慢性痛が問い直す人間観――『痛みからの解放』と身体性の復権
記事:春秋社
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前回は、慢性痛が単なる医学的問題ではなく、心と身体を分断する近代的な人間観そのものを揺さぶる現象であることをみてきた。こうした問いは、理論の次元にとどまらず、実践の現場でどのようなかたちをとり始めているのだろうか。そこから、どのような新しい身体観・人間観がいま形成されつつあるのだろうか。
近年、神経科学、認知科学、哲学、トラウマ臨床の諸領域で、身体感覚を中心に据えた人間理解が並行して進展している。内受容感覚の研究は、自己感覚の基盤が身体内部の感覚にあることを示し、身体性認知科学は、思考や意識が身体と環境との相互作用のなかで形成される過程を明らかにしてきた。
こうした理論的転換を、もっとも早く、かつ徹底して臨床実践へと結びつけた人物が、ピーター・ラヴィーンである。彼は、トラウマを「出来事の記憶」ではなく、“身体に凍結した防衛反応”として捉え直した。
ラヴィーンの中心的な発想は、闘争・逃走、凍りつきといった本来完了すべき生理的反応が途中で中断され、神経系に未完了のまま固定化されることで症状が生じるという点にある。この凍結された防衛反応が、慢性的な緊張、過覚醒、そして痛みとして身体に現れる。慢性痛は、終わらなかった生存反応の表現なのである。
慢性痛の神経メカニズムや、トラウマとの関連性については、近年かなりの知見が蓄積されてきた。しかし、現場の医療者や支援者にとって最大の困難は、「では、どのように介入すればよいのか」という実践的な問いである。
トラウマ由来の慢性痛患者に対しては、通常のレベルの刺激であっても神経系の閾値を超えるため、治療的刺激として安全に適用できない場合が多く、再トラウマ化の危険すらある。理論と実践のあいだには、依然として大きな空白が存在している。
近年、慢性痛と情動や記憶との関係に注目した新たな治療的アプローチも各地で試みられている。しかし、それらが登場する以前から、身体感覚へのきわめて慎重な介入を通して、トラウマと慢性痛の関係に実践的に応答してきた点に、ラヴィーンの先駆性がある。
本書『痛みからの解放』の最大の意義は、慢性痛とトラウマの関係を説明した点にあるのではない。決定的なのは、トラウマ由来の慢性痛に対して、どのように安全に介入すればよいのかという問いに、具体的な実践方法を提示した点にある。
ラヴィーンの開発したソマティック・エクスペリエンシング®は、トラウマ理論と神経生理学にもとづき、身体感覚への「微細で段階的な注意」を通して、防衛反応を安全に完了させる方法を体系化した。その方法は、専門家だけでなく、一般の読者にも実践可能なエクササイズとして提示されている。
アメリカで出版されてから10年以上を経た現在も、本書はトラウマ由来の慢性痛に対する包括的な実践モデルとして、ほとんど類例のないパイオニア的著作であり続けている。
ラヴィーンが提示したのは、痛みを無理に取り除こうとするのではなく、身体の反応を理解し、身体に保持されてきた防衛反応のプロセスを、安全に完了させる営みであるという新しい治療観である。慢性痛とは故障のある身体ではなく、危険から身を守ろうとし続けている身体である。この理解は、患者の自己理解を根本から変える可能性を持っている。
慢性痛という経験を通して、近代的な〈人間観〉そのものを問い直すこと。本書『痛みからの解放』が示しているのは、その哲学的課題であり、同時に、現代社会が直面している課題への実践的な応答でもある。