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鹿島茂による「コレキュレーター人生の総決算的な展覧会」はいかにして生まれたか

記事:平凡社

群馬県立館林美術館開催「フランスのモダングラフィック展」の展示をチェックする、鹿島茂さんと学芸員の松下和美さん(撮影゠鹿島直)
群馬県立館林美術館開催「フランスのモダングラフィック展」の展示をチェックする、鹿島茂さんと学芸員の松下和美さん(撮影゠鹿島直)

展覧会公式図録『フランスのモダン・グラフィック 鹿島茂コレクション』。鹿島茂、松下和美(群馬県立館林美術館)著、平凡社刊。本記事は鹿島さんが記した図録序文「フランスのモダンはグラフィックに始まり、グラフィックで全面展開。」の一部を抜粋して編集したものです。
展覧会公式図録『フランスのモダン・グラフィック 鹿島茂コレクション』。鹿島茂、松下和美(群馬県立館林美術館)著、平凡社刊。本記事は鹿島さんが記した図録序文「フランスのモダンはグラフィックに始まり、グラフィックで全面展開。」の一部を抜粋して編集したものです。

鹿島茂によるコレクション

 私がフランスにおけるモダン・グラフィックの誕生を跡付けるような資料の収集に目覚めたのは1990年代初期に『アール・ゼ・メティエ・グラフィック(Arts et Métiers Graphiques)』(略して通称『AMG』)のかなりまとまったバック・ナンバーを古書店のカタログで見つけ、購入してからである。ちなみに、語学教師として指摘しておけば、本来ならArts et の部分はアール・エ・メティエとリエゾンしないのが原則だが、パリの「国立工芸院CONSERVATOIRE NATIONAL DES ARTS ET METIERS」が「アール・ゼ・メティエ」と呼ばれている関係から、リエゾンして発音されているのである。念のため。

1927年に創刊されたグラフィックアートの専門誌『アール・ゼ・メティエ・グラフィック』。様々な分野のグラフィックを紹介した(『フランスのモダン・グラフィック 鹿島茂コレクション』「Ⅲ.モダングラフィックの展開」より転載)
1927年に創刊されたグラフィックアートの専門誌『アール・ゼ・メティエ・グラフィック』。様々な分野のグラフィックを紹介した(『フランスのモダン・グラフィック 鹿島茂コレクション』「Ⅲ.モダングラフィックの展開」より転載)

 さて、話をコレクションに戻せば、この頃の私のコレクション・フィールドは、グランヴィルやドレ、ガヴァルニなどの19世紀のイラストレーターたちの挿絵本からなっていたが、同時にラブルールやデュノワイエ・ド・スゴンザックなど20世紀のイラストレーターたちの挿絵本も視野に入っていた。『AMG』のバック・ナンバーを買ったのも、この雑誌にこうした20世紀のイラストレーターたちが取り上げられて論じられているのに気づいたからである。つまり、書誌学的資料の一つとして購入したのだ。

 だが、現物が届くと、私の予想は見事に覆された。なんという研ぎ澄まされた感性と美意識に貫かれた雑誌だろうと驚愕したのである。やがて、ページをめくるにつれてこの雑誌を創刊した編集者の意図がおぼろげにわかってきた。

 それは、画家、イラストレーター、広告デザイナー、写真家、レイアウト・デザイナー、などのいわゆるアート・クリエーターばかりか、紙媒体にかかわるあらゆるメティエ(職業)、すなわち製紙業から始まって活字鋳造業、インク製造業、印刷業、銅版画、石版画、写真製版などの業者を巻き込んで統一的美意識を高め、より芸術性の高い「総合芸術としての雑誌」を創造しようという試みだと察しがついた。つまりアート雑誌ではなく、「それ自体がアートであるような雑誌」の創造こそが編集者たちの目的であると理解したのである。

 そして、この意図を理解すると同時に『AMG』に至るまでの雑誌創刊者の系譜の方に、俄然興味が向かったのだ。

 というのも『AMG』の創刊者は活字鋳造会社の3代目であるシャルル・ペニョとなっているが、ペニョに創刊を勧めたのはかの有名なモード雑誌『ガゼット・デュ・ボン・トン』の創刊者であるリュシアン・ヴォージェルだということを知ったからである。リュシアン・ヴォージェルこそ雑誌芸術というコンセプトをつくりだした張本人だったのである。かくて、今度は編集者リュシアン・ヴォージェルが手掛けたさまざまな雑誌や挿絵本、アルバムなどに興味が向かうようになり、コレクション・フィールドはヴォージェルを中心にしてどんどん広がっていった。

リュシアン・ヴォージェル(写真:ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン、『フォトグラフィ』アール・ゼ・メティエ・グラフィック社、1931年)
リュシアン・ヴォージェル(写真:ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン、『フォトグラフィ』アール・ゼ・メティエ・グラフィック社、1931年)

 これがだいたい1990年から1995年にかけてのことであり、この時期のコレクションは鹿島茂コレクション展の第2回「バルビエ×ラブルール」展、および第3回「モダン・パリの装い」展で披露されている。

 だが、じつをいうと、このあと私のコレクターとしての探求はヴォージェルを「超えて」、より正確にいえばヴォージェルの父親であるドイツ人イラストレーター、エルマン・ヴォージェル(ドイツ語読みならヘルマン・ヴォーゲル)へと溯っていったのだ。

 というのも、このエルマン・ヴォージェルはおもに『ラシエット・オ・ブール』という1901年に創刊された絵入りカリカチュール雑誌の主たるイラストレーターであり、もしかするとこの父に、後に息子が展開することになる「モダン」の端緒があるのではないかという仮説を立ててみたからである。

 そこで、『ラシエット・オ・ブール』の1901年から1911年までのバック・ナンバーを合本にした全10巻のセットが日本の古書店に格安で出ていたのでこれを購入してみた。

 ところが、私の見立ては裏切られた。父ヴォージェルはまったくモダンではなく、遠近法に忠実な普通のイラストレーターだったからである。

 だが、予想とは別のところで『ラシエット・オ・ブール』のグラフィック・アートの中にモダンの起源があるのではないかという私の仮説は「当たっている」ことが判明した。『ラシエット・オ・ブール』に1902年から登場しているフェリックス・ヴァロットン、ポール・イリーブ、それにアンドレ・エレなどの中に「モダン」の起源が認められるとはっきり感じたからである。

 もっとも、ヴァロットンがグラフィックな世界でその才能を発揮したのはこのときだけですぐにファイン・アートの世界に復帰するので、ヴァロットンをモダン・グラフィック・アートの原点と見なすわけにはいかない。むしろ、モダン・グラフィックの原点と見なすべきはイリーブではないか? そんな直感が働いたので、イリーブが登場する『ラシエット・オ・ブール』の号を拾い出すと同時に他の号も総ざらえしてみた。すると、この過程で新たな「モダン」の起源が浮かび上がってきたのである。

 それはアンドレ・エレというイラストレーターだった。エレは比較的早い段階から『ラシエット・オ・ブール』にイラストを提供していたが、初期のイラストはモダンを感じさせない暗い画風だった。ところが、オモチャ制作をきっかけにモダンに目覚めると、一気にモダンの最先端に躍り出てくるのである。

 このように、収集した『ラシエット・オ・ブール』という絵入り風刺雑誌のページをクロノロジックにめくってグラフィックの中にモダンの起源を探るという作業を続けているうちに、私の中にもう一つの、より大きな問題意識が兆してきた。

 それは、なにゆえにファイン・アートよりも先に、時代的にいえば1902年から1905年にかけての時代に、グラフィック・アートの方に「一斉に」モダンが出現したのかという「原因の探求」である。

 もちろん、そう簡単に答えの出せる問題ではない。だが、ここで召喚すべきはヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』の次のような言葉ではないかという直感が働いた。

「19世紀とは、個人的意識が反省的な態度を取りつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的意識の方はますます深い眠りに落ちてゆくような時代[Zeitraum](ないしは、時代が見る夢[Zeit-Traum])である。(……)この集団はパサージュにおいておのれの内面に沈潜して行くのである。われわれは、この集団をパサージュのうちに追跡し、19世紀のモードと広告、建築物や政治を、そうした集団の夢の形象の帰結として解釈しなければならない」(ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』第1巻、今村仁司等訳、岩波文庫)
「夢はひそかに目覚めを待っており、眠っている人は、ただ目が覚めるまでに死に身をゆだねながら、策を弄してその爪からのがれる瞬間を待っているものである。夢見ている集団もまたそうなのであって、こうした集団にあっては、その子どもたちこそが自分が目覚めるための幸運なきっかけとなってくれるのである」(ベンヤミン、同書)

 まず、これらのベンヤミンの言葉の中で注目すべきは「集団の夢の形象の帰結」とされているのがパサージュ、モード、広告、建築物であることだ。ではパサージュ、モード、広告、建築物の共通の特徴とはなんだろう? 集団によってつくり出される商工業(産業)の産物であるということだ。いいかえれば、一人のアーティストの天才が生み出すものではなく、商工業(産業)にかかわる多くの人々が集団的に創り出すプロダクトであるということである。

 ならばこれに雑誌を加えてはいけないという法はない。雑誌は商工業(産業)において集団的に創り出されるプロダクトそのものだからである。

 ところで、雑誌が「集団の夢の形象の帰結」であるならば、それもまた「個人的意識が反省的な態度を取りつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的意識の方はますます深い眠りに落ちてゆく」という宿命をもっている。つまり、雑誌にかかわる個々人は覚醒して反省的であっても、雑誌そのものの集団の夢は深い眠りに落ちていて長い夢を見ているのだ。

 これをわれわれの論点である「モダンの誕生」に当てはめてみるとどうなるのか? 絵入り雑誌という集団の夢にあっては個々のアーティストは覚醒し、反省的になって、時代の支配的な風潮である「遠近法=アカデミズム」から脱け出そうと努力しているということはありうる。だが、絵入り雑誌そのものとなると、遠近法=アカデミズムという集団の夢を見続けて深い眠りに落ちている。

 実際、『ラシエット・オ・ブール』に先行していた『ル・リール』、『ジル・ブラス』などの絵入り風刺雑誌はイラストの内容こそ反体制であったが、その表現手段は遠近法=アカデミズムという集団の夢にどっぷりつかり、長いまどろみから覚めてはいない。後発の『ラシエット・オ・ブール』も最初のうちは似たようなものだったが、1902年からは変わってくる。そのきっかけとなったものはなんだったのだろう? それは、後発の絵入り雑誌であるがゆえに、資金的に潤沢ではなく、イラストレーターたちに十分な報酬を払えなかったことにある。低額のギャランティで仕事を引き受けてくれるのは若いイラストレーターか外国人イラストレーターしかいない。

 だが、『ラシエット・オ・ブール』の編集長であるユダヤ系ハンガリー人のサミュエル=シジスモン・シュヴァルツは雑誌のレベルを落としたくはなかった。そこで、彼は考えた。金銭の代わりに自由を与えれば、優れた才能を集められるのではないか? かくして、『ラシエット・オ・ブール』の新しい編集方針が生まれた。

 すなわち、反体制で、政府のやることにすべて反対するという一点さえ押さえているならば、あとはどう描いてもいいし、1号まるごと担当してもいい。

 これに飛びついたのがヴァロットンであり、イリーブであり、エレであった。たとえてみれば、彼らは「遠近法=アカデミズム」という覚めない夢に沈潜してゆく『ラシエット・オ・ブール』という「夢の形象=プロダクト」の中にひそかに送り込まれたトロイの木馬、ないしはその木馬の中に入っていた子どもの兵士であった。

 「こうした集団にあっては、その子どもたちこそが自分が目覚めるための幸運なきっかけとなってくれるのである」(ベンヤミン、同書) 

 低額のギャランティの代わりに与えられた全面的自由というのが、ヴァロットン、イリーブ、エレなどが『ラシエット・オ・ブール』に集まってきた理由であるが、じつをいうと、「遠近法=アカデミズム」から脱出するという明瞭な意識が彼らにあったわけではない。

 だが、彼らには覚めない夢を見続けていたトロイである『ラシエット・オ・ブール』の無意識の縛りからは自由であるという「子ども」の特権があった。その子ども性が夢の覚醒の「幸運なきっかけ」となったのである。

 というようなわけで、われらが「モダンの起源」を探るための収集の旅も終わりに近づいたようなので、ここからは、そうした収集品がいかにして展覧会へと結実していったかという「キュレーションの旅」について語ることにしよう。

鹿島茂と群馬県立館林美術館学芸員・松下和美さんによる共同キュレーション 

 ところで、上記のような私の「モダンの起源の探索」としての資料収集は、今なら、そこに意図的な動機を見つけられるかもしれない。しかし、実際には、意識的な部分はきわめて少なく、ほとんどが無意識的なものであったといわざるをえない。第一、私にはまだ「モダンなるもの」の実体がよくわかっていなかった。

 ところが、絵入りペリオディックの収集を続ける過程で、この「モダンなるもの」のイメージが、最初はおぼろげに、次に明瞭に私の脳髄の中でかたちを取り始めたのである。

 それは、「遠近法=アカデミズム」の原理がいまだに支配するグラフィックの大海に浮かぶ「異物」として、つまり、他のグラフィックとはまったく原理が異なる「異様なるもの」として突出して私の目に映じたのであるが、その「異物」が一つではなく二つ、さらに三つ、四つと増えるに及んで、それら「異物」相互に存在する共通性・類似性が見えてきたのだ。じつはこうした複数の「異物」に共通する類似性こそが「モダンなるもの」だったのである。

 とはいえ、「モダンなるもの」が絵入りペリオディックの世界で一般に思われているよりも早く出現しているという事実の発見はあくまで、私の第六感によるもので、いまだに実証されてはいなかった。

 だから、次の段階としては発見を実物の展示によって実証に移さなければならなかったのだが、これが意外に難航した。

 というのも、前駆的モダン・グラフィックがあらわれている『ラシエット・オ・ブール』、および最盛期モダン・グラフィックの結晶である『アール・ゼ・メティエ・グラフィック』のバック・ナンバーをわが家を訪ずれる多くの美術館の関係者に見せても、なかなか乗ってくる人がいなかったからである。

 だが、待てば海路の日和ありで、2年前、「シュルレアリスム」関連展の出展品の相談でわが家を訪れた群馬県立館林美術館の松下和美さんに『アール・ゼ・メティエ・グラフィック』のバック・ナンバーを見せてこの雑誌の革命的な意義を語ったところ、強く興味を抱かれ、展覧会の開催を視野に入れた調査・研究を開始されたのである。

 そこで、私はかねて心に抱いていた『ラシエット・オ・ブール』におけるモダン・グラフィックの誕生、および『アール・ゼ・メティエ・グラフィック』におけるモダンの隆盛を核にした展覧会の構想を松下さんに語り、キュレーションをどうするか相談したのである。

 すると松下さんは、全体を3部構成にするというプラン提案された。第I 部はフランスのモダン・グラフィックの誕生(『ラシエット・オ・ブール』中心)、また第III 部は最盛期(『アール・ゼ・メティエ・グラフィック』中心)で私の構想通りでいいが、両者を結ぶセクターとして、天才編集者リュシアン・ヴォージェルが手掛けた雑誌、すなわち『アール・エ・デコラシオン』『ガゼット・デュ・ボン・トン』『フイエ・ダール』を中心にする。私のコレクションにこれらはあるので、これを第II 部としたらどうかと提案されたので、私は一も二もなくこれに同意。ここに展覧会のメイン・キュレーションは出来上がったのである。

 だが、話はここで終わらなかった。というのも、この3部構成案に刺激されて、私は自分がコレクションしながら忘れていた多くのアイテムのことを思い出し、それらを書庫の奥から引っ張りだしてきて松下さんに次々に見せたからである。

 たとえば、第I 部には、ポール・イリーブつながりで、彼が創刊し、弟子筋のジャン・コクトーにイラストを描かせた『ル・モ(Le Mot)』の完全セットを所蔵していたことが記憶に蘇ったので、これを加えることにした。

 また、第III 部にはリュシアン・ヴォージェルが1928年に創刊し、ナチズムとの戦いの武器とした写真週刊誌『ヴュ』のバック・ナンバーを持ってはいたので、『ガゼット・デュ・ボン・トン』『アール・ゼ・メティエ・グラフィック』を引き継ぐラインとして展示するように提案した。

リュシュアン・ヴォ―ジェルによって1928年に創刊された写真報道雑誌『ヴュ』(同「Ⅲ.モダングラフィックの展開」より転載)
リュシュアン・ヴォ―ジェルによって1928年に創刊された写真報道雑誌『ヴュ』(同「Ⅲ.モダングラフィックの展開」より転載)

 かくて、第I 部と第III 部の骨子のラフ・デザインが出来たのだが、問題は展覧会のメインとなるはずの第II 部であった。

 というのも、この第II 部の中核に当たるリュシアン・ヴォージェル編の『ガゼット・デュ・ボン・トン』については、すでに「バルビエ×ラブルール」展と「モダン・パリの装い」展でかなり紹介しているので、使いまわし感を免れないからである。

 そこで、この二つの展覧会で展示したファッション・プレートよりもむしろヴォージェルの編集センスと研ぎ澄まされた美意識が強く出ているテクスト部分のレイアウトを主に展示をすることにした。コンピューターもない時代に、グラフィックと活字の組み合わせに全力を傾けたヴォージェルの情熱が伝わるだろうと考えたからである。

 しかし、それだけではものたりない。ほかに何かないのか? そう考えたときに頭に浮かんだのは、『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書、『デパートの誕生』と改題されて講談社学術文庫)を執筆するときに収集したパリのデパートのアジャンダのコレクションである。

 というのも、最初は便利本位の家計簿兼日記帳として考案されたアジャンダは、1920年代に入るとアール・デコの影響を強く受け、それ自体がモダン・デザインとモダン・グラフィックの結晶と呼べるようなオブジェに進化していったからである。つまり、このコーナーでは「作品」としてのアジャンダを展示することにしたのである。

デパートが発行した年間予定表つき手帳「アジャンダ」。1930年代に近づくとシンプルで幾何学的なアール・デコ様式のデザインが進んだ(同「Ⅱ.都市に広がるモダンスタイル」より転載)
デパートが発行した年間予定表つき手帳「アジャンダ」。1930年代に近づくとシンプルで幾何学的なアール・デコ様式のデザインが進んだ(同「Ⅱ.都市に広がるモダンスタイル」より転載)

 すると、アール・デコという言葉からの連想で、アール・デコという言葉を美術史に流通させるきっかけになった『1925年パリ現代装飾美術・産業美術国際博覧会報告書』全13巻も所有していたことを思い出し、これも展示することに決めた。

 この『1925年パリ現代装飾美術・産業美術国際博覧会報告書』には当然、多くの建物の写真が掲載されているが、それを眺めているうちに今度はアール・デコの時代の商店のファサードばかりを集めたアルバムであるルネ・エルブスト序文の『商店のショーウィンドウと店内装飾』も書棚のどこかにあったはずなので、これも参考に第II 部に加えることにした。

 ところで、『1925年パリ現代装飾美術・産業美術国際博覧会報告書』の第2巻「建築」にはル・コルビュジエの「エスプリ・ヌーヴォー館」の写真が出ているが、この「エスプリ・ヌーヴォー館」からの連想で、ル・コルビュジエが1920年に画家のアメデ・オザンファンとともに創刊した美学雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』の全巻セットも所蔵していたことが記憶に蘇ったので、これで第II 部の掉尾を飾ることに決めたのである。

 となると、俄然気になってくるのが第III 部である。なぜなら、『アール・ゼ・メティエ・グラフィック』と『ヴュ』がメインの第III部もまた万国博覧会で締めくくるのが好ましいような気がしてきたからだ。

 そこで、さらに書棚を検索すると、1937年パリ万博の資料がかなり出てきた。1937年万博は第二次世界大戦の勃発を目前に控えていたこともあり、資料的には最も乏しいパリ万博なのだが、書棚にはいくつか目ぼしい写真資料も見つかったので、これを第II 部のアール・デコ博と対になるようにした。

【1973年パリ国際博覧会公式白書』は500ページを超える大型書籍(同「Ⅲ.モダングラフィックの展開」より転載)
【1973年パリ国際博覧会公式白書』は500ページを超える大型書籍(同「Ⅲ.モダングラフィックの展開」より転載)

 と、このように、松下さんの提案した3部構成のキュレーションに触発されて、収集したことを完全に忘れていたアイテムが次々に召喚されて、展覧会場に並ぶこととなったのである。

群馬県立館林美術館学芸員・松下和美さんによるマイニング

 さて、以上でコレクターとしての鹿島茂と美術館学芸員の松下さんとの協同によるキュレーション(展覧会デザイン)は完了した。あとは、私が収集した個々のアイテムのどれを展示するのかという選択の問題、およびそのアイテムに含まれている価値のマイニングと解説、および第I 部から第III 部までそれぞれのセクションの概説という仕事が残っているが、これは今回はほとんどを松下さんにお任せすることができた。というのも、松下さんはこのあたりを過去の展覧会で扱っており、私の収集品についての知識も豊富だからである。

 一般に、コレクターというのは、これと狙いをつけたアイテムを手に入れるまでは、そのアイテムについてのあらゆる情報を収集するのを常としているが、しかし、いったんコレクションに加えると、すっかり安心し、そのアイテムをマイニングすることもなく書庫なり収蔵庫の中に放置してしまうことが少なくない。私の場合、この傾向がとくにひどく、今回、松下さんの慫慂によりコレクションにどんなアイテムがあるかを調べるまで、収集したことさえ忘れていたアイテムが非常に多かったのである。

 そのため、当然ながら、収集したアイテムについての情報収集や調査、および評価を完全に怠ってきた。だから、今回、松下さんのマイニングと調査によって、初めて私自身がアイテムの価値を認識したことも少なくないのだ。

 つまり、私が直感だけで収集してきたコレクションの「暗合資産」(繰り返しになるが、、深いところでは互いに通底し、潜在的な価値を持つが、それぞれ孤立した状態ではほとんど価値を持たないゴミのようなコレクションを改めてこう呼ぼう)の価値が松下さんのマイニングによって初めて明らかになったのである。

 実際、松下さんのマイニングは凄いものなのである。私は世界中の展覧会のカタログをかなり集め、とりわけ、グラフィック・アートについてのそれは少なからず収集しているので、その水準についてはよく知っているが、松下さんのマイニングとアイテム解説はそうした水準を超えている。はっきりいって空前絶後だと思う。より強調的にいえば、この展覧会とアイテム解説を境に、グラフィック・アートに対する評価がまったく変わってきてしまうと思う。つまり、この展覧会以前と以後に分かれるだろうということだ。

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