1. HOME
  2. コラム
  3. 売れてる本
  4. 阿部謹也「ハーメルンの笛吹き男」 正体不明のままの闇に興奮

阿部謹也「ハーメルンの笛吹き男」 正体不明のままの闇に興奮

 約束を破るのはよくないから人間いつでも正直にいようね。……ドイツの伝説・ハーメルンの笛吹き男から教訓を引き出そうとすると、そんなつまらないお説教しか出てこないだろう。市民たちが笛吹き男にネズミ退治を頼んだが、成功した後で約束の報酬を与えなかったので、町の子どもたちが連れ去られてしまった、というのがよく知られた筋書きだ。ミステリアスで色っぽいところがないではないが、さして面白い話でもない。

 しかしそれは後世の創作だったことが本書ではわかる。中世の古文書や教会の碑文などを参照しながら正体を明かしていくと、ネズミ退治の話は後世の後付けに過ぎず、1284年にハーメルンの子どもたち130人が行方不明になった……というむき出しの事実のみがあったことがわかる。複数の信頼できる文書から、作り話ではなく、実際に起きた歴史的事件であるということも確かになる。「約束を破ったから連れてった」なんて説教臭い話より、15世紀の史料にある、上等な服を着た正体不明の笛吹き男が130人の子どもたちをごっそりさらっていったという謎、こちらの方がよほど闇が深くて面白い。

 本書では植民説、遭難説などいくつかの興味深い仮説を論証しながらハーメルンの闇に迫っていくが、結局結論は出ない。無理に結論を出さない点も本書の誠実さである。その徹底的な資料調査は知的な興奮を与えてくれるし、中世の農民・下層民の生活という遠い過去を生き生きと描き出す。しかし、笛吹き男の正体はわからないままだ。

 それでいい。物語はわからなければわからないほど面白い。人の手が入るとすぐに物語は訓話めいた、お説教じみたものになってしまうが、物語には暗闇がある方が面白いのだ。それは人間や社会が本来抱えている闇をそのまま映しているからである。本書を読んで私はハーメルンの笛吹き男の正体がわからなくなり、かえって面白いと思うようになった。

    ◇
 ちくま文庫・836円=36刷15万3千部(1988年初版)。単行本は74年平凡社刊。筑摩書房が6月、ツイッターで735年前の約130人の子どもの集団失踪事件を発信、若い層にも浸透。=朝日新聞2019年11月2日掲載