アリス、ナルニア、ハリー・ポッターまで……英国ファンタジーの名作が生まれる理由 『なぜ英国は児童文学王国なのか』
記事:平凡社
記事:平凡社
『アリス』、『ピーター・パン』から『ホビット』、『ナルニア』、『ハリー・ポッター』まで、十九世紀後半から現在に至る英国には児童文学の名作が多い。フランスの思想史・文学史研究家ポール・アザールは英国を「子供の本に恵まれたあの幸多き島」と称する。
英国に児童文学の名著が多い理由は、当然のことながら、英語で書かれているから広く世界中で読まれ評価されやすいということでもあるが、無論それだけではない。児童文学に限らず叙事詩・演劇・抒情詩・小説・評論・博物誌・伝記など、英国は多様な分野で名作が輩出し続ける文学の国なのである。他の芸術分野が文学ほど突出していない点も英国の特徴であると言えよう。とりわけ児童文学は伝記・博物誌・推理小説などと並んで特に英国に顕著な分野である。なぜ英国でこれほどまでに児童文学の名作が生まれ続けるのかを考えたい。文化や国民性をステレオタイプ的に捉え過ぎることは無論避けなければならないが、人口に膾炙したステレオタイプの背後には何らかの真理があることもまた事実であり、生活習慣や国民性はその国の歴史・気候・風土など多種多様な要因によって形成されたものであるに違いない。児童文学王国としての英国の背景もまた、当然のことながら、そういった要因と無関係ではなかろう。
児童文学が成立するためにはまず子供の識字率がそれなりに高くなければならず、親が子供に本を買い与えるだけの経済的な余裕がなければならず、また子供の読書に大人の関心が向くだけの精神的な余裕もなければならない。伝統的に挿絵の重要度が高い児童文学には一般の書物よりも高度な印刷技術が求められた。英国における児童文学の第一次黄金時代は十九世紀後半から二十世紀初頭にかけてであり、絵本の第一次黄金時代もほぼこの時期に重なっているが、その背景には英国の経済と科学技術の急速な発展があった。この時期が大英帝国の全盛期とおおよそ一致していることも偶然ではなく、児童文学王国としての英国の第一次黄金時代を支えていたのは一つには帝国の興隆だったと言えよう。
小説家・翻訳家・評論家・児童文学研究家として多岐にわたる活躍を続けた高杉一郎は、英国が児童文学王国である背景として、民族的多様性に起因する異質な神話・伝説の混交、北国に特有の内向的な想像力、幼年時代を重視する児童観、大人の言葉と子供の言葉の乖離がそれほどないこと、過去に子供が置かれた状況(特にヴィクトリア時代の児童労働)の五点を挙げている。これらはいずれも当を得た指摘であるが、ここではさらに別な角度から児童文学王国としての英国に特有の背景を検討したい。
英国の児童文学には特にファンタジー(非現実的設定を含む物語文学)に優れた作品が多い。拙著『ファンタジーと英国文化』(彩流社、二〇一九)の序章で、ファンタジー王国としての英国に特有の背景として、アングロ=サクソン的現実性とケルト的空想の対照をなした共存、風土(天候・風景・地質・生態系)の多様性、古い屋敷や庭園、それに古木が多く残っていることなどに加えて、もう一つの重要な背景として「親の不在」を指摘した。伝統的に児童文学の作者と読者の双方が属していた上層中産階級の家庭では、子供は子供部屋に囲い込まれて乳母の手に委ねられ、一定の年齢になれば全寮制学校に送られるため、親と子の関係が比較的稀薄であり、それが優れたファンタジーを生み出す条件の一つとして機能していたと考えられる。
チャールズ・キングズリーの『水の子』のトム、M.L.モウルズワースの『郭公時計』のグリゼルダ、ジョウン・エイキンの『ウィロビー・チェイスの狼』のシルヴィア、ジョウン・G・ロビンソンの『思い出のマーニー』のアンナ、あるいはJ.K.ロウリングのハリー・ポッターなど、ファンタジーの主人公には孤児が少なくないことに加えて、たとえばピーター・パンはダーリング夫妻が留守の時に子供部屋に現れるし、アリソン・アトリーの『時の旅人』、C.S.ルイスの『ナルニア国物語』第一巻『ライオンと魔女』、あるいはフィリッパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』では、それぞれのファンタジー的「冒険」は両親の不在時に、何らかの意味で古い歴史を持つ「屋敷」に滞在している最中に始まる。『ウィロビー・チェイスの狼』のもう一人の主人公ボニーの両親は物語の冒頭で海外に移住している。
ルイス・キャロルの二つの『アリス』物語では両親のいずれにも言及がなく、E・ネズビットの『砂の妖精』やP.L.トラヴァースの『メアリー・ポピンズ』など両親が存在しているはずの日常的ファンタジーでさえ、ファンタジー的な出来事は必ず両親ともに不在の状況で発生する。
A.A.ミルンの『くまのプーさん』と『プー横町に建った家』は父が息子に話しているという設定だが、語られている物語の舞台は子供部屋に想定された空想上の森に限定され、当然のことながらそこに親は存在しない。『メアリー・ポピンズ』の第七章はジェインとマイケルがメアリー・ポピンズに連れられて父の職場を訪ねる話だが、道中のセント・ポール大聖堂の前にいる「鳩の餌売りおばさん」の挿話に終始し、父の銀行に到着する前に章が完結して、父は(冒頭部分を除いて)まったく登場しない。
このような親の不在はファンタジーに限ったことでなく、たとえばF.H.バーネットの『秘密の花園』のメアリーも孤児であるし、R.M.バランタインの『珊瑚島』では三人の少年が孤島で一定期間を過ごしていて、アーサー・ランサムの『つばめ号とアマゾン号』の兄弟姉妹も子供だけで湖上の島に滞在している(しかも父は国外)。
トマス・ヒューズの『トム・ブラウンの学校時代』に代表される学校物語も伝統的に全寮制学校が舞台であることが多く、当然のことながら子供は親から引き離された状態にある。ネズビットの『宝探しの子供たち』では母と死別した子供たちが、仕事で多忙の父の不在時に(没落した家の財産を回復すべく)多種多様な「宝探し」に奔走する。
おそらく児童文学史上初めて労働者階級の家庭に注目し、一見したところ家族の強い絆を描いているようにも見えるイーヴ・ガーネットの『袋小路の家族(ふくろ小路一番地)』でさえ、それぞれの子供が何らかの冒険に巻き込まれるのは例外なく両親の不在時である。登場する子供のほとんど(戦争孤児ニックを除くほぼ全員)が両親の許に住んでいるはずのC・デイ=ルイスの『オッターベリーの空爆現場(オタバリの少年探偵たち)』もまた、物語中で発生するいずれの事件にも親は一切関与していない。
親の不在は少なくとも二つの点で重要な意味を持つ。一つは言うまでもなく子供が自由に行動する余地を保障するということであり、ファンタジーにせよ空想的要素を含まない冒険小説や学校小説にせよ、親の不在がその物語の前提となる。主人公は親の監視の下にあっては実現不可能な物語を経験するのであり、逆に言えば親と子の絆は(少なくとも英国の伝統的な児童文学においては)それほど重要な関心事ではない。英国の上層中産階級は昔から子供部屋で育児を任されるナニーや全寮制パブリック・スクール、あるいは父親の海外赴任など、両親の不在という状況を成立させる条件に事欠かなかった。
もう一つの重要な意味は子供が過去と切り離されているということである。『ハリー・ポッター』シリーズに典型的に示されている通り、孤児や何らかの理由で親から引き離されている子供は多くの場合、過去とのつながりを奪われ、居場所のみならず自己同一性をも喪失した状態にあり、居場所や自己同一性を探求し回復する過程がその物語の中心をなす。両親は幼い主人公の冒険の機会を奪ったり自由な思考・行動を制限したりする一方で、その子供の過去とのつながりを保全する存在でもある。逆に言えば親の不在は過去との断絶、すなわち自己同一性の喪失に他ならない。この断絶あるいは喪失が物語の発端になり得るのである。(後略)
序章 なぜ英国は児童文学王国なのか
Ⅰ
第一章 ルイス・キャロル……アリスの違和感
第二章 エリザベス・グージ……キリスト教文学としての『小さな白馬』
第三章 メアリー・ノートン……『借り暮らしの小人たち』シリーズの同時代性
第四章 ルーシー・M・ボストン……『グリーン・ノウ』シリーズとその背景
第五章 フィリッパ・ピアス……川辺の物語
第六章 マイケル・ボンド……『パディントン』シリーズとその背景
第七章 ペネロピー・ライヴリー……『時の縫い目』に見る土地の精霊と英国的伝統
第八章 ロアルド・ダール……文学論としての『マティルダ』
Ⅱ
第九章 C.S.ルイスとJ.R.R.トルキーン……インクリングズとその周辺
第十章 『喜びの訪れ』と『ナルニア国物語』
第十一章 『ナルニア国物語』におけるユーモアの重要性
第十二章 『ナルニア国物語』における〈祈り〉
Ⅲ
ロアルド・ダール文学紀行(続)
マイケル・モーパーゴウ……現代英国の国民的児童文学作家
マイケル・ロウゼン……子供と文学の仲介者
J.K.ロウリング文学紀行
あとがき