私たちは沖縄を二度と戦場にしない ――初文庫化『沖縄戦記 鉄の暴風』より
記事:筑摩書房
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沖縄タイムス社が戦後まもない一九五〇年に出版し、以来十版三刷を重ねて読み継がれてきた『沖縄戦記 鉄の暴風』が、ちくま学芸文庫として出版されることになった。
筑摩書房から収録の要請を受け、役員会で複数回にわたって検討した。沖縄タイムス社の「魂」であり「原点」である『鉄の暴風』は、沖縄タイムス社が出し続けることに意義があるのではないか、との意見があった。それを筑摩書房に託すことにしたのは、日本全国にこの「魂」を改めて送り出す意義を重く見たからである。
七十九年前の地上戦で焦土と化した沖縄で今、再び戦争の準備が進んでいる。辺野古に新基地の建設が進み、琉球弧の島々に自衛隊の拠点が新設され、強化され、攻撃を受けることを想定した避難訓練や疎開の計画まで持ち上がり、まるで戦前の新聞を読んでいるような感覚に陥る。
沖縄戦では大量の砲爆弾が岩を砕き、森を、家を、町を、命を焼いた。そのさまを「鉄の暴風」と表現したのは、砲爆弾が吹きすさぶ中、壕と壕を行き来して新聞を作った「沖縄新報」の元社員たちである。新聞統制下の「沖縄新報」は、日本軍司令部が首里城の地下壕から撤退を始めたことを機に解散、廃刊となった。
「沖縄新報」の元社員たちは、国や軍に都合のいい情報を批判することなく住民に伝えたことを反省し、沖縄を二度と戦場にしないという覚悟をもって「沖縄タイムス」を一九四八年七月一日に創刊した。そういう覚悟を、私たちは創刊七十五年を経て引き継いでいる。その覚悟に立つと、戦後沖縄の政治、経済、教育、思想など、あらゆる面に影響している沖縄戦を記録した『鉄の暴風』を、筑摩書房と共有し、日本全国に広め、戦後八十年の新たな読者に届けることが重要だと考えた。
『鉄の暴風』が出版された一九五〇年の紙面を見ると、「絶え間ないツチの音 那覇の街に「建築時代」」と復興を伝える記事がある一方、「テント張り那覇中校 ボロボロの天井 焼きつく中でも元気よく」と、建物がなく太陽が照りつける中で学習する中学生の様子や、九歳の子どもが「戦争ごっこ」をしていて拾った「鉄の器物」をたたきつけたところ爆発し、全身やけどを負って死亡した事故を伝えている。「鉄の暴風」はやんでも沖縄戦が地続きになっている時代であった。
初代社長の高嶺朝光は「首里の壕から島尻への逃避行に砲煙弾雨をくぐって九死に一生を得た新聞人として、その体験を記録しておくのは当然の責務であるということと、また、沖縄戦は沖縄人によって書かれることで、平和への道標になり得るというのが、私たちの考え方だった」(『新聞五十年』)と回想している。四九年に出版を企画し、記者の牧港篤三と太田良博が、市町村や一般に呼び掛けて日記や手記を集め、各地で座談会などを開いて取材し、三カ月で原稿をまとめあげたと記録されている。それを専務の座安盛徳が東京の朝日新聞社に持ち込み、出版を取りつけた。
原稿は米軍の検閲を経て一九五〇年六月中旬に出版許可が下り、八月に発行された。「沖縄タイムス」(一九五〇年九月二十六日付)は「同書は既に朝日社によって現地版とは別に発行初版三千部二版四千部をまたたく間に日本で売捌き、近々第三版の準備を急いでおり」と反響を伝えている。
同じ記事に、創刊メンバーが『鉄の暴風』に託した思いを垣間見ることができる。「編纂については既報の通り全般的沖縄戦の様相を余す処なくつたえたところに苦心があり、平明簡潔な文章は誰にでも読める点全住民必読の書たるにふさわしい体裁を整えている、ことにあの尊い体験が個人的におのおのまちまちであり、同書を一読することによって始(ママ)めて沖縄戦の全貌を摑むことが可能である」――。「おのおのまちまち」な「尊い体験」を、すべての沖縄住民の財産として共有したいという願い。何が起きているのか、まったく分からぬままに戦場をさまよった住民に、自分たち新聞人が伝えられなかった真実とは何なのか、それを解き明かす責任感も感じられる。
このような願いのもとに語られ、記録された『鉄の暴風』が、資料としての信頼性を巡って裁判で争われたことがある。大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』に、沖縄戦で住民に「自決」を命令したと書かれて名誉を毀損されたと、元戦隊長らが大江氏と発行元の岩波書店を二〇〇五年八月に訴えた裁判だ。裁判は名誉毀損の形を取っていたが、住民が自ら死を選んだという殉国美談に仕立て上げる狙いが透けて見えた。沖縄の住民が『鉄の暴風』で語った体験がなかったことにされる危険があり、沖縄タイムス社は被告ではなかったものの、当事者意識をもって一連の動きを報道した。
二〇〇八年三月の大阪地裁、同十月の大阪高裁判決は、「元隊長が自決を命令したことが真実と信じるのに相当な理由があったと認められる」などとし、大江氏と岩波書店が勝訴した。二〇一一年に最高裁が上告を棄却し、『鉄の暴風』についても「渡嘉敷島への米軍の上陸日時に関し、誤記が認められるものの、戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を否定できないものと認めるのが相当である」という判決が確定した。
沖縄戦の全容を知る資料がない時期に、それぞれ色濃い記憶を体験者が語ったことそのものに価値がある。『鉄の暴風』を出版し続けることの意義を確信した出来事であった。
七十四年前、創業メンバーはなぜ朝日新聞社に『鉄の暴風』の出版を依頼したのか。それは印刷・製本の体制が沖縄に十分でなかったことがあるだろう。しかし当時に思いを致すと、米軍に占領され、日本と切り離され、政治的な位置付けが定まっていない沖縄から、生き残った住民が沖縄戦でどんな体験をし、今何を語っているのかを、日本全国の人々に伝えたい、という願いがあったのではないだろうか。
日本に復帰して五十年が過ぎ、沖縄と日本本土との交流は盛んになった。一方で沖縄戦の記憶はどんどん遠くなり、日本の軍事化が沖縄に集中して現れ、心の距離は離れているようにも感じる。今、改めて、沖縄戦で何が起きたのか、沖縄の人々が語った生々しい記憶を届けたい。私たちは沖縄を二度と戦場にしない、という思いを込め、七十四年ぶりに『鉄の暴風』を日本全国に送り出す。私たちの志をくんで出版を申し出てくださった筑摩書房に心より感謝申し上げる。
二〇二四年三月二十八日 沖縄タイムス社