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今こそ、「ケア」の価値を見つめる文学を――シャーロット・ジョーンズ『エアスイミング』を読む

記事:幻戯書房

シャーロット・ジョーンズの『エア・スイミング』(小川公代訳、幻戯書房、2018年12月刊行)は、俳優二人による対話劇である。本訳書を脚本にした日本初公演となる「エアスイミング」が、2018年12月20日から23日にかけて、東京四ツ谷の絵本塾ホールにて上演された(演出:栗原崇/出演:関根愛、小川祥子)。
シャーロット・ジョーンズの『エア・スイミング』(小川公代訳、幻戯書房、2018年12月刊行)は、俳優二人による対話劇である。本訳書を脚本にした日本初公演となる「エアスイミング」が、2018年12月20日から23日にかけて、東京四ツ谷の絵本塾ホールにて上演された(演出:栗原崇/出演:関根愛、小川祥子)。

貶められている「ケア」という仕事

 人間が生存するのに必要不可欠なケアの価値が、なぜか社会によって貶められている。それは、日本にせよ、イギリスにせよ、あるいはその他の新自由主義的な資本主義を採用する政府が、ほとんどの領域において利益を上げることを主たる原理として位置づけているためである。東京オリンピック・パラリンピックはまさにその最たる例であろう。たとえば、路上生活者を競技会場の近隣から見えなくするために、彼らを荷物とともに退去させるという、社会的弱者のケアが蔑ろにされる状況があった。

 公的領域でケア労働に従事するのも、また家族のケアを担うのも女性の方が圧倒的に多い。新型コロナウイルスの感染拡大により昨(2020)年3月全国一斉休校が実施されたことが、いかに子どもを育てながら働く女性たちに悪影響を及ぼしたかという調査結果もある(山口慎太郎「失業ではなく"非労働力化"の問題点「女性の"働く意欲"急落の裏に重すぎる家庭責任」一斉休校が引き起こした予想以上の副作用」、PRESIDENT WOMAN Online、2021年5月18日掲載記事〔https://president.jp/articles/-/46159?page=2〕を参照)。ケア・コレクティヴ著『ケア宣言――相互依存の政治へ』(岡野八代、冨岡薫、武田宏子訳、大月書店)によれば、「ケアに関わる仕事は女の仕事であり、「非生産的」だとみなされ」てきただけでなく、公共圏においても価値が貶められ、搾取される傾向にある。

逸脱した女性を描いた『エアスイミング』

 このようなケアの危機がすでに深刻化していた数年前、私は『エアスイミング』という作品に出会った。英国劇作家シャーロット・ジョーンズによる戯曲である(拙訳にて幻戯書房より2018年に刊行)。『エアスイミング』は1920年代イギリスが舞台である。ストレスや産褥期うつ病、あるいは性規範から逸脱するという理由で女性たちが精神病院に収容されていたような時代であった。女性二人が、「触法精神障害者」として「聖ディンプナ精神病院」に収監され、家族にも忘れられてしまうという社会的弱者の苦境を描いた物語である。20世紀初頭というのは、女性が貞淑であらねばならない時代であった。性規範や道徳を逸脱した女性たちは世間に「異常者」というレッテルを貼られた。

 一人は、上流階級育ちで――収監時は21歳の――ペルセポネー・ベイカー。ペルセポネーはかつて妻帯者のレジーという男性と恋に落ち、妊娠して非摘出子(婚外子)を産んだが、その赤ん坊はどこかに養子に出されてしまう。そんなペルセポネーを父親は非情にも精神病院に入れたのだ。彼女より2年前からこの病院に入っているドーラ・キットソンは、社会の性規範に囚われず、「女らしい」ふるまいをしない。世間に「魔女」と呼ばれても、抑圧的な社会によって決して「自分らしさ」を損なわれない心の強い女性である。

ケアは「させられる」ものではなく「する」ものであること

 この二人が、互いへのケアによってなんとか生き延びる。『エアスイミング』は、2018年12月20日から12月23日の期間、東京四ツ谷の絵本塾ホールにて日本での初演を果たし、ペルセポネー役を関根愛が、ドーラ役を小川祥子が演じ、舞台でそれぞれのキャラクターの個性を見事に表現した。ドーラは、精神病院に入れられたばかりのペルセポネーが心細いとき、不器用ながらも、彼女を励まし、前向きに生きられるよう「清掃」のミッションを与え、過去の豪傑な女たちの物語を語って聞かせ、エンパワーする。もちろん、〈ケア〉はしばしば「させられる」受動的なものと考えられることが多い。しかし、ケアは他者のために「する」能動的な営為であると感じられることで、ケアを与える人間の尊厳を取り戻すこともできるのだ。『エアスイミング』のドーラによるペルセポネーのケアは、「なんのために?」という問いが失効するところで、なされている。

ドーラ(小川祥子。写真右)が憔悴するペルセポネー(関根愛。写真左)を初めてダンスに誘い、二人は踊り始める。「エアスイミング」日本初演より(Photo Credit : Seiji Kobayashi)
ドーラ(小川祥子。写真右)が憔悴するペルセポネー(関根愛。写真左)を初めてダンスに誘い、二人は踊り始める。「エアスイミング」日本初演より(Photo Credit : Seiji Kobayashi)

ケアの物語としての『エアスイミング』

 ペルセポネーが弱音を吐くたびに、ドーラは彼女を励まそうと、かつての女性の英雄たちの物語を聴かせる。ロシアの「婦人決死隊」を組織したマリア・レオンチエヴナ・ボチカリョーワ(1889-1920)といった女性軍人は、二千人もの優れた義勇団を結成した。他にも、ジャンヌ・ダルクやユディトのようた豪傑女たちがいかに苦境を乗り越えたか、ペルセポネーに語って聴かせるのである。

 この戯曲は、ペルセポネーとドーラが登場する幕、そして彼女らのオルターエゴとも言えるポルフとドルフが登場する幕が交互に編み込まれた構成になっており、様々に解釈できそうだ。収監され出口の見えない日が続いても、ポルフはユーモアたっぷり。アメリカの俳優ドリス・デイのように笑みを絶やさないポルフは、本当に現実世界のペルセポネーのオルターエゴなのかと首をかしげるくらいである。ポルフが太陽のような朗らかさでドルフに話しかけているかと思えば、ペルセポネーも次第に精神を回復していく。

空想の世界を二人で懸命に生き延びようとするドルフ(小川祥子。写真右)とポルフ(関根愛。写真左)。「エアスイミング」日本初演より(Photo Credit : Seiji Kobayashi)
空想の世界を二人で懸命に生き延びようとするドルフ(小川祥子。写真右)とポルフ(関根愛。写真左)。「エアスイミング」日本初演より(Photo Credit : Seiji Kobayashi)

 ペルセポネーを救ったドーラは、劇の後半部分で、生きる気力を失いつつあった。それを見たペルセポネーは、今度はドーラを助けようとする。ドーラ仕込みの想像力で、ペルセポネーは華やかな舞踏会を空想し、二人は踊り始めるのだ。この物語は実話に基づいているため、精神病院に50年ほどの歳月、収監されていた女性は実際にいた。あまりに長い年月閉じ込められていたので、舞台上の二人の外見は劇の終盤ではすっかり変わっており、白髪が目立ち始める。

クライマックスシーン。歳を取ったドーラとペルセポネー(あるいはドルフとポルフ)。「エアスイミング」日本初演より(Photo Credit : Seiji Kobayashi)
クライマックスシーン。歳を取ったドーラとペルセポネー(あるいはドルフとポルフ)。「エアスイミング」日本初演より(Photo Credit : Seiji Kobayashi)

 相手の苦しみを慮る〈ケア〉は能動性を孕む。必ずしも、誰かに押し付けられるものではない。ドーラによるペルセポネーのケア、ペルセポネーによるドーラのケアがそれぞれ意味づけされたように、これまで数多くの文学作品では、ケアに価値が与えられてきた(詳しくは、拙著『ケアの倫理とエンパワメント』を参照のこと)。感染のリスクに怯えながら日々オリンピック競技会場の清掃に当たっていた、ある女性の辛い境遇も一部メディアで報道されたが、ケアする人をケアすることが今日本には足りていないのではないか。『エアスイミング』はまさにそういう問いを突き付ける作品である。

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