百年前の私小説作家たちの友情と裏切り
記事:幻戯書房
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「奇蹟」については、同人が誰であり、どのような経緯で結成され、いかなる理念のもとに結ばれていたのかなど、すでに同人自身の回想や同時代人の証言が残されている。さらに、片岡良一や紅野敏郎ほか優れた論考も発表されており、当時の事情はかなり明らかになっている。したがってここではそれらの成果を改めて要約することはせず、参考文献を後に掲げるにとどめたい。
本書における解説の役割は、あくまで収録作品の「補足」にある。ここに収めた作品の多くは、作家同士の交遊や軋轢、あるいはそれぞれの私的な体験を背景として書かれている。作品によっては、事情を知るのと知らないのとで味わいが変わってくるものもある。そこで以下では、各作品の背後の部分をわずかながら示しておくことにした。読者の興味と読解に役立てられれば幸いである。
モデルの比定は、既存の研究論文や関連資料に基づく。ただし本稿では断定的な表現は避け、作品理解に必ずしも必要でない場合には、無理なモデルの比定は行っていない。
大正期の文学史の中で、光用穆(みつもちきよし)の名が大きく取り上げられることはほとんどなかったと言ってよいだろう。発表した作品の数も多くなく、その文学的達成についても高く評価されてきたとも言い難い。多くの場合、その名は「奇蹟」同人の一人として記されるにとどまっている。しかし、舟木重雄と同様に、光用の交友関係は比較的広く、同時代にあった身近な人たちに少なからぬ影響を与えていたことも知られている。次に引く証言はそのことをよく示している。
「奇蹟」の前身とも言える「稲風会」の時代から活動を共にしていた相馬泰三は、「最近の感想―人としての葛西を―」(「時事新報」昭和3年[1928]10月28日~11月2日)において、
「我々の仲間のなかで一番の新人は光用穆であった。彼は御風〔ぎょふう〕氏の家に寄寓していたので、早くから多くの先輩とも接し、考えなり物の観かたなりが、ほかの者に較べてずーっと進んでいた。〔略〕彼は私に自由思想を鼓吹し、自然主義の講義をし、その上、事々につけて、現実暴露の悲哀を、手にとって体験させてくれた。そういう点で、葛西も亦〔また〕、私ほどではないにしても、光用によって啓発され、教えられたところは決して少なくなかったに相違ない」と述べ、相馬はさらに、「葛西は、一時もう少しで、純粋の『光用党』になろうとしていたことがあった」とも記している。
早くから小杉天外(てんがい)のところに出入りし、相馬御風の家で書生をしていた光用の存在は、「奇蹟」同人たちの精神形成に深く関わっていたものと思われる。
「旅立ちの日」は、同じ下宿に暮らす二人の青年が別離するまでの、短い時間を切り取った短篇である。構成や表現にはまだ整いきらないところがあり、とりわけ人物の語りは、思想を言葉にしようとする意識が前面に現れている。しかしその一方で、情景描写には独自の感覚が認められ、光用流の絵画的な趣を感じさせる。そうした意味でも本作は、完成度の高さというよりも、光用穆が何を見、何を言葉にしようとしていたのかという点で、彼の感性をよく示した一篇と言えるだろう。
「友だち」は、送別と祝賀を兼ねた小宴の一夜と、その翌朝の別れを軸に、二人の青年の関係を描いた短篇である。ここに描かれているのは物語として誇張された友情ではなく、むしろ日常の延長線上にある関係である。
片野の粗放な振る舞いに主人公は怒り手をあげるが、その感情は断絶には至らず、物語は翌朝の駅での見送りへと続く。発車の喧噪に紛れながら片野が感謝の言葉を口にする終幕には、和解というよりも、言い尽くされなかった感情の気配が映されている。
列車で去る者を見送るこの結末は、先に掲げた光用穆「旅立ちの日」とも重なるものがある。場面の配置や台詞の調子にまで共通性が見られる点は興味深い。
本作の調子を理解するうえで、舟木重雄による谷崎精二の人物評は示唆的である。舟木は「谷崎精二氏の印象」(「新潮」大正8年[1919]9月)において「社会を重んずる彼は、社会道徳を重んずる彼である。彼は、責任、約束、実直、堅実、礼譲、謙遜、摂生……の諸徳を重んずる」とし、さらにその性格については、「恐ろしい負けず嫌いで、一度言い出したことは容易に撤回しようとしない。あくまでも所信を貫こうとする。他人の機嫌褄〔きづま〕をとったり、心にもない阿諛〔あゆ〕をうったりするようなことがまったくない」と述べている。そのため、交誼(こうぎ)の浅い相手には冷淡に映ることもあるが、親しくなればきわめて義理がたく、人情深い性格であったという。
「友だち」に描かれる友情の距離感や感情の衝突、そして別れに際しての過度な饒舌を避けた表現には、こうした谷崎精二の性格がよく現れているのではないだろうか。この人情深い道徳家の姿は、廣津和郎の「針」においても別の角度から確かめることができるだろう。
まず前提として、宮地嘉六は「奇蹟」に寄稿した事実はなく、同人というよりも準同人的な位置にあったとされている。この点については宮地自身も、「文芸運動としての『奇蹟』同人の進出」(「文章倶楽部」昭和2年[1927]3月)において、「私自身は奇蹟同人と自から云うには少しく気のひけることだ」と述べている。
「甕」は、主人公が古道具屋で見つけた一つの甕をめぐって展開する短篇である。主人公はそれを手に入れて愛玩するが、やがて手離し、ついで友人Kの手に渡るものの、やはり長くは留まらない。「我等人間は永久に自分の物として所有し得る物とては何一つ与えられてはいないのだ」という認識が、作品の主題として据えられている。
本作は、特定の人物の実生活を直接写し取るというよりも、所有という行為の根幹にある、多くの生活者に通底する不安や空虚さを描いた作品のようにも思われる。こうした表現の仕方は、本書に収められた他の作家たちとも通ずるところだろう。
なお、大正14年(1925)刊の『現代文学読本』(明治書院)に「Kは葛西善藏氏、O氏は小川未明氏だということである」との記載が見られる。舞台が牛込であることなどから資料を照合すると、たしかに符合する点も認められる。
ただし、あくまでモデルはモデルとしての扱いというだけであり、この人物比定が本作の味わいを左右するものではないだろう。ここでは、当時の宮地嘉六の交友関係や生活圏を知る手がかりとして付記しておくことにした。
土屋――相馬泰三
私――架空の語り手
大槻――舟木重雄
太田――廣津和郎
佐藤――谷崎精二
須貝――葛西善藏
K書店の淵田――中村武羅夫
平沼――中村星湖
A先生――徳田秋声
※岡本、安達の各人物は資料不足により特定不能。
「B―軒事件」は、相馬泰三自身が大正7年(1918)に発表した長篇『荊棘の路』の出版記念会での騒動を素材として書いた作品である。
作中には、作者自身と思しき人物「土屋」が登場するが、語り手はそれとは別に「私」という人物が置かれている。この「私」は出来事の当事者ではなく、場の様子を見渡す位置にいる観察者である。語りはその視線を通して進められ、土屋を含む人物たちの言動や、その場のやり取りが主に描かれる。内面の独白に深く立ち入るよりも、出来事そのものの推移を追う書き方であり、それが本作の読みやすさにも繫がっているように思われる。
同じ素材でも書き手によって異なるかたちで処理され得ることは、次に置かれた廣津和郎の「針」を読めば自ずと理解されるだろう。本作ではまず、相馬泰三自身がこの出来事を、どのような距離と調子で作品にしているか、その点に目を向けておきたい。
私(小島)――廣津和郎
大下――相馬泰三
長岡――舟木重雄
横尾――葛西善藏
西崎――谷崎精二
秋野――秋庭俊彦
S社の主人――佐藤義亮
S社のN――中村武羅夫
生麦のN――中村星湖
老大家T――徳田秋声
奥田――光用穆
「針」を読むと、「B―軒事件」を書いた相馬泰三がどのような人物であったのかがよくわかる。同時に、この作品を書いた廣津和郎の性格もまたここに浮かび上がってくる。「針」は一つの創作であるが、それと同時に、相馬泰三という人間を語った一種の人物論として読むこともできる。本作では人物同士の関係や心理の機微が細かく描かれ、相馬の「B―軒事件」と同一の素材でありながら、作品の調子は大きく異なる。
この一連の出来事は、次の葛西善藏の「遁走」においても別の角度から取り上げられている。三人の作家によって、それぞれ異なる調子で作品化されている点も見逃せない。
葛西善藏の生涯や作品、またその人物像については、これまでにも多くの論考や回想が重ねられてきた。本稿もまた、それらに新たな評価を加えようとするものではない。
ただ、「奇蹟」という同人の営みを考えるとき、葛西善藏という存在を抜きに語ることはできない。本書に収めた作家たちの多くが、直接あるいは間接に葛西を強く意識し、その影響のもとで作品を書いていたからである。
「遁走」及び「湖畔手記」は、そうした関係の連なりの中で、一つの起点であり、同時に参照点ともなる作品だろう。
「遁走」の登場人物の推定は、
私(馬越)――葛西善藏
笹川――相馬泰三
原口――不明
土井――舟木重雄
佐々木――谷崎精二
倉富――廣津和郎
また「湖畔手記」の登場人物は次のように推定される。
S――谷崎精二
K――松本恭三
A君――古木鐵太郎
T――不明
本文は『葛西善藏全集』(津軽書房版)を底本とし、他資料を参照した。なお文脈から判断すると、TはKの誤記である可能性も考えられるが、本書では原文の表記を尊重しそのままとした。
松本恭三は、本書に収めた作家たちの中でも、最も触れられてこなかった存在である。
本書は「奇蹟」の同人たちの作品を軸に構成しているため、ここでその位置づけについて触れておく必要があるだろう。松本は「奇蹟」の同人ではなく、宮地嘉六のように準同人的な立場にあったとするにも、現段階でそれを裏付ける証言は見当たらなかった。ただし、宮地嘉六は「稲風会」同人の一員として松本の名を挙げており、「奇蹟」周辺に居た人物であったことは確かなようである。しかし文学史上の記述はきわめて少なく、作家としての存在自体、ほとんど顧みられてこなかった。
「欺く」のあらすじは、葛西善藏が「湖畔手記」に書いている通りである。作中に描かれる上京の時期については、諸資料を照合すると、大正8年(1919)7月中旬と推定される。同年3月、葛西が尾道を訪れ、一月余り松本宅に滞在した際の様子は、磯島定二の随筆「柿の木のある家」(『おかどちがい』南北社 昭和40年[1965]11月)に詳述されている。松本と葛西の交流は「奇蹟」時代に始まり、松本の作品が発表される際にも、葛西が出版社へ紹介したものと見られる。
「欺く」は、たしかに内容としては地味であり、「婦人公論」編集部からすれば「創作欄」ではなく「趣味欄」に分類されるような作品だったのかも知れない。本書に本作を収めたのは、松本恭三という作家を再評価するためでもない。しかし、この無名にして陋巷(ろうこう)に窮死した一作家が、いかなる覚悟で筆を執り、その生の帰結として現れた作品がこのようなものであったという事実を、無視することはできない。
なお、葛西善藏の「湖畔手記」では、主人公がKの訃報に接しながらも「カエレヌバンジハカラエ」と電報を打ったまま留まったかのように描かれているが、しかし実際には葛西は山を下り、二日後に松本の遺族を弔問している。
峯岸幸作のことを詳しく書いたものとしては、廣津和郎の小説「死んで行った友」(「解放」大正10年[1921]3月)がある。廣津はこの作品のほかにも、「深夜の聲」(「小説新潮」昭和29年[1954]3月)や『年月のあしおと』(講談社 昭和38年[1963]8月)において、峯岸との交友についてたびたび触れている。
ところで、現在インターネット上に流布している峯岸幸作の略歴には、「『デモクラシー』という言葉で筆禍事件を起こし、約一年間投獄された」とする記述が見られる。その情報源となったのは廣津の回想録『年月のあしおと』と思われるが、これは廣津の記憶の誤りである可能性が高い。
先に挙げた「死んで行った友」の記述と照合すると、峯岸の投獄期間は大正7年(1918)8月末から11月末あたりまでの約3カ月であったことが確認できる。作中でも峯岸自身の言葉として「三ケ月と云う判決を受けた時には」と語られており、この点については慎重な訂正が必要だろう。
「月光と青年」はきわめて短い作品であり、その構成も簡潔である。明確な筋を展開するというより、詩的な言語によって一人の青年の感情を描き出した作品であり、そのため具体的な情景や人物関係は摑みにくい。しかしそのなかには感受性の強い内向的な青年の心理が素直に表れている。
親しい友人に恋人ができたことで、自分との関係がどこか遠ざかってしまったように感じた主人公の戸惑いと孤独が、この作品の中心となっている。
終盤の⦅俺は彼らの為めにも盃をあげよう………⦆から続く台詞は、主人公が内省の末にたどり着いた一つの自己和解として読むことができる。表現としてはやや直截に過ぎる感も否めないが、こうした率直さのなかに、峯岸幸作という青年の気質が現れているようにも思われる。
「この顔触れが始終顔を合わせている中〔うち〕に、雑誌をやろうという事になり、とうとう同人雑誌『奇蹟』を始めたのであるが、その中心は舟木であった。後に谷崎精二も加わった。『奇蹟』同人は我儘者揃いで手前勝手な連中が多かったが、それを統一して行ったのは舟木の人徳であった。舟木が統一したと云っても、彼は同人の先頭に立ってみんなをリードして行くというような親分肌ではない。寧ろ細心よくよくとして神経質で、心配性であるが、同人の誰に向っても心から好意を持っているのである。人の美点を実によく認めるのである。そういう底抜けと云っても好い位の善意で彼は人と人との間を纏め、そして人々の中心に立っていたのである。」(廣津和郎「彼の善意」 『舟木重雄遺稿集』)
本書に収めた「山を仰ぐ」は、舟木が妻とともに奈良へ移り住んだ大正15年(1926)8月以降の生活を背景として書かれた作品である。友人S君から譲り受けた子犬を軸に、家庭内の雰囲気や友人らとの交わりが、落ち着いた筆致で描かれていく。しかし、この作品の主題を象徴的に示しているのは、Z君から贈られた一本の掛け軸である。そこには『碧巌録』から採られた文句が書かれており、Z君はそれを独自の読みとして主人公に示す。その言葉は、芸術に対する潔癖さゆえにいつまでも発表に至らない友を、友情をもって静かに促し、励ますものであった。
なお、本作の登場人物等の推定は以下の通り。
S君――志賀直哉
M君――武者小路実篤
K君――九里四郎
Z君――葛西善藏
フク――トク(徳):子犬
「山を仰ぐ」は、激しい告白や対立を描いた作品が続く本書の末尾にあって、平穏な生活と友情を描いた、もう一つの「奇蹟」のあり方を示す一篇と言えるだろう。
………僅かなる余地の外〔ほか〕欠くるもの無し。我は牢獄のうちに居て、我が夢はいよいよ狭くなりゆくなり。ただ、絹の袖口より、高く、かの花の梢に、諸手をば挙げ得る余地を欲す。………『少女のマリアに祈る歌』(RILKE)より
………我等の所持しているものは、『心』唯、これ丈である。そしてまた、これから先、我等の生涯を通じて真に我等が所持し得るものは、この外に何があるであろう。
………多くの場合、言葉は誇張である。然らざれば縮小である。我等は創作の外に漫然と、或は雑然と物云う事を好まない。――相馬泰三(「奇蹟」創刊号 大正元年[1912]9月1日)
吾々〔われわれ〕は最初「奇蹟」をもう少し大きなものにしたいと思った。
それは吾々の住むべき世界の狭からぬを欲したので。然しそれを実行するにはどうしても事業という社会的気分が吾々に付き纏って来る。が、それは吾々の芸術上の立場から言って害あって益ある事でない。それ故に吾々は全くかかる気分に支配されぬ小さな世界を創造したのである。仮令〔たとい〕小さな世界と雖〔いえど〕もそこに存在する総てのものの個性を、恣〔ほしいまま〕に発揮する事が出来れば、徒〔いたず〕らに形の大を求めるより遥かに意義ある事と信じたからである。従って「奇蹟」の編集法も群衆などを顧みる必要がない。最も我儘で自由でありたい。内容については、特別の場合を除き、吾々の創造した世界に吾々のみで生活し、同人以外の人々の援助を仰ごうとは思わない。この小さな世界に吾々のみでのびのびと生活してみたい。要するに「奇蹟」は吾々に取って、吾々の心の産物を盛る器となれば、それでいいのである。然しある事情によって二ケ月初号の発行を繰上げたのと同人が総ての事に無経験であるところから、本号まではそんな自信を語れない程みすぼらしい。引きつづいてこんなものなら吾々は多くの時間と費用とを費やして雑誌などを出す必要があるまいと思う。
然し吾々は経験が産み出す将来を思うと、現今の不満を忍ばなければならないのかも知れぬ。それも長い事ではあるまい。次号からの内容については同人が皆しっかりした自信を持っているから。
こんな事は言わない方がいいのかも知れない。前号の編集者の言葉を借りて言えば「言葉は誇張である。然らざれば縮少である」と――たしかにそれは真理である。然し沈黙、必ずしも偉大ではない。空虚もまた沈黙の一種ではないか。私は仮令傲慢と罵られ、愚劣と嘲られようとも、赤裸々なる真実の言葉を好む。――舟木重雄(「奇蹟」第2号 同10月5日)
考えれば考えるほどに、思うところは拡がって、あれこれと言いたくもなる。だが、ここでは敢えて語るまい。
編者としての役割は果たした。
言葉のすべては、作品の中にある。
読者は、それぞれの人生に基づき、この本を手にするのだろう。
さあ、次は私の為事(しごと)をしよう。
彼らのように。
私自身の、人生の為事を。
◆参考文献(順不同)
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宮地嘉六「続 一時代まえの回想《葛西善藏を語る》」 「文章倶楽部」昭和30年(1955)5月
「『奇蹟』の人びと――葛西・廣津・相馬・宇野――〈座談会・近代日本文学史〉19」 「文学(30―11)」昭和37年(1962)11月
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『宮地嘉六著作集』全六巻 慶友社 昭和59年(1984)1月~昭和60年(1985)2月
『谷崎精二選集』校倉書房 昭和35年(1960)12月
『舟木重雄遺稿集』志賀直哉 昭和29年(1954)6月
『廣津和郎全集』全十三巻 中央公論社 昭和48年(1973)10月~昭和49年(1974)11月