に」とボールドウィンはエックマンに言った。「本当に何がしたいかと言えば、あの人たちをみんな殺したくなる」
ボールドウィンはジムクロウの残忍性を間近で見、それがその残忍性と戦った人だけでなく、それを擁護した人に及ぼす影響も目の当たりにした。自分への影響も感じた。友人たちが冷酷に殺されるのも経験した。メドガー・エヴァーズやマルコムXやマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの死は、アメリカという国による、より広範で組織的な裏切りを象徴するものになった。セルマでは、クラーク保安官やその部下たちはより大きな勢力の現れなのだとボールドウィンは述べていた。クラークたちは「アメリカという共和国によって故意につくり出された」とボールドウィンは言った。まさにその共和国が今では黒人やその味方が求めて戦ったものすべてに背を向けていた。幻滅と根深い悲観がその人たちの多くのあいだに広まった。ボールドウィンもその一人で、彼はその全部を生き抜いた。一九八七年十一月に行われた最後のインタビューで、ボールドウィンはクインシー・トループにこう述べた(ボールドウィンは一九八七年十二月一日に亡くなった)。
私は正しかった。国で何が起きているかについて正しかった。要は私たち皆に遅かれ早かれ何が起きようとしていたか。皆が迫られることになる選択についても……私は真実を語ろうとしていたのであり、気づくのには時間がかかる──いわばリングに上がって争っても意味がない、もう一度テキサスに行っても意味がないことに。もう何度も、何度も、何度も指摘されてきた。それは聞こえているのに聞こえていない。言うほうは壊れたモーターのようだ。
この言葉を読んで、ボールドウィンは諦めていたと結論を下すこともできる──彼の身体を蝕んでいた癌が転移し、精神にも取り憑ついていたのだと。でも私はそう考えるのは間違っていると思う。公民権運動の残骸全体を見て、ボールドウィンは自分が白人アメリカ人を救うことができないことに気づいた。どんなに頑張っても、このままでは破滅が来るとどんなに頻繁に予言しても、アメリカは変わろうとしなかった。アメリカはやり方を変えて醜悪さを強めただけだった。後期のボールドウィンの作品に見られる変化は──作家のマイケル・セルウェルが「ボールドウィンの『私たち』の変化」と私に説明したもの──それまで彼の才能を称賛していた人たちを混乱させ、動揺させた。彼を支持していた白人リベラルからすればボールドウィンは悲観に負け、芸術家としての理想に背を向けたのだった。ボールドウィンは自分たちに見切りをつけ、ブラックパワーの戯言のほうを選んだのだ。
【James Baldwin’s America and Ours Today】
当時も今もボールドウィンの批判者の多くが気づいていないが、ボールドウィンは私たち皆がよりよい存在になりうる可能性を諦めたことはけっしてない。この洞察を私は残骸の中で見つけた。ボールドウィンは「エゼキエル記」や「ヨハネの黙示録」に描かれている新しいエルサレムや天のエルサレムをあり得ないと考えたことはなかった。ボールドウィンにとって、そこは人種の偶像や、私たちを地につなぎ留める時代遅れの分類という足かせがもうない場所だった。私たちは今もそれをめざして戦わなければならない。でも今の私たちは、まず白人を救わなければならないという負担なしに戦うのだ。
本書の執筆にあたって、私はボールドウィンが失望をどう乗り越えたか、そこにないものを追いかけるのはもうやめるという決断をどのように実践したのか、自分を白人だと考える人も含めて私たち皆がよりよい存在になることができるとの信念をどう持ち続けたのかをより深く理解したかった。ボールドウィンがその激しい怒りをどう利用し、信念をどう実践したのかをどうしてもわかりたかった。
この問題は私にとって、アメリカの最近の裏切り行為のせいでことに差し迫っていた。初の黒人大統領の当選が明るい見通しをもたらしたところへ白人の恐れと憤怒が現れ、ドナルド・トランプが当選した。警察による暴力に抗議するブラック・ライヴズ・マター運動の若者たちの勇気を、大半の国民は冷笑で迎えた。希望が打ち砕かれ、生活が破綻するのもこの時代の特徴である。南北戦争やリコンストラクション、また公民権運動に続いた時代と同様、私たちの時代にもこれまでとは異なる考え方にこれまでとは異なる弾力性が必要で、それができなければ狂気か忍従に屈するしかない。ボールドウィンはそんな暗黒の時代に対応し、私たち皆が目の前にしている道徳の仕切り直しで出すべき答えを想像するための知恵をくれると私は考える。
【エディ・S・グロード・ジュニア『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ 「もう一度始める」ための手引き』所収「はじめに──ジミーと考える」より】