100年前のパンデミックの記録『流行性感冒』を読み解き、未来に伝えるべきこと
記事:平凡社
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出版にあたり自分の訳を通して読んであらためてさまざまなことに気がつき勉強になった。老婆心ながら、参考までに読者諸氏にもその視点を提供したい。
パンデミックは世界を一気に席巻するイメージがあり、日本でも欧米各国やアジア諸国と同じようなことが起きていたと、何の疑いなく思っていた。だが同じパンデミックでも日本は必ずしも欧米と同じではなかった。まず流行の時期、さらに第六章第三節では死亡のパターンが異なっていたように読める。今度のコロナ禍でこれまでに見られている欧米と日本の違いに重なるところもあるようで、興味深い。
インフルエンザという百年前の先人たちにとって得体の知れぬ病気の流行への彼らの対応と、今私たちがCOVID-19の流行に対してやっていることがほぼ同じということ。それは、日本関連の記述の部分ではよくわからないが、欧米諸国の対策の部分からよく見えてくる。たとえば、どちらも飛沫を介した感染であることを見抜き、予防法としてマスクや人との距離をとることや換気、隔離の重要性を挙げている。
その一方で、あまり意味のない対策の、百年前と今の重なりも見えてくる。当時としては相手の本体がわからず理解不足から誤った対策を強調していた百年前と、たたかいの相手の性質がわかってきていながらなお漫然と無意味なことを続けている現在の日本。歴史の皮肉か、百年前から進歩していないということか。たとえば、どちらも呼吸器系ウイルス感染なのに、食器を介した感染や手指を介した感染が過度に警戒されている。
COVID-19のわが国での流行が始まった当初、緊急事態宣言を出すにあたり政府や「専門家」はその根拠として一九一八年米国の二つの都市、フィラデルフィアとセントルイスの事例の比較を盛んに持ち出していた。前者は市民に対して社会的な行動制限をかける介入が遅かった都市であり、後者は早めに行った都市(ただし都市の規模が違う)。結果として後者は前者より死亡のピークが遅く低かった。だから今度も早期に介入すべきというロジックに使われた。だが、第七章にあるアメリカ公衆衛生協会特別委員会報告には、フィラデルフィアと同じく大都市であるロサンゼルス、サンフランシスコは早期介入でも被害が大きく、一方でシカゴ、ニューヨークでは、ほとんど介入的手段をとらなかったのに人口あたりの死者数は極めて低かったことが書かれてある。現代に生きるわれわれが、ある都合のために切り取られた過去の一部のデータだけの説明でわかったような気にさせられているのを、見透かしているような記述である。
インフルエンザの原因となる病原体に関しては当時諸説あり、その研究競争は世界をまたいで熾烈だった。本書は第六章冒頭で四〇頁も割いてその全貌を示している。それでも大きく分ければファイファー(ファイフェル、プファイフェル)氏菌(あるいはファイファー桿菌と呼ばれることもある)を原因菌とする立場とそれを否定する立場の二つになる。ドイツ人発見者(R. Pfeiffer)の名を冠するこの菌は、インフルエンザの原因の最有力候補と目され、当時からインフルエンザ菌(Haemophilus influenzae)という名でも呼ばれており、現在も小児や高齢者の呼吸器感染の一病原体としての地位を占めている。
一方で、患者からこの菌が必ずしも検出されず、培養した菌の接種実験で動物にもヒトにもインフルエンザが再現されなかったことを重視する人々は、他の菌種を原因としていた(これに対してファイファー菌支持者は、この菌の培養が難しく培養で性質が変わると反論している)。さらには、当時は「ウイルス」の存在は知られていなかったものの、通常の細菌が原因ではないとする立場(原因不明)の立場をとる慎重な人々もいた。その中には「濾過性病原体」説を信じる人たちもいた。いくつか知られている感染症では、ベルケフェルトあるいはシャンベラン濾過器という細菌レベルの大きさの粒子を通さない素焼き陶器製のフィルターを通過させた検体で病気が再現できていた。濾過器を通過する、当時の顕微鏡では見えない病原体あるいは毒素の存在が強く示唆されていたが、インフルエンザでもそうだとする人たちである。そうした中には、通常の細菌よりはるかに小さく濾過器を通り抜けられるくらいに小さい細菌を想定する人たちと、それが何かは不明なものの何らかの未知の病原体の存在を想定する人たちがいた。それが後にウイルスの発見につながっていく。
本書によって、このパンデミックでさまざまなワクチンが使われていたことがわかる。そのワクチンをどのような材料で作ったか。当時は国によるワクチンの事前の性能評価や許認可制度のような国家管理もなく、また各自治体あるいは接種機関が製造者から独自に必要量を調達していた。県ごとの接種量を見ると必ずしも人口の多い府県順ではない。それぞれでワクチン接種に対する熱意が違っていたのか、その辺の事情が知りたくなるデータが本書にはある。さらに貧困者に対するワクチン接種のための公的・私的配慮が各地でなされていた事実も書かれている。また、多々あるワクチンの中でだれにどれを打つべきか、本書には書かれていないが実は当時の国会で取り上げられていたという。今度のコロナ禍でも、迅速にワクチンが作られ供給され、世界中で使われ始めているが、これらについては今でも大事であることに変わりない。
「当時の人たちは、ウイルスを知らなかったから細菌が原因と考えそれでワクチンを作った」というのがこれまでの典型的理解だったと思うが、それは必ずしも全面的に正しいわけではない。本書の記述から、当時の人たちの中には、少なくともそこで見つかる菌がインフルエンザの直接的原因ではないと考えていた人たちも多かったことがわかる。はじめに謎の病原体による感染があり次に細菌が来て肺炎が起きるという、今でいう細菌性二次性肺炎の概念も当時すでにあり、その二次性肺炎の阻止を目指していた人たちもいた。細菌で作ったワクチンは、ウイルス感染に対しての免疫惹起という面でほぼ無力であっても、二次性肺炎の発生を抑制したかもしれない。その眼で当時のワクチン接種後調査の結果を見ればいい。科学的には理想的試験条件を満たしていないものの、肺炎による死亡に対する効果はあったようにも見える。罹患阻止で効果があるというのは、確かに怪しくあてにはならない。すなわち、罹患で判断するのは、その定義の問題もあって現在でも簡単ではない。だが、肺炎を代表とする重症化やとくに死亡に関しては、判断は容易であり、ある程度信頼がおけるからである。
一方で副反応の話がある。本書では副反応は「微弱」とする記述が多い。だが、それは当時の観念上のこと。たぶん、当時あったチフスやコレラ等の他のワクチンとの比較でものを言っているようだ。実際には、現代の感覚からすれば副反応は高率にあってそう軽くもなかったようである。接種者の二割がその後欠勤していたという記述すらある。
本書は、日本独自の記述と国外の記述の紹介の集積からなる。記述の中には科学的に疑問が多いところは確かにある。感染対策に関しても、欧米各国も日本も現在の知見から見て誤りも多いが、一方で常に変わらない基本をあちこちに見ることができる。時代として今のような技術はないが基本は押さえていて、センスの良さを感じさせる記述も多い。むしろ技術がある分、細分化され過ぎ本質を見失っている例も散見される今、彼らの眼と頭に学ぶべきことは多い。センスの良さは結果の解釈の慎重さに現れる。病原体論争へのかかわり方や、関連する細菌性ワクチンに対しての冷静でそれまでの大方の見方に対する懐疑的、一部批判的な見方は見事である。日本に限って見ると、国内情報はもちろんのこと、国外情報についての編者らの情報処理に舌を巻く。インターネット検索などもちろんない時代に、よくあれだけの量のしかも世界各国の情報を集めたものである。それだけではない。コピー機もパソコンもなしでのそれらの整理と適切な理解、解釈、評価。すべてにおいておどろくべき能力である。彼らに最大の敬意を表したい。