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発禁の初期小説、流浪の生原稿――『耽美・悪食・へらず口 水島爾保布コラム・創作選』余話

記事:幻戯書房

『耽美・悪食・へらず口』のカバー(水島の画「浪」 「サンデー毎日特別号 小説と講談」1巻16号より,1922年)と、右側は、日本のピアズリーとも呼ばれた水島のひとつの画風をあらわす、吉井勇歌集『鸚鵡石』(玄文社、1918年)の挿画
『耽美・悪食・へらず口』のカバー(水島の画「浪」 「サンデー毎日特別号 小説と講談」1巻16号より,1922年)と、右側は、日本のピアズリーとも呼ばれた水島のひとつの画風をあらわす、吉井勇歌集『鸚鵡石』(玄文社、1918年)の挿画

水島爾保布。「婦人グラフ」1925年10月号より
水島爾保布。「婦人グラフ」1925年10月号より

 忘れられた鬼才とも呼ぶべき画家・文筆家、水島爾保布(1884~1958年)とつきあって、かれこれ十年余りになる。
 あるいは、谷崎潤一郎と組んだ挿絵本『人魚の嘆き・魔術師』(春陽堂、1919年)を知る方があるかもしれない。エキセントリックな嗜好の持ち主で、「悪食家」なる異名をはせたりもした人だが、絵や漫画にとどまらず、文章もおそろしく達者だった。
 そんな水島の膨大かつ雑多な文章を漁り、資料を追いかけ、なんとか評伝を上梓したのは2024年2月のこと。『文画双絶 畸人水島爾保布の生涯』(白水社)と言い、ずいぶん分厚い本になった。この先、水島に入れあげる奇特な人もそうはあるまいと、書けることはあらかた書いたつもりだが、ひとつ思い残すところがあった。
 それというのは、水島の文章そのものを世に出す出版企画である。めちゃめちゃおもしろいんだけどなあ、いつの日にか――と願っていた。
 するとコケの一念天に通じたか、2025年、幸運にも文集2冊を編むことができた。

念願かなったアンソロジー

 まずは本年7月、戦中コラム集『統制百馬鹿』(岩波書店)を出した。戦後80年の節目にあわせ、日中開戦から敗戦に至る時期のコラムを精選した。戦時体制やそれに便乗する手合いを痛罵し、言論統制下によくぞここまで、と驚く方もあるだろう。
 これにつづいて10月の末、幻戯書房から刊行されたアンソロジーが『耽美・悪食・へらず口 水島爾保布コラム・創作選』である。
 若き日の猟奇的な小説もあれば、大正後半から昭和初期のコラムもある。文章家としての多才さを堪能できるよう、「耽美と猟奇」「悪食と諧謔」「へらず口コラム選」「きわどい創作」といった章立てで、文章をセレクトしてみた。
 たとえば悪逆非道の男が人面疽にとりつかれるピカレスク小説「瘡人」は酸鼻を極め、筒井康隆さんの「村井長庵」を連想させる。コラムでは、日本近代の裏面史と言えそうなものを拾った。滋賀県に逗留中に2・26事件が起き、その衝撃波が流言を呼び込むさまをつぶさに書きとめた一文などもある。
 加えて、単行本未収録の文章を優先することとした。水島は生前、いくつか文集を出している。それらは古書で買えなくはない。よって、初出の紙誌などからよりすぐった文章が大半を占める。それもまあ、労を惜しまず図書館等に行けばコピーできるわけだが、なかには、閲読困難だろう文章もちょっとばかり入れてある。

発禁小説「破壊の前」 掲載誌を探して悶々

 ひとつは初期の小説「破壊の前」である。明治末葉の1910年5月、水島が文芸仲間と出していた「新文芸」第4号に掲載された。ところが、この第4号が簡単にはお目にかかれない。筆者は以前、某県の文学館まで出かけて、ようやく読むことができた。
 なぜ稀覯の一冊なのかと言えば、ほかでもない水島の小説がとがめられ、「新文芸」第4号はあえなく発禁処分となったからである。
 この発禁処分については、近代屈指の書物マニア、「書痴」と称される斎藤昌三の『近代文芸筆禍史』(崇文堂、1924年)にも明記されている。斎藤の解説するところでは「作者は画家である一面、奇行家であり雑文家であるが変態的にも茲に又過激性のこの題材を扱つた所は、益々多芸作家である。此の作は勿論安秩の禁止である」。
 当時の発禁については、事由はふたつあり、性的な表現による「風俗壊乱」、もうひとつが反体制的な「安寧秩序紊乱」、略して「安秩」だった。文芸作品でありがちなのは風俗壊乱だが、水島の小説は「安秩」のカドによる発禁なのである。

 ――と、そこまでは分かったが、ただし、肝心の本文はなかなか読めなかった。
 水島たちの「新文芸」はそれなりには図書館、文学館に所蔵されている。しかし、国立国会図書館デジタルコレクションでも第4号は欠号である。やはり発禁号だからだろう。ただ、先行研究にあたると、近代文学研究の大家だった紅野敏郎先生が「新文芸」を紹介した文章を残し、第4号の内容に言及しておられる。天下絶無ではないらしい。
 いったいどこで読めるんだ!と悶々とした末に、某県の文学館に「新文芸」全号が揃っていることに気づいた。本文にたどりつき、いやもう、うれしかったですね。

 どこが問題となり、発禁を食らったのかも、読めば瞭然だった。
 小説としては、怪作と言うしかない。焚火の前で陰鬱な会話がつづく。闇に潜み、死んで骨になっても寝言を言いたいとのたまう男がいたり、脈絡もなく奇妙な闖入者が去来したりする。正直わけがわからない。アングラ演劇かよ!と言いたくなるほどだ。
 かくも不可解かつ不穏な会話劇に、遠い国で猛獣が吼えている、といったセリフが挟まれる。時代背景からして、ロシア革命を暗示するとしか読まれない。さらにはダイナマイトを所持した男たちがあらわれ、「都が破壊されるのだ」などと呼号する。
 発表のタイミングは、折しも大逆事件(幸徳事件)の摘発前夜にあたる。検閲当局は左翼思想の広がりを警戒していたはずで、そこへあろうことか、「破壊の前」などと題し、きわどい一作を投じたのだから、発禁処分もむべなるかな、である。
 そうした大逆事件との関係も興味深く、完成度には疑問があるにせよ、編者としては、不条理演劇めいた特異な小説が1910年に書かれていたこと自体、紹介に値するのではなかろうかと、アンソロジーに採録した次第である。

生原稿を譲られた“カニバリズム随筆”

 加えて、幻戯書房のアンソロジーには「食ひもの話」という随筆を入れてみた。
 こちらは稀覯も稀覯、古書を探そうとも、図書館や文学館で調べようとも、まず読めないだろう。要するに生原稿が手元にあり、そこから翻刻した文章だからである。
 200字詰め原稿用紙で、24枚。水島らしい奇矯な内容で、戦時下の食糧難を背景に、中国の史書から拾った人肉食のエピソードを次から次へ並べてみせる。
 元来、水島は博学多識で、漢文については、幼少期に叩き込まれ、寝そべって清朝の雑誌を斜め読みしていたほどだった。ふだんはそんな片鱗も見せず、くだけた調子で皮肉やギャグを書き飛ばしているのだが、時折、タガが外れたように、中国ネタの蘊蓄を書き連ねることがある。この「食ひもの話」もそのひとつと言ってよい。

筆者の集めた肉筆作品を展示した「水島爾保布 軸と挿絵原画」展。2024年4月、東京・神田駿河台のShakespeare Galleryで、3日間だけ開催した
筆者の集めた肉筆作品を展示した「水島爾保布 軸と挿絵原画」展。2024年4月、東京・神田駿河台のShakespeare Galleryで、3日間だけ開催した

 その生原稿を譲り受けたのは、2024年4月のことである。その年2月、先にふれたように、筆者は水島の評伝を上梓した。そのささやかな記念として、東京・神田駿河台の画廊のご協力を得て、水島の肉筆画の展覧会をやってみた。評伝のリサーチついでに、少しばかり水島の掛け軸や挿絵原画なども買っていたからで、大半はたまにネットオークションに出てくるのを1万円内外で落札していただけのことだが、それらを一度、ご披露してみるのはどうかなと、酔狂なことを考えたのである。
 すると、思いがけない方が会場へ来てくださった。水島研究の先達、かわじもとたかさんである。1980年代から丹念に資料を収集し、99年に『水島爾保布 著作書誌・探索日誌』(杉並けやき出版)をまとめておられる。
 いまは別の方面へ関心を移されたご様子で、ありがたいことに、水島関連の資料を筆者に譲ってくださった。そこに含まれていたのが「食ひもの話」の生原稿にほかならない。
 これをかわじさんが入手した経緯は、『著作書誌・探索日誌』に記されている。1987年頃のようだが、東京・池袋にあった古書店から取り寄せたという。「この文章の発表雑誌はいずこのものだろうか、気になるところ」ともお書きになっている。
 初出については、筆者もわからなかった。水島の文章は博捜してきたつもりだが、初見の文章だった。内容からして戦時下の執筆であることはあきらかだが、随筆としては長文で、物資が窮迫するなかで掲載しえた雑誌があったかどうか、見当がつかない。
 アンソロジーに採録したものの、遺憾ながら「掲載紙誌未詳」とせざるをえなかった。

「食ひもの話」の生原稿
「食ひもの話」の生原稿

初出未詳のはずが・・・日記に見つけた手がかり

 ところが、である。まったくテイの悪い話だが、アンソロジーの校了後になってから、初出誌を示す手がかりに気づいてしまった。
 それが記されていたのは、水島の戦中日記である。

水島の縁者宅に伝えられた日記より、1944年11月、「書物展望」用に原稿を執筆したことが記される
水島の縁者宅に伝えられた日記より、1944年11月、「書物展望」用に原稿を執筆したことが記される

 水島は生粋の東京人だったが、大戦末期に新潟県へ疎開し、そのまま世を去る。このため当地の縁者宅に、戦中・戦後の日記が現存する。筆者はかつて調査させていただき、その内容は評伝に反映した。ただ、撮影した多数の画像は十分整理できておらず、ごく最近、使いやすいようにファイル名を整理しておくことにした。ついでに、少しばかりファイルを開いたら、不意に「食べものばなし」という小さな文字が目に飛び込んだ。
 大戦末期、1944年11月7日の項に「書物展望の原稿未成」とあり、その「原稿」の割注として、「食べもの/ばなし」と2行に分かち書きされている。
 ぎょっとした。これは手元にある生原稿「食ひもの話」のことではないのか?

 前後の記述を探索してみた。まずは10月25日、書物展望社の原稿依頼状が回送されてきたことがわかる。水島は当時、新潟県燕町(現・燕市)に長逗留し、郵便物は東京の家族から転送してもらっていたらしい。水島は同封されていたはがきで、寄稿承諾の旨を返信している。執筆に入ったのは11月6日のこと。この日と翌7日の項には「未成」とあり、8日に脱稿し、送り終えた。つづいて水島は上京し、14日の項に「書物展望の原稿受取の挨拶」と記す。原稿拝受の連絡が来たのだろう。
 この記述からすると、1944年、「書物展望」誌の依頼で、「食べものばなし」なる原稿を執筆したことはまちがいない。「書物展望」は読書人に向けた雑誌で、創刊は31年、編集・発行の中心は、さきほどの“書痴”、斎藤昌三である。
 斎藤は1924年の『近代文芸筆禍史』で、水島の発禁小説「破壊の前」に触れ、人となりについても一言している。多少なり水島に注目していたのだろう。
 それゆえにか、水島は「書物展望」にいくつか随筆を寄せている。それらは筆者も読んでいた。しかし、「食べものばなし」という文章は記憶にない。
 どういうことなのか。戦時下に執筆された「食べものばなし」は果たして「書物展望」に載ったのか。そして、これは生原稿の「食ひもの話」のことなのか――調べないわけにいかなくなった。

掲載誌は「書物展望」? やはり読めない「戦災号」

 調べた結果を摘記しよう。出版統制に紙不足が重なり、「書物展望」は1944年5月号で休刊に追い込まれる。6月以降は会員制で配布する「会報版」として存続を図った。10月、水島への寄稿依頼は会報版に載せる前提だったのだろう。
 しかしながら、会報版も頓挫し、暮れの第5号で幕引きとなった。水島の日記を踏まえれば、11月10日前後に「食べものばなし」の原稿は届いていたはずで、最終第5号に間に合ったかと思えるが、誌面を見ても、やはり掲載されていない。
 ただ、斎藤昌三はなおも続刊の道を探っていた。「少雨叟」の号による会報版第5号の編集後記に、翌45年は「更に面目を一新して銃後に貢献したい」と書きつけている。
 これは意外なことに、空言に終わらなかったらしい。敗戦の迫り来る1945年4月、斎藤は曲がりなりにも1号、発行したことがわかる。
 戦後の1948年6月、「書物展望」は復刊を果たす。その「復刊号」に「書物展望 戦災号(昭和二十年四月号)」の要目が掲げられている。しかも、掲載8編のひとつが「食ひもの話 水島爾保布」なのである。これは生原稿のタイトルと一致している。

 だいぶ細かい話になってきた。あらためて整理しておこう。
 水島の日記によれば、1944年11月、「書物展望」から執筆依頼を受け、まずは「食べものばなし」のタイトルで書き出した。按ずるには、脱稿時、「食ひもの話」と改題したのではなかろうか。それを受け取った斎藤昌三は、会報版第5号への掲載は見送ったものの、45年3月の東京大空襲の直後、4月に戦災号を世に送り、水島の原稿を掲載したものと思われる。
 ただし、その先にはハードルがある。つまり「書物展望」戦災号が読めないのである。
「書物展望」は1944年の会報版を含め、国立国会図書館デジタルコレクションで閲読できる。84年には臨川書店から全号復刻されてもいる。しかし、いずれも戦災号は入っていない。斎藤昌三に関する評伝も2冊取り寄せてみたが、戦災号に関する記述は見当たらない。敗戦前後の混乱で散逸したものか、目下は“幻の一冊”というしかない。
 誌面を確認できない以上、いま「按ずるに」として述べたくだりは推測にとどまる。水島が執筆し、「書物展望」戦災号に掲載されたらしい文章と、手元にある生原稿「食ひもの話」とは照合できず、よって、同じ文章と言い切ることはむずかしい。
 筆者自身は、同一である可能性は限りなく高いと考える。だとすれば、戦災号が幻の雑誌となるなかで、生原稿のほうが戦禍をくぐりぬけ、めぐりめぐって、いまも現存することになる。それはそれで感慨深く、翻刻した意義もあろうというものだが、戦災号が出てこない限り、生原稿の初出はなお未詳にとどまるとも言える。

水島との10年余 なおも切れない縁

 筆者としては、またしても悶々とせざるをえない。出版された以上、「書物展望」戦災号は日本のどこかに残っていると思いたい。本稿を一読し、お持ちの方があれば、ぜひともご連絡をお願いしたいところだが、それこそ水島初期の小説「破壊の前」が載った「新文芸」発禁号が読めずにいた頃のモヤモヤをひきずることになりそうだ。
 打ち明ければ、ここらで水島に関する仕事はひと段落、というつもりだった。評伝も書いたし、念願の文集も2冊つくれた。この先、やるべきことはあまりないだろうと 思っていたわけだが、そうすっきりとはいかないらしい。
 ひょっとしたら、泉下の水島が筆者を嗤い、呼び止めているのかもしれない。10年やそこら俺につきあったくらいで、分かったような気になるなよと。

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