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鉄火地獄(後半) ──沖縄タイムス社編『沖縄戦記 鉄の暴風』より

記事:筑摩書房

戦車を先頭に進撃する米軍と普天間付近の攻防(本書より)
戦車を先頭に進撃する米軍と普天間付近の攻防(本書より)

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 三月二十二日以来米艦船は周辺海域を遊弋ゆうよくし、沖縄本島の東海岸においても、西海岸の上陸作戦と呼応して緩慢な接岸攻撃を加えたり、外洋に退避したりしていたが、それら艦船の一部が中城湾内深く侵入してくるようになったのは四月十五日、六日頃であった。
 中城湾内の東よりの海面は別に馬天ばてんという名称で呼ばれているが、この馬天の海岸、佐敷さしき村では、四十五歳以下十六歳以上の男は防衛隊に召集、直接軍の指揮下におかれ、五十歳以上、十六歳未満は義勇隊として、直接的な戦闘行為に参加しなくても、村長の指揮下にあって作戦への側面協力を要求されていた。そして、女、子供、病人、不具者だけが非戦闘員として残された。義勇隊の組織は、村行政をそのまま、戦闘協力態勢に移したものであった。四月十五日の朝、村内から召集されて行った防衛兵の所属する日本軍部隊から、軍糧秣の補充用として甘藷四千斤を供出せよ、という命令が伝達された。
 直ちに義勇隊本部(村役場を改称)からは各地区の義勇隊へ、その命令を伝え、同日午前中に各隊は本部に各割当量を供出するよう手配された。当時、すでに村民は丘の斜面を掘った地下の洞穴で壕内生活をしており、時々、夕方は部落に降りて夕食や、その翌日の食事を準備し、日中は地中の穴の中で艦砲の炸裂する轟音におののいていた。地上戦闘は島の南部に圧縮され、中部西海岸から上陸した米軍地上部隊の砲撃距離が近接してくるにつれ、海上からの東海岸一帯への艦砲も積極化してきた折のこととて、供出命令は出したものの食糧がなかなか集まらない。それで各義勇隊から隊員の一部を本部に召集し、困難な食糧の供出運搬に当らせることになった。こうした労役が、時々刻々迫ってくる最前線の緊迫した空気の中で、喧声と怒号の中で、人々を集団的に行動させるためには、多分に犠牲的精神が必要とされる。すでにおじけづいた人々の心を、奮起させ積極的な活動を促すためには空々しい命令と同時に、それを遂行させるだけの熱情と責任観念をかき立てねばならぬ。それは、身命の危険にさらされた状勢下にあっては最後的努力にひとしかった。砲撃の嵐に吹きまくられている地上を、蟻のように、義勇隊として組織された老若村民は、その中には応急の処置として加入させられた女もまじって、玉城村垣花かきのはなの日本軍隊のある位置まで、食糧を運んだ。それが夜間である。しかも、じめじめした雨の降る夜の道を、午後九時頃から翌日の午前三時頃までかかって運ばれるのであるが、ことに乳吞児を背にしばりつけて、三十斤ほどの重い甘藷の袋を頭にのせ、泥濘でいねいと雨の中を行く若い女の姿は、戦場の苛烈な現実の中でいっそう悲壮なものがあった。
 五月二十八日、米兵がトラック二台に分乗して佐敷村内に侵入してきた。馬天の海岸に面した要所に陣地構築を急いでいる様子が、義勇隊本部の壕からは手に取るように見えた。
 佐敷村長は、「非戦闘員は知念半島に避難せよ」という日本軍の命令を、住民に即刻伝達し迅速な処置を取らせ、村長その他の代表者たちは、状況の推移を監視するため、義勇隊本部の位置に踏み止まった。翌二十九日午前十時頃、十五、六人の米兵が佐敷街道を徒歩で悠々と歩いていた。義勇隊本部の方向にやってくるのである。刻々彼らが迫ってくるのを壕の中から固唾を吞みながら見守りつづけていた。義勇隊本部の壕から約千メートルばかりのところで彼らは前進を中止した。
 上陸以来、居村内に踏みとどまっていた、佐敷村民の大半が知念半島の方に避難したあとだった。
 その頃村長とその一行は遂に、隣接する知念村に退却することを決意した。
 米軍上陸以来、戦闘の切迫を感じていてもまだまだ心のどこかには余裕があった。それがこの瞬間、いよいよ全村を明け渡して、こっそり、落ちのびねばならぬ村長らの胸中には形容のできない、無量なるものがあった。
 生れた土地に対する執着が如何なるものであるか、彼らはこの時深刻にそれを初めて知らされた。彼らは住みなれた壕に別れを告げた。
 佐敷村内に最後まで踏み止まった義勇隊本部の人達は、米兵の村内侵入とともに隣村の知念に退却した。
 途中、字上原附近のある壕に村民がまだ残っているのを知って、その村民たちに状況の緊迫をつげ退避をすすめた。頭上では米軍機が乱舞している。上空から発見されないように地物ちぶつを利用して身を遮蔽しつつ知念村志喜屋のある丘陵に辿りつくことができた。そこで、必死になって壕をさがしたが見あたらない。字志喜屋一帯には中頭、首里、那覇、島尻の各地から、避難民の群がうろつき、洞窟を見つけきれずに、飛行機を避けようとして石垣のかげ、岩と岩との間、林の中、およそ身のかくせるあらゆる地物を利用して、土に、木に、しがみつき、へばりついていた。
 本部の隊員たちは志喜屋しきやから更に山里、具志堅と壕を探し廻ったが、漸く発見された壕には、いつでも先客が一杯だった。それで知念村の字知念に一つの山かげを選び、間に合わせの壕を急造してそこに、三昼夜身をかくしていた。六月四日午前十時頃であった、米兵は知念の台上一帯を乗り越えて具志堅部落までやってきた。部落の混乱動揺は目もあてられぬほどで、うろたえ騒ぐ避難民は、山の斜面の方になだれこんでいった。
 佐敷村の義勇隊員たちは知念村義勇隊本部と合流しようとして、同本部の、断崖を背にした壕をめあてに岩石をよじ登った。ここでも避難民が混雑していた。
 高嶺の前線で、うろついていたモンペ姿に軍刀をたばさんだ、山本憲兵隊長は、あざやかにここまで逃げのび、ここでも避難民に混ざっていた。
 モンペ姿に鉄兜をかぶった、山本少佐の異様な恰好は、異彩を放っていた。(しかし、彼は戦線を彷徨の揚句、後に自刃した。)
 その山本少佐が、「日本は勝っているのだ。佐敷をうろついている敗戦の米軍は、野菜に欠乏して、野菜漁りにきているのだ。それに何を怖じ気づいて逃げ廻るのだ」と避難民達を𠮟りつけていた。逃げまどう住民を宣撫すると見せかけて、実は彼自身、住民の中にまぎれ込んでいる敗残兵にすぎなかった。彼の言うことに何の威厳もなく誰も相手にしてくれなかった。
 佐敷村の義勇隊統率者、平良亀造村長は、到底この混乱を収拾し、団体行動を継続していくことの不可能を察し、義勇隊と村民に自由行動をとるよう指示した。彼は元来教育者で、これまで村民に相当思い切ったことを命じてきたが、しかし、率先垂範の良き指導者であり、村民の信望も厚かった。
 五月二十九日、佐敷村を撤退する時、彼は涙をふるって父を残してきた。老齢八十歳の彼の父は、どうしても村を離れたくない、生れ故郷で死にたいと、必死に主張していた。高齢の父をつれて戦場をさまよっても、たすかる見込みはない、かえって苦労をかけるばかりだ、それに自分は村民に対する最後の責任がある、と遂に父を同伴して撤退することを思い止まった。彼は父と三時間近くも、ゆっくり話を交わして別れてきたが、彼の父は「生き恥をさらすようなことをするな」と固く戒めて、はなむけの言葉とした。そのことを、彼の側近の者に、くりかえし語っていた。身装を正した彼の死体が、知念村の西方の小高い丘の岩蔭で発見されたのは、村民が自由行動をとるようになってから、数日後のことであった。

「第三章 中・南部戦線」扉絵 牧港篤三・絵(本書より)
「第三章 中・南部戦線」扉絵 牧港篤三・絵(本書より)

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「あの稜線を一つ越したら」……霧雨に煙る水浸しの畑を黙々と沖縄新報社の一行は進んでいた。
 五月三十日。「非戦闘員は即刻立ち退け」という軍の布令と共に、高嶺村字与座の斜面にあった壕を発ってから小一時間、確たる目的地もなく、今後も団体行動を続けようという、ただ生死を他に任せ切った一行が漠として抱く希望は、「未だ敵の入り込まぬ玉城村、そして……水の豊富な知念半島」だった。晴間の空に例の観測機が飛び、艦砲の、唸りをあげる弾道の方向が海岸方面であることだけを示してくれた。丘陵を越すと広い田圃が一行の視界に迫る。
 牧港記者が振り返ると、豊平編集局長の顔が見える。伏せた眼はこの世が終局を告げることをしりきった観念の眼である。前方に前田宗信がまるで宙に浮いたように歩いている。
「また来るぞッ」……発射音から幾秒かが過ぎると暴虐の塊が霧雨を衝いて飛び込んで来た。低迷した一行は、あぜ道に行き悩む。もしその一発が眼前でぜたら、衰えた肉体は、血は、草を染め、草間を縫って、雨水と共に流されるに違いない。――(それは、それなりに良い結果に落ち行くのではないか)。――すぐ眼前で一弾が炸裂した。黒い破片が一斉にピチャピチャと水面を叩いた。「おうぎ型に射っているな」――稜線を越すと、一行はそこを振返って見た。混濁した丘の斜面を、どんよりとした雲の漂い包む中を、二人の人影が一心に駆けている。――「一気に駆け降りてくれよ」……後から続く受難者の無事を懸命に祈る。先方の男は子供を背にしていた。
 一行は丘陵に囲まれた盆地に出た。「お前達は何者だ、どこへ行くんだ」一行と行きずりに一人の兵隊が怒鳴った。「敵が近いのに、この辺をうろつくな」又も罵声が飛んだ。――もう、兵隊も信じられぬ。――その兇悪な目の色は、一行を戦慄させた。
 霧雨の中からニューッと担架が現われた。「この辺に野戦病院はありませんか」息を弾ませながら四人の防衛隊員らしい者が、一行にきいた。――今頃、野戦病院なんて、あるもんか。――担架上の瀕死の重傷者より、四人の運び手の運命が気づかわれた。霧がはれ、小川の音が冴えた。遠く近く正確な間を置いて艦砲がまた雨後の静寂を搔きまわした。一行は、思い出したようにバラバラに散って伏せる。牧港記者と島袋記者が、低い土堤に穿たれた小さい壕を見つけた。雨滴の降りかかる壕の入口には、寝台が通路一杯に置いてあり、中には若い女と、老父らしいものがじっと膝を抱えている。老人と女は、二人の姿にぎょっとしたが、女は無性に喜んだ。女は茶碗に冷飯をついで二人の前に出した。警戒を怠らぬ老人は、寝たままじっと二人の様子を見守った。火縄の香と、それから火を移してくゆらす老人の手製のたばこの香が二人にたまらなく平和の匂いを撒き散らした。若い女は顎をしゃくって通路の寝台をさし示した。「朝鮮人の軍夫さん達です」彼らは戦場の島と化す沖縄に送り込まれ、牛のようにこき使われながら、ついに日本軍からも捨てられたのであった。壕の中の女は外界と遮断された中に、不思議な生活を毎日つづけてきたのだ。牧港記者は冷飯をかき込む連れを残して、壕の入口に出た。寝台の男達は、唸るように吐息を吐いてはギュッギュッと寝台を鳴らして寝返りを打った。
 一行は緩い坂を登り出した。混凝土コンクリートの土蔵が一つ立っている坂は無限に続くようだった。広場にでると太い樹木が引き裂かれたままうず高く折重って倒れていた。石で囲まれた家畜小屋には、女も混じえた大勢の避難民が、黒々と固まっていた。「何処にいったら良いでしょうか」とその中の一人が尋ねた。髪の毛ののびた中年の男を中に、打ちひしがれたような女たちが肩をくっつけるようにして坐っていた。「玉城村はもう敵がはいっている」「私達は今、引っ返すところですよ」……彼の避難民達も、又、一行が過ぎてきたあの魔の丘を越すかも知れぬ――。
 破壊された具志頭国民学校の附近で、一行は知念半島に行くことを断念した。一行とバッタリ逢った中頭地方事務所長、伊芸徳一は「玉城村は絶対に駄目だ。敵が一杯入り込んで、敵から小銃の狙撃さえ受けた」と彼らに告げた。
 一行は、今度は、右手に屹立する八重瀬やえせ岳を過ぎ、具志頭の部落にはいった。部落は完全に近い程の姿で懐かしい民家が庇を並べていた。その民家には兵隊や住民が満ちていた。そこは北方の知念半島を目指す者や、南に一たん行きかけたものが引っ返す休息場となっていたため、人々の口から口へ臆測やデマが奔り、それが交錯して、混濁した不安な空気を醸していた。人々は今後の行動を決しかねた。ここから一行は村はずれの具志頭高原に向った。左右に白い霧の壁が立っていた。眼につく限り、雑草と、岩こぶの連なる空漠とした高原地帯の一本道、その時一行がすれ違った兵隊、牧港記者は(日本兵の服を着込んだスパイが戦線に出没している、ことに兵隊の一人歩きは厳戒を要する、油断していると住民と兵隊の見さかいなく、すれ違いざまに後から発砲する)……という具志頭部落の民家での話を思い出した。鬚だらけの、落ち窪んだ眼窩にギョロリと異様に光る眼が気になり、彼はハッと背後を振り返った。彼の兵隊服も同時に振り返ったものと見えて、そしらぬ風をする彼の態度がよくわかった。肩から背にかけて走る鈍い戦慄。ただ一行の喘ぐ呼吸の音と足音だけが聞こえる外は一切が虚無に満ちた静寂であった――。
 沖縄島の最南端に近い真壁村、この南端に辿りついたものは、まず誰でも奇異な錯覚に襲われた。山肌を柔かくつつんでいる琉球松の林、静かな細雨に煙る蘇鉄の群生、それが緑の一色に濡れ、かんらんや、さやまめや、きびや、いもが広々とした畑一杯に繁っていた。それがいかにも、平和そのもののように人々の視覚を優しく領したからであった。
 ところが真壁の里は、人々が気忙しげに呼び合い、壊れ残った民家には避難民が続々憩を求めて入り込み、群がっていた。炊さんの煙が立ちこめていた。それから、銃をかざして家畜を追い廻す兵隊の姿が、すべてが妙な物淋しい陽気さえ湛えていた。

日米両軍が死闘を演じた南部丘陵地帯(本書より)
日米両軍が死闘を演じた南部丘陵地帯(本書より)

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 最後の運命を辿る日本軍は、こうした中に、最後の防禦線を張っていた。二十四師が、与座よざ岳より西方海岸にかけて陣を布き、鈴木混成旅団が八重瀬岳、正面の南部海岸には、六十二師がそれぞれ守備についていた。そしてこの守備につく筈の兵隊の中から多数の離脱者が、打ちのめされ、傷つき、敗残の身を引摺るようにして、数千人の非戦闘員にまぎれ込み、ぞくぞく真壁、摩文仁両村へ流れ込んだ。
「沖縄の米軍は、東海岸知念半島を遮断、二マイルを進撃し、那覇飛行場周辺の戦闘は、なお継続中」と、米軍側は報道し、この間の消息を伝えた。
 六月二日、沖縄新報社の一行は壕を探し求めて真壁部落から十数町離れた伊敷部落に向った。――
 その頃、連隊や、大隊を失った兵隊は、他の隊に転属を命ぜられ、四、五人連れの兵隊が、武器も持たずに、女子供連れの住民と共に戦線をさまよっていた。防衛隊員は唯一の武器として手榴弾を渡されて、兵隊の命ずるままに働かされた。仕事は大抵危険な炊事や水汲みなどで、兵隊が斬込みと称する食糧探しには、戦果を運ぶために彼らが使用された。
 ――雨が上り、霧がはれ、上空の敵機がこの大群の兵隊を発見するときは、万事休すだ。民家にいた避難民は漸くこの予感に怯え出して右往左往した。うまく壕にありついた者以外の多くの住民は半壊の民家に、或いは砲弾の火がなめた赤黒く爛れた石垣の蔭にただ固まっただけだった。(後数時間もすれば、この平和郷も、忽ち阿鼻叫喚の地獄に一変するのだ。)一行が予感に怯えつつ轟の壕に向う頃は、既に夕闇が戦場の島に忍び寄っていた。一行は戦車妨害のために積み上げられた石垣のバリケードをいくつも避けつつ丘の中腹にポッカリと大口を開けている巨大な円筒型の自然洞窟の入口に辿りついた。住民はこの自然洞窟を轟の壕と呼んでいた。

沖縄タイムス社編『沖縄戦記 鉄の暴風』(ちくま学芸文庫)
沖縄タイムス社編『沖縄戦記 鉄の暴風』(ちくま学芸文庫)

『沖縄戦記 鉄の暴風』目次

ちくま学芸文庫版『鉄の暴風』まえがき
重版に際して
まえがき
ひめゆり塔の歌

第一章 嵐の前夜
一、揺らぐ常夏の島
二、十・十空襲
三、死の道連れ
四、逃避者

第二章 悲劇の離島
一、集団自決
二、運命の刳舟

第三章 中・南部戦線
一、米軍上陸
二、北・中飛行場の潰滅
三、神山島斬込み
四、軍司令部の壕
五、南へ南へ
六、鉄火地獄
七、伊敷・轟の壕
八、月下の投降
九、防召兵の話
十、牛島・長の最期
十一、出て来い

第四章 姫百合之塔
一、女学生従軍
二、南風原陸軍病院
三、泥濘の道

第五章 死の彷徨
一、第三外科の最期
二、運命甘受
三、女学生の手記
四、草生す屍
五、壕の精
六、平和への希求(姫百合之塔由来記)

第六章 北山の悲風
一、北へ北へ
二、山岳戦
三、真部・八重潰ゆ
四、国頭分院の最期
五、さ迷う兵隊
六、護郷隊
七、敗残
八、武士道よさらば

第七章 住民の手記――板良敷朝基記
一、山
二、飢餓
附録 戦闘経過概要
沖縄戦日誌
日米損害比較
沖縄戦線要図
第1図 沖縄全島図
第2図 南部戦線(慶良間列島を含む)
第3図 中部戦線
第4図 北部戦線
あとがき
二十年後のあとがき
三十年後のあとがき
五十年後のあとがき 
解説 新聞人が遺した警鐘を、いま再び打ち鳴らす――戦後八〇年を目前に(石原昌家)

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