長野編 そびえ立つ山々に似た重厚感 文芸評論家・斎藤美奈子

信州は山の国。3千メートル級の山に囲まれた長野県は、島崎藤村『千曲川のスケッチ』(1912年)、堀辰雄『美しい村』(1934年)など、土地への憧れをかきたてる数々の名作を生んできた。
そびえ立つ山々にも似た重厚な作品も目白押しだ。完結から半世紀を経て、今月ちくま文庫から復刊される全5巻の臼井吉見『安曇野』(1974年)はその代表格だろう。
1897(明治30)年、北アルプスをのぞむ東穂高村(現安曇野市)に嫁いできた女性がいた。養蚕家の相馬愛蔵と結婚し、後に上京して夫と中村屋を創業した相馬良(黒光)である。翌年、研成義塾なる私塾が誕生。男たちは教育事業に熱中するが良の出番はない。そして出会った画家志望の少年。後にロダンを師と仰いで彫刻家に転じた荻原碌山である。さあ、2人の運命は!
信州から巣立って、広い世界で活躍した人。地元にとどまり、教育や文化事業に貢献した人、実名で登場する人物は2千人を超す。明治大正昭和を描ききった大河ロマンだ。
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進取の教育に情熱を燃やす人々は県南部の伊那地方にもいた。
1913(大正2)年8月、中箕輪尋常高等小学校(現箕輪町)の生徒ら37人は中央アルプスの木曽駒ケ岳をめざしていた。だが、天候が悪化、一行は嵐に巻き込まれる。新田次郎『聖職の碑(いしぶみ)』(1976年/講談社文庫)は11人が落命したこの遭難事故を描いている。登山に反対した教師らと、修学登山の価値を信じつつ遭難死した校長のどちらが正しかったのか。登山の意味を問いかける異色の山岳小説だ。
少年たちが登山にいそしんでいたのと同時代、乗鞍岳をのぞむ峠を越えて飛驒から信州をめざす少女たちの一団がいた。岡谷を中心とした諏訪湖畔に立ち並ぶ製糸工場の活況。山本茂実『あゝ野麦峠』(1968年/角川文庫)は350人を超す元出稼ぎ工女への取材を通して、製糸業の栄枯盛衰を描きだした希代の記録文学だ。〈野麦峠はダテには越さぬ/一つァー身のため親のため/男軍人女は工女/糸をひくのも国のため〉。この本なくしては近代の信州も、日本も語れない。
信州で青春をすごした人もいる。1945年、敗戦の直前、斎藤宗吉少年は憧れの旧制松本高校の門をくぐった。北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(1968年/新潮文庫)は松本でのハチャメチャな学生生活を描く。ハチャメチャなりに彼は悩んでいる。〈鬱々(うつうつ)たる心情も回復する〉かと登った徳本(とくごう)峠の頂で〈眼前に立ちはだかる懐(なつか)しい穂高の偉容(いよう)を見た〉彼が精神を回復するくだりは、この本の白眉だろう。
人生の後半を前に信州に戻る人もいる。〈春の訪れを知らせる風は川から山の斜面に沿ってゆるやかに吹き上がっていた〉。パニック障害と診断された内科医の妻と売れない小説家の夫。南木佳士『阿弥陀堂だより』(1995年/文春文庫)は40代になった夫妻が夫の郷里で新しい人生を始める物語だ。妻は村の診療所で週3日だけ働き、夫は山仕事と農作業と家事をする。村の阿弥陀堂を守る90代の女性と、彼女からの聞き書きを続ける20代女性。そこにあるのは静けさだ。一見そうは見えないが、とびきり美しい医療小説。
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避暑地の軽井沢には、今も昔も恋愛小説がよく似合う。
1972年2月、浅間山荘事件の終結日と同じ日、同じ軽井沢で起きた殺人事件。小池真理子『恋』(1995年/新潮文庫など)は事件の背後に隠された男女3人の危うい関係を追う。猟銃の引き金を引いた女子大学生の真意はどこに!
夏を軽井沢の別荘ですごす旧家の三姉妹とその家族。水村美苗『本格小説』(2002年/新潮文庫)は日本版の『嵐が丘』だ。引き取り先の一家に虐待されて育った孤児の太郎と、三姉妹の次女の娘で何不自由なく育ったよう子。2人を隔てるのは厳然たる階級差だった。絶望した太郎は渡米。15年後、バブル期に帰国した後、あの別荘地を買う。
没落していく一族の物語はさながら戦後史のごとし。軽井沢も安曇野もすでにブランドだが、観光を超えたところに長野の文学の真骨頂がある。読後の達成感は大きい。=朝日新聞2025年3月1日掲載