すべての人が、自分らしく生きられるために――戯曲『エアスイミング』の魅力
記事:幻戯書房
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『エアスイミング』を知ったのは2022年9月のこと。私の主宰する演劇企画イロトリドリノハナの次回上演作を検討していた時のことである。プロットに惹(ひ)かれ何気なく読み始めた私は、あっという間にこの作品に引き込まれた。彼女たちの生き様に強く心をつかまれたのである。
そしてその場で私は上演を決め、2024年に下北沢の小劇場B1で上演。さらには2026年にシアター風姿花伝で再演する。
思えば、自分でも驚くほどののめりこみようだ。ところが、この戯曲に魅せられたのは、私だけではないと思われる。舞台「エアスイミング」は、ここ2~3年の間に、私が知っているだけでも、日本全国津々浦々、様々な劇場で合計20回近く上演されている。1990年代という比較的新しい時代のイギリス演劇で、ここまで頻繁に上演される物はかなり珍しいのではないか。なぜ今、演劇人はこの幻想的な二人芝居に惹かれるのか。そして、なぜ観る者たちに強烈な印象を残し、深い感銘を与えるだろうか。
これは、1920年代のイギリスの精神病院を舞台に、「女性としての社会規範に反した」として「触法的精神障がい者」のレッテルを貼られ、強制収容された二人の女性の孤独と絶望の日々を描いた壮絶な物語である。現代の常識に照らせば、この二人の登場人物が精神的疾患を抱えているとは考えられない。登場人物の一人、ペルセポネーは22歳の天真爛漫(らんまん)なお嬢様である。彼女は既婚者と恋に落ち、望まれない子を産んだ。もう一人、少し年上の知的なドーラは、葉巻を吸い、男のような服を着て、男のような言葉遣いや態度をした。たったそれだけの理由で、彼女たちは何十年も監禁され、家族にも会えず、発言する機会を奪われて、社会的に抹殺された状態に置かれるのである。
この作品は、当時実在したルーシー・ベイカーというイギリス女性が50年以上という長い年月を精神病院で過ごしたという実話に基づいて執筆されたといわれている。ルーシーだけでなく、その頃のイギリスでは、今なら考えられないような理不尽な理由(産褥期うつ病やストレスなど)で精神病院に収監された女性たちが数多く存在していた。先進的な民主国家であるイギリスで、さほど昔ではないほんの百年前に、このような重大な人権侵害が行われていた。ということに私は衝撃を受けた。そこには女性に対する顕著な差別意識も確かに存在する。
しかし、この舞台の中の二人は、そのような境遇に置かれても容易にへこたれないのである。苦しい状況の中でもユーモアを忘れずに、夢のような空想に浸ったり、別の人間になりきったり、架空の空を泳いでふざけあったりする。もちろん、時には涙にくれたり、喧嘩(けんか)したりすることもあるが、それでもお互いに支えあいながら、力強く生き抜くのである。
彼女たちは当時の社会では、もしかしたらちょっと風変わりな女性だったのかもしれない。けれどそれは罪悪なのであろうか。自分の心に正直に生きることは、時に周囲の間で軋轢(あつれき)を生むこともあるだろう。だが、違いがあっても力で排除することなく、言論を持って互いを理解しあおうとすることが大切なのではないか。お互いの個性や価値観を認め尊重しあう社会。それこそが真に成熟した豊かな社会といえるのではないだろうか。
昨今、多様性に対し不寛容な言葉がネット上で頻繁に飛びかい、正直な気持ちを発信するのが恐ろしくなることがある。そんな風潮に流され、私たちが知らず知らずに黙って排除する側にまわっていれば、いつかこの『エアスイミング』の頃のような世界に逆戻りしてしまうかもしれない。この戯曲は、今の暗たんたる世界に一つの警鐘を鳴らしているように、私には感じられるのである。
さて、私は二度にわたってこの作品に上演したが、その際に演出において大いに苦労した点が二つある。一点目は特に序盤、二人の会話が全くかみ合わないために、話の内容が頭に入ってこないことである。二点目は夢のシーンが奇想天外すぎて、ストーリーがこんがらがってしまうことである。この戯曲本を手に取った人たちも、ひょっとしたらこのことで、少し面食らってしまうかもしれない。「ああ、こんなに難解な本は、自分には理解できないなぁ」と途方に暮れてしまう可能性もある。でも、どうかそこで諦めないでいただきたい。実はこの二点こそが、この本の最大のチャームポイントなのだから。
一点目については、イギリス人特有の文化に起因すると思われる。彼らはストレートに自分の気持ちを表現せず、わざと反対のことを言ったりし、暗喩や言葉遊びも多用する。ドライで知的なユーモアとしての皮肉は、時に誤解を生む。うっかりすると、読んでいるこちらも反対の意味と勘違いしてしまう。だから本をよく読みこんで、登場人物の気持ちを前後の関係性から推察して、セリフの裏に隠された本来の意味を明確に表現する必要があった。そこが翻訳物の難しさでもあるが、その部分に着目し他国の文化への理解を深めつつ粋に表現することこそ、翻訳物を演じる醍醐味であると私は考える。この本の読者たちも、どうかぜひその面白さを味わっていただきたいと私は思うのである。
二点目は、現実シーンの間に挟まれる「夢のシーン」についてである。現実のシーンと時間軸がずれているため、その解釈論にこだわると迷宮に入ってしまう。「夢のシーン」をどう見せるか。その点は非常に悩んだのだが、シーン自体の持つ自由でユーモラスな方向性を生かすよう、視覚的、感覚的な表現を心掛けた。例えば、現実世界は、スクエアで重々しいモノトーンの舞台美術で統一し、照明も暗く抑えた。対照的に夢の世界は、円形で柔らかい質感の幻想的な物体をちりばめ、明るくカラフルなトーンで夢を表した。
明るい光に満ちた夢の世界は、この二人の心象風景の一つである。その裏には、監禁された施設内で彼女たちが次第に混乱していく現実が内在しているのである。悲劇と喜劇がないまぜになった夢の世界は、強烈なエネルギーをもって、観る側をも混とんとした不安の中に引きずり込んでいく。これこそが、作者の意図するところであると思われる。作者はこの芝居を「絶望の喜劇」と呼んだが、この夢のシーンこそ、作者の非凡な才能の証明であり、この作品を名作せしめる最大のポイントであると考える。
もちろんこれは、私の解釈であり、読む人それぞれの見方もあるであろう。読み手の想像力を掻(か)き立てて、多様な解釈を可能にするというのも、この戯曲の魅力であると思われる。私が、この作品を上演するのは、2026年2月の公演が最後と決めているが、いつかまた、むずむずと虫が騒いで『エアスイミング』と三たび格闘する日が来るかもしれない。その時、彼女たちのような一風変わった人間たちを、その時代の観客はどう受け止めるのであろうか。いや、そもそも、その時日本には、この物語を上演する自由があるのであろうか。表現の自由が守られる社会が今後も続くことを、私は切に願う。
そして、いつか私が『エアスイミング』を上演する日が来たならば、その時はどうか劇場で、彼女たちの人生を一緒に味わっていただきたい。そしてこの「絶望の喜劇」が現実とならないように、ともに祈ってくださるよう、心から望む次第である。