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なぜ『斜め論』は書かれたのか ──紀伊國屋じんぶん大賞2026受賞記念エッセイ

記事:筑摩書房

紀伊國屋じんぶん大賞2026 大賞受賞! 気鋭の精神医学者による、新たな代表作。
紀伊國屋じんぶん大賞2026 大賞受賞! 気鋭の精神医学者による、新たな代表作。

私が自分の「専門」だと称してきたのは、精神病理学という学問です。もちろん、ラカン派の精神分析も長く学んできましたが、医師としての背骨を作ったのは、初期研修から大学院までの期間を過ごした、北関東の精神病理学の牙城として知られるある大学(および大学病院)でした。

精神病理学とは、精神疾患の症状とは何か、患者はそれをどう主観的に体験しているのか、あるいはそもそも精神にとって疾患とは何か、といった根源的な事柄を扱う、精神医学の基礎理論です。近年は存在感が薄れつつあるかもしれませんが、その重要性は今も失われていないと私は信じています。

けれども、その重要性を理解する一方で、私はいつの頃からか、この学問に対してある種の違和感を抱くようにもなりました。率直に言えば、私たちが愛してきた精神病理学には「古い」部分があるのです。それは単に理論が書かれた年代が古いという意味ではありません。精神的な苦悩を捉える「パラダイム」、あるいは「態度」そのものが、現代の臨床現場にあるリアリティとズレてしまい、接続を失いつつあるのです。

かつての精神病理学――これを「古い精神病理学」と呼びましょう――は、ある種の危険な魅力を放っていました。それは、狂気や精神疾患の中に、人間存在の深遠なる「真理」を見出そうとする態度です。

たとえば、かつて「(精神)分裂病」と呼ばれた統合失調症は、単なる疾患であることを超えて、「人間とは何か」という哲学的な問いを突きつける特別な病だと見なされてきました。

精神科医から哲学者へ転じたヤスパースは、統合失調症の患者は、回復不能な「悲劇」と引き換えに、常人には触れ得ない「形而上学的な真理」を啓示されるかのようである、と述べています。かつて文学の中で「結核」がロマン化され、肉体の衰えと引き換えに精神が美しく研ぎ澄まされるとみなされたのと同じように、精神病理学者たちもまた、統合失調症に「悲劇的な真理」を見てきたのかもしれません。

しかし、結核が実際にはそのような病気ではないのと同じように、統合失調症についても、私たちは少し違った角度から考え直す必要があります。

精神病理学では、幻聴や妄想を論じる際、「他者性」や「圧倒性」という言葉が好んで使われます。

自分の思考や意志が、見知らぬ「他者」によって圧倒され、侵入される体験。幻聴とは、単に「聞こえない音が聞こえる」ことではなく、聴覚領域へ「無理やり侵入される」体験です。そうであるなら、そこに何やら重大な他者が「黒幕」として暗躍していると考えるのも無理はありません。

こうした主観的体験を記述してきた精神病理学の知見はきわめて重大なものです。しかし、「他者性」や「圧倒性」を強調しすぎることは、患者を「圧倒的な力に翻弄される無力な犠牲者」として固定化してしまう危険性を孕んでいます。「黒幕」があまりに強大であれば、そこに「交渉」や「工夫」の余地など想像できなくなるからです。

結果として、あらゆる工夫は「その場しのぎ」と断じられ、回復の不可能性や無力感が強調されることになります。いわゆる「薬漬け」の医療は、この想定された「圧倒的な他者」に対する精神科医の無力感の裏返しでもあるのです。

けれども、北海道浦河町の「べてるの家」で行われている「当事者研究」の知見は、この構図を鮮やかに覆します。ある衝撃的な一節を紹介しましょう。

幻聴さん(…)とのつきあいの苦労が始まるたびに仲間や職員に相談し、そこで考えた方法を実際に試すということを繰り返した。それは、いままで誰からも教わらなかった方法だった。
 まず幻聴さんに対して以前は突き放すように怒鳴っていたのだが、仲間の提案を受け入れて、丁寧に礼儀正しく、"お願いして"断るようになった。(…)
 声に出して言うと、幻聴さんにお願いした実感がわくし、最後に「お願いします」を添えると幻聴さんに礼儀正しくできるので、わたし自身、安心できる。(…)
 しかし以前、この頼み方をしても幻聴さんがなかなか帰ってくれないときがあった。10回繰り返しお願いしてもまだ幻聴さんが聞こえたので、思い切って20回「お願いします」と頼んでみた。するとようやく帰ってくれた。『べてるの家の「当事者研究」』医学書院、2005年、68-70ページ

ひとたび「圧倒性」というラベルを貼れば、幻聴は対処不能で交渉の余地のない暴力的な侵入と化します。しかし、「20回」お願いしたら、なんと帰ってくれたというのです!

これは精神病理学の常識に対する、重大な転覆であるように思います。交渉不可能に見えた他者との間に、地道なプロセスを経ることで「交渉の余地」が生まれ、そこから回復が可能になる。「古い」精神病理学が見落としていたのは、まさにこの可能性だったように思います。

少々唐突かもしれませんが、『斜め論』の言葉を使うなら、「古い精神病理学」とは「垂直方向」の思想であったと言えるでしょう。

深遠なる真理を求めて「深み」へ潜行するか、高邁なる理想を目指して「高み」へ飛翔するか。その垂直運動の中で、人は孤独に戦い、敗北し、圧倒的な他者に自己を委ねる。「悲劇」や「真理」を見出そうとするその態度は、精神病理学の魅力であり、同時に隘路でもありました。

対して、現代の臨床現場が求めているのは、そのような垂直的な「真理」ではありません。むしろ、泥臭く他者とつながり、どうにかして今日一日を「生き延びる」ための思想です。実際、21世紀は自助グループ、当事者研究、居場所型デイケア、オープンダイアローグといった「水平方向」の実践に光が当たった時代でした。

本書『斜め論』は、この「垂直から水平へ」というパラダイムシフトがいかにして生じたのか、そして現代において私たちがどう振る舞うべきかを考える本です。

深さや高さではなく、横への広がり。悲劇的な「真理」ではなく、喜劇的な「生存」。孤独な決断ではなく、他者とのフラットな語らい。この転回を追いながら、縦に対して横を、横に対して縦を差し出す、「斜め」の戦略について論じたのです。

けれども、『斜め論』の最初のヒントは、実は当の精神病理学の中にありました。

第1章で取り上げたのは、フロイトが論じたシュレーバー症例です。彼は、昇進や選挙といった人生の階段を「垂直」に登ろうとするたびに発病し、イカロスの墜落のごとく狂気へと落ちていきました。逆に彼が回復に近づいたのは、主体的な高みを諦め、「横へずれる」ような生き方を受け入れた時でした。ビンスワンガーが指摘するように、回復はまず「地に足をつけ」、「横のつながり」を広げることから始まります。そして水平方向を確保した上で初めて、危険ではない「ちょっとした垂直性」——まさに「斜め」のベクトル——を発明できるようになるのです。

この転回は、臨床だけの話ではありません。第2章から第4章で論じたように、1968年前後を境に社会運動のスタイルも変化しました。「革命」という究極の垂直的な大義に命をかける闘争から、ウーマン・リブや障害者自立生活運動といった、水平的な「ピア(仲間)」の関係を重視する運動への移行です。

また、第6章で論じたハイデガー批判もこれに連なります。ハイデガーは世間話に興じるあり方を「頽落」と呼び批判しましたが、マイノリティにとってはこの「頽落」こそが生存の条件となりえます。孤独な決断による「本来性」よりも、安心して依存できる他者との関係に身を置くこと。私たちは無数の水平関係の中で相互に依存し合うことで、初めて自分の足で立つことができるのです。

しかし、単に「横につながればいい」というほど事態は単純ではありません。「水平」もまた、容易に同調圧力や馴れ合いへと腐敗するからです。

そこで重要になるのが、フランスの精神分析家フェリックス・ガタリが導入した「斜め横断性(トランスヴェルサリテ)」という視点です。彼が精神科医ジャン・ウリと共に実践したラ・ボルド病院では、垂直的なヒエラルキーを排しつつ、固定化した水平関係にも陥らないよう、役割を「斜め」に横断する活動によって治療環境そのものを治療し続けました。固定された「施設(エタブリスマン)」ではなく、常に自らを再定義しなおす「制度づくり(アンスティチュシオン)」のプロセスこそを、回復のための道具としたのです。

こうして見ると、本書のモチーフは一つの線で繫がります。

それは、「強さ・高さ・単独性」を志向する垂直のパラダイムから、「弱さ・広がり・複数性」を肯定する水平のパラダイムへの移行です。もちろん、垂直を完全に否定するわけではありません。水平な関係が息苦しい閉域となるとき、そこを突き抜ける「ちょっとした垂直性」もまた必要だからです。

重要なのは、どちらか一方に安住することなく、垂直と水平の間で絶えず揺れ動き、思考し、実践し続けることであるように思います。

もしそれを「斜め」と呼ぶことができるなら、それは病や苦悩と共にありながら、他者と繫がり、ユーモアを忘れず、日々ズレながらもバランスを取り続ける動的なプロセスそのもののことなのです。

松本卓也『斜め論——空間の病理学』(筑摩書房)
松本卓也『斜め論——空間の病理学』(筑摩書房)

『斜め論——空間の病理学』(筑摩書房)目次

第一章 水平方向の精神病理学に向けて──ビンスワンガーについて
第二章 臨床の臨界期、政治の臨界期──中井久夫について
第三章 「生き延び」の誕生──上野千鶴子と信田さよ子
第四章 当事者研究の政治
第五章 「自治」する病院──ガタリ、ウリ、そしてラカン
第六章 ハイデガーを水平化する──『存在と時間』における「依存忘却」について
補論1 精神分析とオープンダイアローグ
補論2 依存症臨床の空間──平準化に抗するために

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