「人文書を読む喜びを思い出させてくれる」 松本卓也『斜め論——空間の病理学』編集者インタビュー(前編)
記事:筑摩書房
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——刊行までの経緯を聞かせていただけますか。
松本さんの単行本デビュー作は『人はみな妄想する──ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』(青土社、2015年)です。
これは、精神病か神経症かを判断する「鑑別診断」を軸にしてラカンを論じるものでした。精神病と神経症では治療法がまったく異なるので、このふたつをどう見分ける(鑑別する)かが、とても大事だったといいます。
あの本で「おお、あのむずかしいラカンがわかる!」と思ったひとは少なくないと思います。ぼくも当時その例に漏れず、わかった気になった人間のひとりで、松本さんには何か書いていただきたいと思っていました。
こじつけめいた言い方になりますが、『斜め論』はケアの「鑑別診断」をしている本だとも言えます。病気のタイプを見極める(鑑別する)ように、「このケアは望ましい支援になっているか? 抑圧になっていないか?」と、点検する目線を提供してくれる。そのときに鍵になるのが、「斜め」なんです。
『人はみな妄想する』がラカンの鑑別診断を主題としたように、『斜め論』ではケアの鑑別診断が主題になっている。そういう意味では、最初の本と通底するモチーフがあるように思います。
話を戻すと、前職で担当していた思想系の雑誌『atプラス』で、松本さんに特集から人選までお任せする、責任編集号をお願いしました。松本さんは「臨床と人文知」という特集を組まれて、巻頭には千葉雅也さんとの対談が収録されています。
つづく論文が今回の『斜め論』の第1章にあたる「水平方向の精神病理学へ向けて」で、これはぜひ本にしましょうとご相談したのが2016年のことです。
松本さんは、概念を取り出して整理するのが、抜群にうまいんです。そして、その概念を具体的なものに結びつけて解説してくれる。
印象深いのは、ラカンの<父の名>についてです。検索してもらうとわかりますが、パッと理解しがたい、なかなか複雑な概念なんです。
でも、松本さんが言うには、これはマンガの金田一少年の「ジッチャンの名にかけて」というセリフのことなんだと。<父の名>はゼロから何かを決断するさいの拠りどころとなるものですが、ニュアンスがよく伝わるたとえだと思います。たしかに、金田一少年から「ジッチャンの名」をとると、トリックも何もわからなくなりそうです。
松本さんから原稿が届き始めたのは、2020年くらいです。散発的に、「3章にあたる原稿です」というふうに、原稿を見せていただいています。来るたび、興奮していました。
体感的には、2020年ごろを境に、世間的にもちょっとモードが変わったように思います。出版業界で言えば、「ケアをひらく」シリーズが毎日出版文化賞(企画部門)に選ばれたのが2019年です。
ケアという概念が無視できないひとつの前提になっていく、そうした時代の流れのようなものと、この本は歩調が合っている。
——新型コロナウイルス感染症が感染拡大したのが2020年の春からですね。より「個」や「横のつながり」に注目が集まるようになったタイミングだと思います。
たしかにそうですね。『斜め論』には、どうしてケアについての本がたくさん出るようになったのか、その理由が書かれているとも言えます。そこには、やはり時代の必然がある。
詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、ポイントになるのが1968年です。フランスでは五月革命があり、日本では全共闘の運動が始まる。ケア論の隆盛は、そのくらい射程の広い議論なんです。
いまの世界は、どういう場所なのか?
いわゆる理論というか、いまどきそういう大柄なことを書くひとは、あまりいません。時代のモードでもないと思いますし、現場で本をつくっている感覚として、書けるひとも、そもそも書こうと思うひともそんなにいないように思います。
『斜め論』では、「生き延びと当事者の時代」というふうに、いまの時代が特徴づけられています。そのなかでも力点は、そうなった経緯や理由のほうに置かれています。
つまり、「いまの世界はどうしてこうなったのか?」がおもに追究されている。そう言われると、「テーマがでかい……」と思いますよね? あらゆるものを垂直・水平・斜めで考えてみようなんて、風呂敷としてはめちゃくちゃ大きいわけです。
大きなテーマを論じるという意味では、すこし前の哲学・思想の本と似たところがあるかもしれません。たくさん本を読まれてきた年配の読者の方にとっては、どこか懐かしさを感じるような本だと思います。
ぼくは86年生まれですが、「大学時代、こういう本をたくさん読んだなあ」というかんじです。社内でも何人かに読んでもらいましたが、読む世代によっても反応が異なる本だと思います。
——どういうふうに読んでいくといいか、おすすめはありますか?
ぼくのおすすめは、「おわりに」から読むことです。まず、4ページちょっとと短い。「本書の議論は、きわめて個人的な思いに端を発している」と、この本を書いた動機も書いてあります。松本さん自身に垂直的な傾向があり、かといって、たんなる水平に向かうことにも抵抗があったと。本屋さんで立ち読みしてもらって、ピンと来たらレジへ進んでほしいです。
もちろん、どこから読んでもらってもいいですし、中井久夫が好きであれば2章とか、興味のある章から読めばいいと思います。精神分析の話とか、現代思想に親しんできた方であれば、1章から順に読んでいけるはずです。
ただ、頭からちゃんと読もうと、無理しないほうがいいかもしれません。途中でやめてもいいし、つまみ食い的に、行儀わるく読んでもらって大丈夫です。そもそも、本は頭から読まなくてもいいわけですから。
現代的な話題としては、3章の「生き延び」の誕生と4章の当事者研究の政治がおすすめです。時代を象徴するキーワードである「生き延び」と「当事者」について、それぞれの章で論じています。
3章は、これまでほとんど論じられることのなかった、信田さよ子論としても出色です。これは、東畑開人さんがKADOKAWA文芸WEBマガジン「カドブン」に寄稿した記事「私は信田さよ子を知らなかった」と双璧をなすものだと思います。
松本さんは、信田さんの仕事を非常に重要だとして、それを歴史的に位置づけようとしています。
「端的に言って、信田さよ子の仕事は臨床における最良の反ハイデガー主義のひとつである」
「ハイデガー主義」というのは松本さんの用語で、垂直方向の特権化を意味するものですが、この一節なんて、しびれますよね。
——自分は現代思想を読んでこなかったので、「水平から斜めへ」ってこういうことなんだということが3章で書かれていて、とてもわかりやすかったです。
それはよかったです。「斜め」がどういうことなのか、具体的にわかるのがこの本のいいところですよね。
松本さんの文章は、内容は簡単ではないですが、ゆっくり読めばちゃんとわかってくる。そういう意味で、すごく読みやすいと思います。
ぜんぶの章にそれぞれのおもしろさがあるんですが、6章の「ハイデガーを水平化する──『存在と時間』における「依存忘却」について」はそうとう難しくて、ぼくも念校ぐらいでやっと、「こういうことかなあ」という感触をつかめた気がします。
ハイデガーの「気遣い」論の再検討は、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』における「退屈」論の議論を思い出す方もいるかもしれません。並べて読んでも、おもしろいと思います。
松本さんにとって、ハイデガーの存在はとてつもなく大きい。だからハイデガー論は、この本の本丸と言ってもいいと思います。
最初は3章が白眉だと思ってたんですけど、6章もそう。読み返すたびに、どの章もおもしろいなあ、となります。だから、ほとんどぜんぶが白眉のすごい本です(笑)。
(聞き手・筑摩書房営業部)
第一章 水平方向の精神病理学に向けて──ビンスワンガーについて
第二章 臨床の臨界期、政治の臨界期──中井久夫について
第三章 「生き延び」の誕生──上野千鶴子と信田さよ子
第四章 当事者研究の政治
第五章 「自治」する病院──ガタリ、ウリ、そしてラカン
第六章 ハイデガーを水平化する──『存在と時間』における「依存忘却」について
補論1 精神分析とオープンダイアローグ
補論2 依存症臨床の空間──平準化に抗するために