私たちは新型コロナの教訓を生かせるか 次の危機に備える基礎研究の現場から――『パンデミックのとき科学は』を読む
記事:白揚社
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アメリカの著名なサイエンスライター、デビッド・クアメンが2012年に上梓した『Spillover: Animal Infections and the Next Human Pandemic』に、こんな一節がある。
もしもSARSが[実際とは]逆のパターンで、発症前の感染力が強かったとしたら、2003年のアウトブレイク[SARSコロナウイルスの流行]は効果的な対応が功を奏した例とはならず、もっとずっと暗い物語になっていただろう。
もっと暗い物語はまだ語られていない。もしも語られるとしたらたぶんこのウイルスではなく、別のウイルスについてだろう。「次なる大惨事(ネクスト・ビッグ・ワン)」はたぶんSARSとは逆で、インフルエンザのように症状が現れる前の感染力が強いパターンだろう。それによってウイルスは、死の天使のように軽やかに都市間や空港間を移動することだろう。デビッド・クアメン『スピルオーバー――ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか』(甘糟智子訳、明石書店)
これが書かれたのは、新型コロナウイルスによるパンデミックが起きる8年も前だ。はたして、ここで語られた「ネクスト・ビッグ・ワン」は、2020年、新型コロナ・パンデミックとして現実のものになった。そのため同書は、「パンデミックの予言書」と呼んで差し支えないだろう。
その『スピルオーバー』の著者クアメンが新型コロナについて書いたのが、本書『Breathless:The Scientific Race to Defeat a Deadly Virus』(邦訳『パンデミックのとき科学は――未知のウイルスに挑んだ研究者たちの記録』)である。新型コロナウイルスや新型コロナウイルス感染症に関する本はこれまで数えきれないほど出版されているが、本書の特徴は、新型コロナ・パンデミックの最前線で活躍した100名近い科学者たちへのオンラインインタビューを元に、徹底的に科学に基づいて緻密に書かれていることだ。
クアメンの筆致には、ウイルス学者であり、新型コロナ・パンデミックの動向や新型コロナウイルスをめぐる議論についてある程度精通しているであろう私にとっても、きわめて高い専門性を感じるほどである。しかしその文章はとても平易で(ここには、訳者の多大なる労力も感じることができる)、(学術論文が一般にそうであるように)無駄な形容や誇張はなく、多くの人に親しみやすい。科学や新型コロナ・パンデミックに興味のある読者なら、まるで探偵もののミステリーを読むような感覚で、舞台裏で繰り広げられていた科学の謎解きに没入しているうちに、科学に基づいた事実を整理して理解することができるだろう。
本書では、新型コロナ・パンデミックをめぐる世界中での出来事に触れているが、日本については、パンデミック最初期のダイヤモンド・プリンセス号に関連する出来事が触れられるのみで、それ以降は登場しない。また、たくさんの科学者が登場する本書であるが、日本の科学者は、残念ながらひとりも登場しない。
本解説では、日本の科学者たちの活動の一例として、2021年初頭に私が立ち上げた「TheGenotype to Phenotype Japan(G2P-Japan)」という若手研究者が中心の研究コンソーシアムを紹介したい。(本書でもたびたび出てくる「コンソーシアム」とは、研究を加速化するために、複数の研究者グループが連携して研究を推進するためのもので、パンデミックの中で生まれたユニークな研究スタイルと言える)
L452R変異やデルタ株が登場する頃に、G2P-Japanは活動を始め、その名前が科学雑誌に登場するようになった。その活動内容については拙著『G2P-Japanの挑戦』(日経サイエンス社)に詳しくまとめられているが、私たちG2P-Japanは、デルタ株やオミクロン株などの新しい変異株が出現した時、その変異株の表現型(病原性やワクチンの効果、伝播速度など)を世界に先駆けていち早く解明した。
たとえば、デルタ株の病原性がそれ以前の株より高まっていることを世界で初めて明らかにしたのはG2P-Japanだ。また、2021年末にオミクロン株が突如出現し、世界が再び混沌とする中で、オミクロン株にはそれまでの2回接種のワクチンだけでは不十分であること、当時用いられていた治療用抗体がオミクロン株には効かないことなどを、その出現からわずかひと月足らずで解明した。このオミクロン株の研究は、日本中に散らばるコンソーシアムメンバーたちと分担して解析を進め、私が都内のビジネスホテルに3日間カンヅメをして突貫作業で論文にまとめた。すなわち、科学に基づいた情報を迅速に社会に提供することで、パンデミック下にあった社会に貢献してきたのである。
このような活動を通し、新型コロナウイルス研究に携わる世界中の「専門家」たちに認知されるようになった私は、2024年11月に淡路島で、「次のパンデミックへの備え――コロナウイルスの進化・病原性・ウイルス学(Preparing for the Next Pandemic: Evolution, Pathogenesis and the Virologyof Coronaviruses)」と冠した国際会議を主催した。「パンデミック後の世界におけるウイルス研究のあり方」について、オンラインではなく対面で、広く深く議論する貴重な機会となった。
先ほど述べたように、G2P-Japanは通常ではあり得ない速度で研究成果を出してきたが、それができたのは、日本の研究者たちが有機的に連携していたからだった。しかし、G2P-Japanの活動が始まったのは2021年初頭、パンデミックが始まってから1年も経った後だ。つまり、パンデミックの最初期から活躍できたわけではなかった。
では、「次のパンデミック」に備えるために、ウイルス学者たちはなにをすべきか?
私は、世界中のウイルス学者どうしが普段から連携を深め、情報をシームレスに共有すること、そして、科学に基づいた情報を迅速に社会に提示することが大切になると考えている。淡路島の国際会議の議論の中心になったのも、迅速なパンデミック対応を実現するためのそんな「科学者どうしの連帯のあり方」だった。
それでは、「次のパンデミック」に備えるために、私たちにできることはないのだろうか? その答えのひとつとして、本文に示された著者の答えに共鳴する、現在の私の研究室の活動を紹介したい。
「次のパンデミック」に備えるために、どうしても欠かせないことがある。それは、「動物とヒトとが交差する感染の領域について、国境や種の垣根を越え」て調査をすることである。この領域でいったい何が起きていて、将来何が起きうるのか?
私たちは現在、その答えを探求するために、主に東南アジアの国々の科学者たちとの連帯・連携を深め、コウモリなどの野生動物が持っているウイルスを調査するための国際共同研究を進めている。
そのカウンターパートのひとりには、本書にも登場する、ウイルス生態学者のスパポーン・ワチャラプルエサディーもいる。彼女は、新型コロナウイルスに近縁なウイルスをタイに生息するコウモリから発見した。このような研究は、新型コロナウイルスの起源をめぐる議論に一石を投じるだけでなく、ヒトに感染しうるウイルスを探索するという点でも意義深い。さらなる調査研究によって、将来のパンデミックやアウトブレイクに関わる可能性があるウイルスを未然に見つけることができれば、それに対するワクチンや治療薬の迅速な開発に役立てることができるはずだ。
将来のパンデミックやアウトブレイクの原因ウイルスを未然に見つけ出す。それは荒唐無稽で非現実なことのように聞こえるかもしれない。しかしそのような試みがなければ、世界は極めて脆弱なまま、次なるパンデミックに晒されかねない。
残念なことに、世界をより脆弱にする動きが加速している。「動物とヒトとが交差する領域での病原体の探索」はこれまで、アメリカが主導する研究分野だった。しかし2025年現在、科学に基づかない言説や政策決定によって、それが中断されてしまっている。感染症の文脈において、世界は明らかに、パンデミック前のそれから後退している。
それに手をこまねいたまま、脆弱な世界を受け入れたまま、パンデミックからの教訓もないままの世界でいいのだろうか。私たちが進める研究活動は、この脆弱さを埋めるためのひとつのピースになるものと信じている。そして、本書から得られる科学に基づいた事実もやはり、それを埋めるための大切なピースになるものと信じている。なぜなら科学とは、「大きな出来事に関する陰謀めいた物語」に対する唯一の対抗手段なのだから。