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伝説化した未解決事件の謎を解く歴史学の名著 『ハーメルンの笛吹き男』(阿部謹也著)より

記事:筑摩書房

推理小説のようなスリリングな歴史書! ヨーロッパ中世社会の差別の問題を明らかにした記念碑的作品
推理小説のようなスリリングな歴史書! ヨーロッパ中世社会の差別の問題を明らかにした記念碑的作品

 一九七一年五月のある日、私は西ドイツのゲッチンゲン市にある州立文書館の一室で一四、五世紀の古文書、古写本の分析に没頭していた。古文書の分析それ自体はいわば単調な作業であって、精神の集中や高揚した気分を必要とはするが、古文書館の外で営まれている日常生活や世界の情勢、日本のニュースなどからは隔離された一種独特な雰囲気のなかで毎日営まれ、いわば世俗的な関心をいったん濾過した状態で進められるものである。

 天井の高い静かな一室で、その日も私は一年半も毎日つづけられてきたのと同じような作業をつづけていた。私がその頃従事していたのは、バルト海に面した東プロイセンのある地域の古文書史料を徹底的に調査、分析する仕事なのだが、その日も例によってひとつの村の文書を系統的に調べていた。クルケン村の項を調べていた私はなんの気なしにこの村に関する最近の研究のページをくってみた。そのとき私の目にとびこんできたのが<鼠捕り男Rattenfänger>という言葉である。それによると、クルケン村にあるジュルグンケンの水車小屋を舞台に鼠捕り男の伝説が残されているという。

 ある男が粉ひきのところに住み込みで働かせて欲しいと頼んだが、冷淡にあしらわれたので、鼠を小屋中にあふれんばかりに送り込んだ。粉ひきが泣かんばかりに謝ったので、男は鼠を近くの湖の氷に穴をあけてそこに導き溺れさせた、という。ここまで読んだ時すでに私の背筋を何かが電気のように走るのを感じた。この研究者はさらに私が研究していたザクセン地方に<ハーメルンの笛吹き男>にひき連れられた子供たちが入植した可能性がある、と書いていたのである。

 古文書の解説と分析に多少疲労していた私の頭は、それまでの単調な仕事からの息抜きを求めてあっという間に想像の羽をひろげていった。<ハーメルンの笛吹き男>。それは数十年の昔小学生だった私の家にあったまだらの服を着たあのおとぎ話の男のことではないだろうか。思い出してみるとあの話は単なるメルヘンとしてはあまりに生々しくユニークであり、単なる事実としてはあまりに幻想豊かな詩と現実との交錯した彩りをもっていた。そういえばゲッチンゲンから北約八〇キロのところにハーメルンの町がある。うかつにもこれまで気がつかなかったが、この話には何か深い秘密が隠されていそうだ。私が今研究している中世東ドイツ植民運動とも密接な関係がありそうだ。私は文書館の一室で立ったまま、われを忘れて想像の世界に浸ってしまっていた。

マルクト教会のガラス絵から模写した現存する最古の<ハーメルンの笛吹き男>の絵(1592)
マルクト教会のガラス絵から模写した現存する最古の<ハーメルンの笛吹き男>の絵(1592)

 気がついたとき、私の傍に考練な文書館員ゾイカ(残念なことに一昨年突然あの世へ逝ってしまった)が来ていて、「何かお考えですか」という。われにかえった私は、ちょうど昼過ぎになっていたので、そそくさと書類をまとめて、昼食をとりに家に帰ったのである。
 その日から私はいわばこの伝説に憑かれてしまった。毎日午前中は文書館に出かけてこれまで通りの仕事をつづけ、午後には大学の図書館でこの伝説に関する文献史料を集め始めた。さらに土曜、日曜には妻と息子二人を連れて、ハーメルンの町まで出かけたりした。

 すでに一七世紀末に哲学者のライプニッツが「この伝説には何か真実がかくされている」と述べ、深い関心を示して、その解明にのり出したこともやがて解った。私も調べてゆくうちに、一三〇人の子供たちが一二八四年六月二六日にハーメルンの町で行方不明になった、ということが歴史的事実であることを発見して以来、文書館でこの話にはじめて興奮させられた時とは質の違った深い持続的な興奮にとりつかれていた。それは単に幼年時代に記憶をかすめていった伝説を大人の目で解明するといった面白さではなく、また子供たちは一体どこへ行ったのかという、この伝説がもっている謎解きの面白さだけでもない。それら以上に一三〇人のいとけない子供たちが行方不明になったという、異常な事態の背後にある当時のヨーロッパ社会における庶民の生活の在り方が私の関心を強くひいたからであった。いずれにせよひとたび最初の興奮を自分のなかで整理し、秩序だてて自分の関心を追求しようとすると、この伝説の探求もまた私の日常を規定する営みとして、史料を集め、文書を読むという作業として行なう以外にはなかった。

 幸いなことにこの伝説の探求は、私がそれまで長い間かけて追求してきた問題と同一線上にあって、いわば私のこれまでの研究生活のなかに咲いた小さな花ともいうべき位置を占めることになった。私はすでにこの伝説のエッセンスともいうべき内容と位置づけを『思想』一九七二年一一月号(五八一号)で行なったことがある。本書においては、さらにその後に明らかにしえた結果を援用しながら、この伝説を中心にすえ、主として当時の人々の社会生活に観察の目を向けていこうと思う。

 一三世紀ドイツの小さな町で起った、ひとつの小さな事件から生まれたローカルな伝説であるかもしれないが、この伝説は僅かの間に全世界に知られるようになった。一二八四年に起ったこの事件が何であったにせよ、この頃のハーメルンの人々の悲しみと苦しみが時代を越えて私たちに訴えかけているからであろう。その悲しみと苦しみを生み出した当時の人々の生活に接近するとき、私たちはこの伝説に対する素朴な謎解き的関心や好奇心を越えて、ヨーロッパ社会史の一面に直接触れることになるだろう。

阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)
阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)

『ハーメルンの笛吹き男』目次

第1部 笛吹き男伝説の成立

はじめに

第1章 笛吹き男伝説の原型
グリムのドイツ伝説集/鼠捕り男のモチーフの出現/最古の史料を求めて/失踪した日付、人数、場所

第2章 1284年6月26日の出来事
さまざまな解釈をこえて/リューネブルク手書本の信憑性/ハーメルン市の成立事情/ハーメルン市内の散策/ゼデミューンデの戦とある伝説解釈/「都市の空気は自由にする」か/ハーメルンの住民たち/解放と自治の実情

第3章 植民者の希望と現実
東ドイツ植民者の心情/失踪を目撃したリューデ氏の母/植民請負人と集団結婚の背景/子供たちは何処へ行ったのか?/ヴァン理論の欠陥と魅力/ドバーティンの植民遭難説

第4章 経済繁栄の蔭で
中世都市の下層民/賎民=名誉をもたない者たち/寡婦と子供たちの受難/子供の十字軍・舞踏行進・練り歩き/四旬節とヨハネ祭/ヴォエラー説にみる<笛吹き男>

第5章 遍歴芸人たちの社会的地位
放浪者の中の遍歴楽師/差別する側の怯え/「名誉を回復した」楽師たち/漂泊の楽師たち

第2部 笛吹き男伝説の変貌

第1章 笛吹き男伝説から鼠捕り男伝説へ
飢饉と疫病=不幸な記憶/『ツァイトロースの日記』/権威づけられる伝説/<笛吹き男>から<鼠捕り男>へ/類似した鼠捕り男の伝説/鼠虫害駆除対策/両伝説結合の条件と背景/伝説に振廻されたハーメルン市

第2章 近代的伝説研究の序章
伝説の普及と「研究」/ライプニッツと啓蒙思潮/ローマン主義の解釈とその功罪

第3章 現代に生きる伝説の貌
シンボルとしての<笛吹き男>/伝説の中を生きる老学者/シュパヌートとヴァンの出会い

あとがき
解説 石牟礼道子「泉のような明晰」
参考文献

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