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99枚の「氏名不詳」家族写真から、あの戦争が見えてくる 『一銭五厘たちの横丁』

記事:筑摩書房

町と人びとの戦中・戦後を掘り起こす傑作ルポ/1975年日本エッセイスト・クラブ賞受賞作
町と人びとの戦中・戦後を掘り起こす傑作ルポ/1975年日本エッセイスト・クラブ賞受賞作

「横丁」に過ぎた80年を歩く

 四月の終わりの良く晴れた午後、JR南千住駅東口の駐輪場に自転車を停めて、旧日光街道を南に向かって歩く。泪橋交差点を西に曲がり明治通りへ出てしばらく進むと土手通りとの合流地点だ。その土手通りを渡ったところに台東区三ノ輪一丁目、かつての下谷金杉下町がある。
 土手通りから道を一本入ると台東区立東盛公園があり、隣には区立東泉小学校が建つ。公園の前の道では老年の男性が軒下に座って道行く人を眺め、小学校の教室からは先生の呼びかけに応じる子どもたちの「ハーイ!」という元気な声が聞こえてくる。

 52年前、ルポライターの児玉隆也は出征兵士の留守家族たちが写った写真を手に、この町を訪ね歩いた。写真はその30年前、下谷区生まれの写真家桑原甲子雄が撮影したものだ。写真に写る人たちを探し歩いた記録は『一銭五厘たちの横丁』と題して一冊の書籍にまとめられ、1975年に刊行された。一銭五厘とは召集令状などの郵便物に必要な当時の切手代だ。あとがきで触れられているが、実際の取材は児玉氏だけでなく友人の與倉伸司氏、加藤賢治氏の助力を得て行われており、文中の〝私〟は三人の総称となっている。

 戦前の様子を「露地には、一銭五厘たちが生きていくための生活の音がとび交って交響曲になり、合間を縫って、物売りの声が通る」と書かれたこの町は、平日の午後、土手通りと国際通りに挟まれているにもかかわらず静かだった。こどもの日が近いこともあって、小さな鯉のぼりが住宅のベランダや庭に飾られているのを見かけた。
 三ノ輪一丁目から隣の竜泉三丁目へ南に向かって歩くと、戦後まもなく建てられたと思しき古い家から真新しいマンションまでさまざまな年代の建物が並び、ときおり「売り物件」「管理物件」などと書かれた看板の立つ更地が目に入る。建物の間から東にスカイツリーが覗く。台東区立一葉記念公園では学校帰りの子どもたちがブランコを漕いでいた。竜泉では「小学校の庭に逃げこんで、三百人が折り重って焼け死んだ」。
 国際通りに出ると、鷲神社や吉原にも近く南に歩けば浅草ということもあって、観光や仕事で来たような人たちの姿が目立つ。国際通りを渡り竜泉二丁目を日光街道に向かって歩く。

 児玉隆也氏が、そして文庫版解説で息子の児玉也一氏が訪れた龍泉寺に立ち寄る。小学校の校庭で亡くなった三百人の遺体は胴体だけが区役所で埋葬され、残った手足は寺の門前で湯の花を商う中村さんのお父さんが龍泉寺に運び、供養のため白木の慰霊柱を建てた。
 現在境内に慰霊柱は見あたらず、代わりに平成4年に建てられた戦災物故者供養塔と永代供養塔がある。それぞれに手を合わせて、寺を出た。日光街道がすぐ横を走り、周りをマンションが囲むこの寺の境内に、写真に写らなかった横丁の人びとも眠っている。

 日光街道を渡って金杉通りに抜ける脇道を進むと三島神社がある。金杉下町から三島神社まで、兵士たちはラッパの音とともに行進し、出征した。ラッパを吹いた長蔵さんは児玉氏に「嘘ついて、ラッパで威勢つけちゃったんだなァ。(…)兵隊気分にさせちゃったんだ……おれは」「(…)誰もこの町に帰ってこなかった」と述懐した。三島神社は現在社殿の建替え工事が行われていて、完成した敷地内には十数階建てのマンションが建つ。「横丁」の住人は次々と入れ替わり、ラッパの音色はさらに遠くなる。

 ふと、「横丁」から出征した彼らが赴いた土地にも「横丁」があり、生活があったことを思う。「銃後」という言葉の「銃」が向けられた先を思う。そこにもまた「歴史に名をとどめることのない無量大数の氏名不詳」の人びとがいたのではないか。
『一銭五厘たちの横丁』に綴られた「横丁」の人びとの辛苦や悲哀を思い死を弔うことは、別の場所の「横丁」を想像することを妨げはしない。本書を読みながら、いつの時代どの場所にも存在する「氏名不詳」の人びとが暮らす「横丁」を思った。

児玉隆也 著 桑原甲子雄 写真『一銭五厘たちの横丁』(ちくま文庫)
児玉隆也 著 桑原甲子雄 写真『一銭五厘たちの横丁』(ちくま文庫)

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