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摂理なく芽吹く、とルクレティウスは言った。 『事物の本性について ――宇宙論』(ルクレティウス著、藤沢令夫・岩田義一訳)書評 評者:アダム・タカハシ

記事:筑摩書房

エピクロスの原子論的宇宙観を伝える貴重な史料であり、後代にも絶大な影響を与えたラテン語詩の傑作。
エピクロスの原子論的宇宙観を伝える貴重な史料であり、後代にも絶大な影響を与えたラテン語詩の傑作。

 この数年、文学作品を読む演習によく参加するようになった。演習といっても大学の授業ではない。或る先生が月に二、三回ひらかれている〈読書会〉で、たいていは英米の短編小説を原文で読んでいる。その会のおかげで、書かれたテクストだけでなく現実世界への向き合いかたも少しずつ変わってきた。とくに変化したのは、現実か虚構かにかかわりなく、語られていることの具象性、もしくは二項対立的な図式ではとらえきれない事柄の細部とその固有性に、以前よりも多くの注意をはらうようになってきたことだ。

 その変化は、わたし自身の哲学的思考にも影響をあたえている。哲学をシンプルな形式的論理へと還元したい人たちがいる。実際、歴史的あるいは物理的な事実が哲学にとって本質的ではないと主張する論者は少なくない。そう考えたいわけも理解はできる。この世で現に起きていることは、少なくとも論理的には他のようでもありうるからだ。でも、冒頭で述べたことを踏まえると、現在のわたしの関心は、むしろ可変的でありながらも固有な輪郭をそなえた現実の姿そのものの方に向かっている。いま「自然哲学」という分野がにわかに活況を呈しつつある。たしかなことはわからないが、言語的に抽象化されるまえの現実自体に目を向けようとする姿勢が、哲学の現場でも求められているせいかもしれない。

 そのようなことを考えながら言葉を探していたときに、ルクレティウス『事物の本性について』(藤沢令夫・岩田義一訳)を読む機会をいただいた。この著作では、一つの「自然哲学」が非常に卓越した韻文で記されている。骨格をなす教説は、古代ギリシアの哲学者エピクロスの「原子論」である。でも、著者が実際におこなっているのはその原子論の単なる祖述ではない。たしかに、ルクレティウスの世界は原子をそのもっとも基本的な原理としているが、彼が見ようとしている自然の姿は複雑であり、しかしそうでありながらも取りあげられる事柄はどれもが触知可能な実質をともなっている。

 このような彼の現実への態度は、議論内容と結びついている。ルクレティウスにとって、原子はたしかに不変的に存在する。だが、「種子」として存在する原子は、あらかじめ目的を定められているわけではない。種子は「空気の軽い微風」によって運ばれ、そこから芽吹くものは実に多彩である。とはいえ、いったん根を張ればそこから生まれるものは固有な特質を帯びてくるだろう。

 彼の立場は、西洋思想をながらく支配していたプラトンやアリストテレスといった他の哲学者たちの思想とは異なっている。これらの哲学者たちは、存在する一個の事物を本質的な形象(イデア、エイドス)と可変的な要素という対立的な二項へと区分し、前者を真なる実在として称揚する一方で、後者を単なる素材へと貶めた。何より重要なのは、そのように事物の本質をなす普遍的形象を認めることは、それらを創出する神の存在とそれによる支配をなかば必然的に要請してしまう点だ。

 それに対して、ルクレティウスの世界では、神は存在するもののそれが自然を統べることはない。事物を目的へと導く〈摂理〉が彼の宇宙には存在しないのだ。原子のあいだには「空虚」が遍在し、宇宙は「無限」に広がっている。ルクレティウスはいう、無限にひろがる世界で展開する出来事を、だれがあらかじめ予見できるだろうかと。「人間のために神々がすべてを作ったと彼らが思いなすなら、すべての点について真実の推論から全く離れている」というのだ(Ⅱ―174)。人間を含む自然は、神が定めた秩序にしたがって現実化するものではない。

 ルクレティウスは、原子の運動を光に託して次のように描く。「さまざまな鳥の群れが人里はなれた森の軽やかな空気の中を飛びかいながら、そこを透きとおった鳴き声でみたす時、その時昇ったばかりの太陽が、どれほど急激にすべてのものに光をそそいで包んでしまうかは誰の目にも明白すぎることである」(Ⅱ―145)。ここで表現されているのは、神の栄光ではない。自然の即物的な運動とそれが織りなす世界そのものの美しさが克明に綴られているのである。

ルクレティウス著/藤沢令夫・岩田義一訳『事物の本性について ――宇宙論』(ちくま学芸文庫)
ルクレティウス著/藤沢令夫・岩田義一訳『事物の本性について ――宇宙論』(ちくま学芸文庫)

『事物の本性について ──宇宙論』目次

第一巻
第二巻
第三巻
第四巻
第五巻
第六巻
解説(藤沢令夫)
『事物の本性について』要約
索引

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