東京堂書店や共同印刷、博報堂のルーツでもある文化王国の知られざる歴史に迫る ――堀啓子『伝説の出版社 博文館』より
記事:筑摩書房
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大橋佐平は、多くの雑誌や書籍を刊行し、博文館を巨大出版社へと成長させた。その悲願であり、生涯最期の大事業となったのが、知の総本山としての私設図書館の創設である。公共に資することを生涯の目標に掲げてきた佐平は、洋行の折にアメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーによって建てられたカーネギー図書館に感銘を受け、こうした図書館を日本にも増やしたいと考えた。そして自ら大橋家の私財を投じて大橋図書館を開設する。この図書館は、その後の公私多くの図書館のモデルとなると同時に、数々の図書館に関する講座を開催して図書館学の礎をつくる。また蔵書の展示などの工夫は、現代の多くの図書館に受け継がれ、来館者の知的好奇心をかきたてる、図書館展示企画の嚆矢となった。
一方、佐平の跡を継いだ、二代目博文館館主・新太郎は博文館の経営をより多角的に拡張し始めた。すでに相当の資本を蓄え、多くの企業の取締役や理事を兼任していく新太郎は実業界でも大きな役割を果たすことが期されていた。そして事業提携や合併などにより、最終的に八十以上の企業に関わりを持つに至った博文館は、コンツェルンと目されていくことになる。そして最盛期となる昭和十年代には政財界や軍部との結びつきも極めて強固になったが、皮肉にもそれが戦後の博文館の終焉へとつながっていく。本章では博文館が近代日本に資した内容を総括し、戦後の展開についてまとめる。
読むことと、調べること。そして書くこと。近代的教養を身に着けていく過程で人々が求めていたものを、博文館は的確に看取し提供し続けた。そして明治三十四年、同館は営利目的を離れて純粋に社会に資する企画を立ち上げる。それが、私設・大橋図書館の創設である。書物の販売によって得た利益を社会に還元したいという、初代館主・大橋佐平の予ねての望みを形にしたもので、知の総本山でもあり、博文館の目指す教養の総結集の場でもある。
当時の日本には公私併せても数えるほどしか図書館がなかった。時の文部大臣・菊池大麓も「全国に五十有余」と認識しており、東京市内でもめぼしい公開図書館は帝国図書館(通称、上野の図書館)と帝国教育図書館(千代田図書館の前身)しかなかった。いっぽう佐平は明治二十六年の欧米視察で、アメリカのカーネギー図書館を初めとする多くの図書館と、それらが一般市民に寄与している状況を目の当たりにしている。翻って、欧米とは比較にならないほど貧弱な日本の図書館事情を顧みた佐平の夢は、いっそう具体的、現実的なものとなった。
そして「社会に対し公益事業を起して、感謝する所あらんと企画」(『博文館五十年史』)し、「国民教育の為に、報效の力を捧げる」(『大橋図書館四十年史』博文館 昭和十七年)ために、佐平は私財を擲って私設図書館の創設に踏み切る。悲願達成の好機は、博文館創立十五周年となる明治三十五年と志した。だがそれに先立ち、佐平は胃癌を宣告され、時間も限られていた。そのため、当初の予定を前倒しにし、図書館設立に着手したのである。協議員、理事には錚々たるメンバーが名を連ねた。なかでも、寄付行為証書に「親友」としても署名した陸軍軍医総監の石黒忠悳(ただのり)男爵(のち子爵)や東京帝国大学文学部長の上田萬年の尽力は大きかった。同郷の石黒は、佐平の外遊時にも送別会の発起人を務め、この時に至っては胃癌に罹患した佐平に余命を宣告した医師でもあり、佐平も全幅の信頼をおいていた。そして佐平没後も四十年以上にわたり、協議員、理事、名誉館長を無報酬で歴任し、大橋図書館に物心ともに大きく寄与した人物である。
趣旨書を文部省に提出し、ほどなく設立認可が下りると、彼らは麹町区上六番町で普請に取り掛かった。これは現在の千代田区三番町の東郷元帥記念公園の側で、建坪は百十一坪余り、二階建ての洋館である。そして翌、明治三十五年に財団法人大橋図書館は竣工、六月十五日に開館し、二十日から一般に門戸が開かれた。工事費と維持基本金に充てられた額は十二万五千円、大橋佐平の出資である。集められた蔵書は和漢書が三万、洋書は二千、雑誌は国内誌三千五百、外国雑誌五百余りになった。残念ながら佐平は開館を見ずに世を去る。その遺志で香典などは辞退したが、それでも寄せられた供花料他の千八百円もこの図書館の特別図書購入費に充てられた。建設を請け負った清水組ほか個人や団体での寄付も多かった。
大橋図書館の開館は大きな話題を呼んだ。そして開館初日は午前七時に開館すると、八時には二百二十の閲覧席が満席となり、入館できない人が表にあふれかえったという。
博文館が創業からわずか十五年で、私設図書館の創設まで成し遂げたことはやはり偉業の達成といえよう。『太陽』などの雑誌でも創業十五周年特集や特別企画を組んではいたが、博文館の名をより広く人口に膾炙し、高からしめたのは、やはりこの大橋図書館の開設である。この図書館は趣旨通り社会公共に資するところが大きかった。根底にあるのは、明治三十四年に発表された佐平の「図書館設立の趣旨」にも明らかなように、「図書の価格を低廉にし、一般社会に対して、読書の範囲を拡張」しようとした彼の首尾一貫した理念である。
大橋図書館の存在は徐々に広まり、来館者は増え続けた。開館は通常は朝七時から夕方五時だが、翌年の九月一日からは午後六時から九時まで開館する夜間開館時間も設けるなど、季節ごとに開館時間を変える利便性も際立った。開館初年度は六万四千三百五十人で、一日平均百八十人余りで推移していた来館者は、五年後の明治三十九年には、年間(開館日は三百四十一日)来場者は八万一千八十四人、一日平均二百七十七人強にまで増加する。半数以上が学生であったため、明治三十七年の日露戦争の開戦年のみ来館者はやや減少するが、それ以外の年の来館者は年に数千人単位で増加の一途をたどる。じっさい大橋図書館理事となった坪谷善四郎も「方今全国私立図書館中に在て、基礎の鞏固と閲覧者の多きは第一流」 と、そのレポートで自負している。
来館者には図書求覧料の三銭が課され、リピーターにはやや割安の回数券も人気があった。そうした収益の全ては、新たな書籍購入に充てられた。そのため来館者の増加は蔵書の増加に直結し、八年余りで蔵書は、和漢書六万八千三百二十二冊、洋書は六千五百三十六冊にまで増えたのである。
ただ大橋図書館の社会への貢献は、単に人々に図書閲覧の場の提供したにとどまらない。同館で最初に開催された催しは、明治三十六年の八月一日から二週間にわたって開かれた図書館事項講習会である。日本文庫協会主催で、今でいう図書館学の講習であり、これが近代日本の図書館学教育の嚆矢となった。なお「文庫」とは、現在の図書館とほぼ同義だが、当時は官庁や学校付属の図書保存機関の性格が濃かったためこう呼ばれたのである。
大橋図書館主事の伊藤平蔵が文庫協会員であったことが、この講習の開催につながったのである。講習料は二円で、決して少額ではなかったが、定員三十名の倍近い応募が全国からあり、最終的に三十七名が修了証明を受けた。彼らはその後、各地での図書館設立に尽力している。
また大橋図書館は、貴重な資料を保存するのみではなく、披露するという役割も示した。明治四十年に上野で開催された第一回勧業博覧会に大橋図書館は、図書館の書棚や和漢書、カード、平面図などの参考品と蔵書を出品している。内外に日本の近代化の象徴をアピールする目的の同博覧会において、大橋図書館の出品が「教育・学芸部」の二等賞を受賞したことは意義深い。その後も稀覯本を天覧に入れるなど、同館は図書館の在り方を示すことで文運の発展に寄与している。
なお、当時東京の市会議員をも務めていた坪谷が、市議会に建議書を提出したことで現在の日比谷図書館が開館し、これが東京の公立図書館の濫觴(らんしょう)となっている。名実ともに、大橋図書館の創設が、日本全国に図書館発展の機運を盛り上げていったのである。
こうして大橋図書館は〈読書愛好家の浄土〉と言われるまでになり、児童の来館者も増え始めた。明治二十八年に生まれ、青山で少年時代を過ごした版画家の川上澄生は、幼少期に好んで大橋図書館を利用していた。その著書『少々昔噺』には、川上が小学校の尋常科時代によく大橋図書館を訪れ、楽しい時間を過ごしていたことが記されている。この中に、大橋図書館内の食堂について記された貴重な記述がある。それによると「天井の高い白い壁の食堂でジヤム付の食ぱんやゆで小豆を喰べた」ようで、そのメニューは、十年後の明治四十五年になっても変わらなかったらしく、「十年一日の如く牛乳とパンとのみ提供なりしが、今月十三日頃より稲荷鮨を入るゝことにしたるは嬉し、味もわろからず。」とあるのは微笑ましい。
『少年世界』にも「大橋図書館の設立」という記事とともに、佐平による「設立の趣旨」が掲載されている。当時の小学生の正確な入館者数は不明だが、博文館が明治三十六年の秋までに、奨学無料閲覧券約六百枚を各区の小学校の優等生に贈与していたために、徐々に小学生の来館者が増え、少年向きの書籍を閲覧する子供たちの姿は散見できるようになっていた。分野ではやはり文学の閲覧者も多く、川上澄生少年のように最初は年上の友人に連れられて来館するようになり、『十五少年』を愛読したという小学生の数もそれなりにのぼったのであろう。
大正時代に入ると、連日、二百二十の席が満席続きとなるますますの盛況となったため、大橋家から新たな拠出をもって、鉄筋三階建ての四百席ある新図書館の開館の話が浮上していた。だが折悪しく、大正十二年の関東大震災に見舞われる。惜しむらくはこの時、八万八千冊にまで増えていた図書館の蔵書がもろともに全て焼失してしまったことであろう。この時の博文館は、本社も関連事業の会社も大橋家の本邸でさえ、すべて焼け落ちるという甚大な被害を被っていた。だが二代目館主の大橋新太郎の私財五十万円をもとに、安田善次郎の五万円を初めとする多額の寄附も集まり、一般の読書家や学生からの強い要望に応えて、大橋図書館は新たな土地に再建される。
そして大正十五年に新たな図書館として開館した折には蔵書は五万五千冊がかき集められていた。場所は麴町区飯田町一丁目、開館は前の館と同じく六月十五日である。鉄筋コンクリート六階建てで八百八十六坪、収容人数は五百人である。閲覧室も男女、子供などに分かれ、運動場が屋上にある他、理髪室や食堂も完備した立派なもので、入館料は大人が五銭に決められた。
その後、この図書館は第二次世界大戦の戦禍は免れたが、現存はしていない。戦後の公職追放によって博文館が廃業を余儀なくされたことで、大橋図書館も土地を売却、蔵書数や規模を縮小して、当初は博文館三代目の大橋進一の私邸に移されていた。それは一時避難であったはずだが、その間に進一の、図書館財産横領疑惑が浮上する。その後は西武鉄道に譲渡され、西武と、芝の増上寺との協力によって、増上寺の近くに設立された現、三康図書館にその蔵書の一部が引き継がれている。
こうして大橋図書館は「文明の鑰(かぎ)」を標榜し、 日本の近代の文運を大いに高めた。この時代の日本において、大橋佐平が西洋的なノブレス・オブリージュ(富や権力、地位を持つ者が担う社会的責任)を意識していたことは注目に値する。その認識は例えば、
君が出版業にて贏(か)ち得たる資金の或る部分を以て図書館創立に充て、以て世の学問を資んとの遺志を現はしたるは、吾人以て空谷の跫音となす。(中略)祖先伝来の資産の一部を供出したるハ、大橋君が赤手にて贏ち得たる遺産を以て独力創建すると頗る異なる所
あるいは、
氏の如きは富豪家の本分を知り、「能く集め能く散ずる」てふ言葉を遺憾なく事実に示すものと言ふべく
などと報じられた ことにも明らかである。図書館の創設という卓抜した着眼点とともに、一代で築きあげた財を惜しげなく供出して公共に資した行為が大いに賞賛されたのである。
興味深いのは、佐平の信念の強さであろう。佐平が既に鬼籍の人となったある時、石黒忠悳が教科書の出版問題に関してインタビューを受けた。折しも教科書出版に関するマージンや、そのキックバックを一部の出版関係者や公人が受けているという話題が取り沙汰されていた時期であった。石黒はそれを「法律上の罪とはなるまいが、教務に従事する、教育家の徳義上には慙愧すべき」としたうえで、大橋佐平の生前の言を引き合いに出す。そして佐平が、
若し拙者が、教科書に手を出したりしならば、身上は此五倍に増して居るだらう、併し(左の手にて首を撫でヽ)此白髪首は文部省や府県の小役人に、下げる頭でないから、教科書には不適当だ、だから身上もまた此の如くに小さい
と語ったと回想する。
教科書に関連して皮肉だったのは佐平没後の二年後に、二代目の新太郎が日本書籍株式会社を設立し、国定教科書の翻刻を請け負って、同業者合同九割以上の出版を独占したことであろう。もとより時代も状況も異なろうが、明治四十二年には博文館は国定教科書の作成にも協力することになる。
佐平は一代で身代を成し、帝国と言われた博文館を育てあげた。だが私財に恋々とすることなく、日本の社会と人々の近代化と文明化を願い、文字通り〈博文〉の機会を供するために奔走した。博文館帝国の主にふさわしい姿で最後まで走り抜けたのである。
最後に博文館がかくも巨大企業に成長した背景として外部との関わりをみておきたい。博文館は創業者の大橋佐平以来、多くの人々に多様な書物を提供することを使命とし、図書館の創設に行き着いた。その理念は極めてシンプルで、実践したのは
1 日本人の近代化文明化を推し進めるために出版業を興した。
2 様々な出版物を廉価で提供し、世代や性別、格差を問わず人々を涵養した。
3 出版業から得た利潤で図書館を創設し、社会への還元を果たした。
というものである。多くの近代人にとって読書の楽しみは新しい発見であり、書物に接すること自体が心躍る体験だった。だがこうした新しい文化を根付かせるために、出版業を軌道に乗せるまでは平坦な道ではなかった。徒手から博文館を立ち上げ、わずか十五年でこの理念を実現する資産を築くことは、書物の薄利多売だけでは成しえなかった。それが叶ったのは、より大掛かりな近代的出版システムを構築しえたからである。
当時は、出版と取次および小売の各業態ははっきりと区分されていなかった。そのため通常は出版社が販売店も兼ねており、小売りの傍ら、書店にも卸すのが常だった。また書籍と雑誌も扱いが異なっていた。特に地方では、書籍は書店が東京の版元から直接仕入れるのに対し、雑誌は新聞の売捌き店が〈取次〉となり、客の注文を受けてから郵便で取り寄せるのが主流で、より複雑だった。ただ書籍は新刊自体が少ないために売れ残りはなく、雑誌も注文販売のために売捌き店が損をすることはない。また地方で販売される雑誌の種類も、博文館が多くの人気雑誌を手掛けるまではそれほど多くはなかった。そのため、それまではこの方式でまかなえたのである。
江戸時代まで書籍は、京大坂と江戸では互いの出版物を交換する「本替え」という現物交換方式を採っていた。その他の地方書店からは店主などが年に二三度上京して版元を歴訪し、目ぼしいものを仕入れるという程度で、前回分の支払いもそのついでという、何とも大らかな時代である。ただ、こうした関係が成り立ったのは版元と地方業者とが江戸期以降の伝統として長い年月に培われた義理と人情で結ばれていたためである。だがこれでは新規参入は難しく、書物の普及に発展性もない。そのため博文館は、全国の主なる書店と直接取引してそれらの特約店を組織化し、独自の販売網をつくりあげた。ここに全国ネットで出版物が流通する礎が初めて築かれたのである。
この博文館の知恵をより発展させるため、設立されたのが東京堂である。東京堂は 明治二十三年、神田に小売店として創業する。創業者は佐平の義弟の高橋新一郎で、命名は大橋新太郎に拠る。新一郎は起業のため上京したが、相談した佐平が書店の開業を助言したため神田で開業した。当初は書籍の小売が主な業種で、雑貨も扱っていた。この時からごくわずかに取次業も手がけたが利益は薄かった。じっさい、明治二十三年五月発行の『博文館発兌諸雑誌書籍月報第一回』によると、たとえば『日本大家論集』は、定価十銭、博文館の卸値七銭五厘、東京堂の小売値は七銭六厘から八厘で扱われている。他の書籍雑誌も概ね同じで、東京堂の小売りの利幅は四分くらいから多くて八分で、大変な薄利である。これは一方では、当時の激烈な割引競争を物語るものでもあった。
だが翌年、新一郎の娘婿であり佐平の次男である大橋省吾が、東京堂の二代目を継ぐ。従姉妹と結婚した省吾は、当初は高橋姓を名乗っており、両家はより強く結びついた。そのため東京堂と博文館もより一層、関係が深まり、省吾は既に博文館の有していたネットワークを足掛かりに、取次業に本格的に乗り出す。博文館はもともとルートを持っていたため、地方への売捌きにさほど不自由はなかった。そのため佐平はむしろ他の出版社の取次を省吾に推奨したのである。文運を日本全体のものとして押し上げようという佐平の心意気であろう。そして、博文館の出版物の中でも人気の雑誌や書籍を、東京堂に中心的に扱わせることにより、東京堂も次第に取次としての基盤を固めていくことになった。
省吾の最大の功労は、出版業全体を俯瞰し、新たな視点でこのネットワークをより近代的なものとして拡充したことである。その際、新聞に鮮烈な広告を載せることで卸売業を拡大し、取次(売捌き店)も開始する。そして地方の大きな書店を特約店として特に京阪には一手販売の特約店をつくり、そこから市内の小売店にも卸すことで枝を拡げ、全国的な広がりを見せるようになったのである。
就中(なかんずく)効果的だったのは、明治二十四年五月から取次用宣伝誌『東京堂発兌書籍月報付諸新聞雑誌目録』を発行し、全国の書店などに無料で配布したことである。そして、同目録の二十五年二月号に「東京堂営業趣意書」を掲げ、それまでの義理や人情での結びつきによる取引を廃し、ビジネスライクな現金主義での取引に切り替えた旨を表明する。そしてその月報において未払い店は公表する、という強気の姿勢を貫いた。この極めて斬新な手法が取り入れられたのはもとより博文館という大きな後ろ盾があったればこそである。そして「仕入も現金、販売も現金取引」で、良品を「大量に正確に」届けるサービスを徹底して効率化をはかり、各地の書店の信頼を獲得して取次の草分けとして成長していった。
その後、佐々木信綱の『歌学』や、漱石が『我輩は猫である』や『坊っちゃん』を発表して話題をさらったことでも知られる正岡子規主宰の『ホトトギス』など、十四の有力雑誌と特約の独占契約を結んだことも、東京堂発展の背景として特筆すべき点であろう。
そして東京堂は書肆として書棚の陳列と販売にも、開放閲覧式を早くから採り入れる。それまでの座売り形式を廃した近代的な方式で、省吾が横浜の商館をヒントに採り入れたのである。これは即ち、現代の書店形式の嚆矢で、「壁面に棚をつくって、下駄ばきのまま入れるようにしたわけで、今日の書店形式を初めてやったもの」とされる。そして「日本一の大取次書店」と謳われるまでに成長していった。
アイデアマンでもあった省吾の斬新な商才は佐平譲りらしく、彼は自ら文武堂という小さな出版社を明治二十四年に設立する。敷地内での営業で、発売元は博文館とする、ごく小規模な会社であった。二十二年に博文館の総資産が一万円に達していたことに鑑みれば、資本金三百円の文武堂の規模は推して知るべしである。ただ文武堂は北村透谷の全集や津田梅子の英語教科書、幸徳秋水の社会主義関連書や押川春浪の冒険ものなどの良書を数多く扱っており、文学史上も、看過できない存在となった。
こうして流通ルートを確立した博文館は、さらに洋紙業、印刷業にも進出している。厳密には、それぞれの事業を創業したのは独立した別会社である。ただ、ともに一族経営で、博文館から枝分かれしたかたちをとっている。そのため社名も類似している上に、創業時期も同じ明治三十年で、博文館の創立十周年という節目の年に事業形態を分割したという意味合いが強い。そのため両社は発展の過程で事業内容が重なることもあり、つかず離れずの経緯を経て発展している。
この年、佐平はまず創業当時からの功労者であった山本留次に独立を勧める。先にふれたように、留次は佐平の甥にあたり、博文館旗揚げから佐平と苦楽を共にしてきた人物だった。彼は後に実業家として大成し、多くの企業の取締役や監査、理事を初め、東京商工会議所の議員も務めていく。気配りの行き届いていた留次はこの時、出版業を営む博文館と、取次業に従事する東京堂との兼ね合いを慮り、自らは洋紙販売業を始めることとした。この事業はもとより博文館によって、全面的にバックアップされる。資本金も大橋家から二万二千円を提供され、山本自身の八千円と、併せて三万円であった。こうして神田で産声を上げたのが、「博進堂洋紙店」である。同社は翌年「博進社」と改名し、大阪にも支店を設けて、当初は良質な舶来品の販売に注力した。ただその過程で、印刷業にも関わりを持ち始める。
一方、同じく明治三十年、博文館は自社専用の活版工場として「博文館印刷工場」を京橋に設立する。これが現在の共同印刷の原点である。だがほどなく手狭になったため、翌年に小石川区に移転して「博進社印刷工場」と改称した。こちらは合資会社として資本金を八万五千円とし、二年後に佐平の次女と婚姻し、後に婿入りして大橋姓を名乗ることになる博文館員の森垣光吉が、経営陣に名を連ねた。
ただ同社は明治三十七年、自火によって甚大な損失を生じ、翌年に再建することになった。このとき「博進社印刷工場」は印刷部門と洋紙部門、製本部門に分離され、資本金を二十五万円で、独立した「株式会社博文館印刷所」とした。爾後、博文館の印刷物に限らず、広く一般の注文にも応じるようになる。なおこの機会に「博進社」の山本留次は印刷事業から撤退し、洋紙業に専念することを決意する。その際、手がけていた印刷業務は「博文館印刷所」に移し、以降印刷関係はここで一本化することになった。この間の経緯は『博文館五十年史』に
斯くて博進堂洋紙店の業務は、幸ひに次第に発達し、三十一年九月より合資会社博進社と改称し、資本金を二十万円に増し、印刷及び之に附帯する各種の事業をも営むことヽとなつたが、後に印刷事業を博文館印刷所に移し、専ら洋紙販売業に従つたのである。それが明治四十四年百万円の株式会社に改め更に大正六年には資本金二百万円に増資して日本屈指の大紙商とまで発展した。
とされている。
なお大橋(森垣)光吉は明治三十九年、再建された「博文館印刷所」の敷地に自ら資本金三万円を出資して、美術印刷を主とする多色刷りが専門の「精美堂」を創業する。これは活版が主力の「博文館印刷所」とは異なり、石版やコロタイプ版、木版などを中心としていた。そしてこの二つの印刷所は二人三脚の役割分担で、順当に業績を伸ばしていくことになった。
補足するならば「博文館印刷所」には、明治四十一年に新太郎が欧米視察から持ち帰った多くの新技術が反映されていた。それは印刷界の一大革新と目され、印刷機械の製造も始めていたのである。ただ大正四年に再び火災が発生し、多くが烏有に帰してしまった。そこから博文館印刷所を再々建し、精美堂と共に竣工した新工場は八千二百坪の敷地に、千六百名の従業員を抱え、活版、石版、凸版、写真版、ロータリーグラビアを初め、あらゆる版の印刷に対応できる巨大な印刷所となった。落成パーティーに九百名を招いて、工場内全てを見学させていることからもその自信と勢いは窺える。
また敷地内には賄い所や寄宿舎はもとより医院や物品供給所まで付設され、翌日には、従業員の家族五百名も招き見学させて記念品も渡したというから現代でいう福利厚生の点でも進んでいたのであろう。まさに「我国印刷界の偉才」 と称されるのにふさわしい新工場であっただろう。
なお、同社は昭和四十六年に大倉洋紙店と合併し、大倉博進株式会社、(現・新生紙パルプ商事株式会社)となって、日本製紙、王子製紙、北越コーポレーション等の販売代理店となっている。
そして大正十四年、活版印刷の博文館印刷所と平板の多色刷りを強みとした精美堂が合併して共同印刷となったのである。
多角的かつ革新的な経営を推し進め、数々の改革を成し遂げた佐平が没したのは明治三十四年である。奇しくもこの年に佐平の娘婿の乙羽も急逝し、抱える多くの雑誌の主力記者たちも一身上の都合で退社している。博文館にとって「洵に不幸な年」 であったらしい。またその翌年の明治三十五年には『太陽』で筆を揮った高山樗牛が、三十六年には尾崎紅葉が世を去ったことで、文壇の局面も変わり、博文館としても一つの時代が終わった感が強い。博文館のその後については簡単に述べおきたい。
博文館の二代目を継いだ新太郎は、明治三十一年に東京瓦斯株式会社の取締役に就任して実業界に頭角をあらわしてから、明治三十五年には大日本麦酒株式会社、第一生命保険相互会社、三十六年に王子製紙株式会社の取締役に次々に就任する。そして博文館の経営を大正三年以降、長男の進一に託すと、自らは、東京電灯、日本鋼管、三井信託、朝鮮興業など八十近くの大企業の重役となり、「重役業者」の異名をとる。
また、明治三十五年に衆議院選挙に出馬すると、鳩山和夫をおさえて東京市でトップ当選したほか、大正三年に東京市会議員、大正十五年には貴族院議員にも勅選され、数々の議員や委員も歴任する。そして昭和十九年に没するまで政財界にて名を馳せ、多忙を極めた。
ただ終戦後の博文館は、新太郎の長男である進一が三代目を継いだ後、財閥解体、関係者の公職追放という憂き目にあう。進一は博文館を自ら解体させたが、佐平の悲願として創設された大橋図書館を私物化したとの疑惑を受けたことで公から姿を消すこととなった。現在では、大橋図書館の蔵書の一部は芝の財団法人三康図書館に引き継がれ、博文館出版の業務の一部は博文館新社が受け継ぎ、博文館日記や文芸書、辞典など手堅い出版物を手がけ、貴重な復刻版も上梓している。
はじめに
序 章 赤手のアントレプレナー
出世街道は僧門/蛙、井から出る/〈米百俵〉の地に学校設立/紙の仕事へ/赤手のアントレプレナー
第一章 出版革命の夜明け──『日本大家論集』
五十歳でリスタート/博文館の旗揚げ/最初の雑誌へ/『日本大家論集』の創刊/"法の外"のヒット/〈言語の写真〉という新兵器/著作権概念の確立を後押し
第二章 戦争特需の写真雑誌──『日清戦争実記』
鹿鳴館の反動/貴顕の保証と大衆の受容/〈三号雑誌〉という逆転の発想/『日清戦争実記』というドル箱/戦時下における報道"戦争"/写真を活かす戦法
第三章 児童文学を創出したカリスマ──『少年世界』
発掘される日本昔ばなし/同志としての〈少年〉読者/メルヘン集の挿絵に魅了/『黄金丸』からの黄金期/『少年世界』を際立たせたもの/小説有害論/メソッドの継承と前金"人質"作戦/文壇の少年屋.児童文学を開墾する/エリート読者のネットワーク/.卒業生.の入門/『少年世界』の〈適齢期〉/『少年世界』という〈学校〉/雑誌の長命・編集の短命/少年と少女との棲み分け/雑誌会の第二維新.少年世界.
第四章 文芸界の新潮流──『文藝倶楽部』
開明の精華『文藝倶楽部』/『文藝倶楽部』というクラブ/文壇の融通府/迷走する創刊日/主張の欠如という功罪/前途多望の好小説雑誌へ/泉鏡花の飛躍/深刻小説の席巻/悲惨小説の悲惨/〈職業作家〉樋口一葉の誕生/まことの詩人という絶賛/海嘯義捐小説の試み/元祖〈季の文学〉・『半七捕物帳』
第五章 巨大なオピニオン・リーダー──『太陽』
雑誌ビジネスへの着眼/世界に通用する視野/雑誌の意識変革/文壇の『太陽』が昇る
まで/諸刃となった多様性/スター編集者の誕生/『太陽』名物となった誌上論争/世代交代と次のステージ
へ
第六章 最高級の趣味雑誌──『新青年』
戦争からの飛躍.再び/戦争から冒険へ/読者と合わせ鏡の編集者/三足わらじの〈冒険〉編集者/冒険から〈探偵〉へ.大正モダニズムの時代/変革期の新青年たちへ/探偵小説気分/〈救世主〉を見出した名伯楽/デパート雑誌
第七章 辞書というベストセラー──『辞苑』
〈節用集〉に倣って/普遍的にして且軽便な中形の辞典/『辞苑』から『広辞苑』へ/読むことから書くことへ/八割五分のシェア//自分史から大日本史へ/歴史の見届け人
終 章 伝説の出版社がもたらしたもの
私設図書館の創設/文運の一助/読書子の浄土/文明時代のノブレス・オブリージュ/流通システムの構築/東京堂の創設/印刷所と洋紙店――博進社、精美堂から共同印刷へ/我国印刷界の偉彩/博文館の遺したもの/知自心百話
あとがき
主要参考文献事項索引
人名索引