ジャンルを超えた「絶対音楽」の射程――美学者・井奥陽子が語る、言葉と音楽の関係
記事:春秋社
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堀:井奥さんのご研究にはいつも刺激されています。とくに影響を受けたのが、「こことは違う世界」を探求したライプニッツ学派をめぐる論文。『わが友、シューベルト』(2023年)序盤の「ちょっと冗談か?」みたいな世界観は、井奥さんの論文や、そこで紹介された研究史の厚みに支えられているんです。
井奥:ありがとうございます。私は美学を専門にしていますが、音楽に関しては素人です。なので今日は素人目線から色々お伺いしたいと思います。
西田:美学全般のなかで、音楽ってどんなポジションなんでしょうか?
井奥:西田さんは東京藝大のご出身ですよね。私も美術学部で助手をやっていました。藝大の美術学部と音楽学部の校舎が道路の左右ではっきり隔てられているように、音楽はそれだけで充足しているというイメージをなんとなく持っていました。造形芸術は初期近代にじぶんたちの地位を上げるために、精神性とか高尚さを主張して音楽や言語芸術へ近づく必要がありましたが、音楽はそういう必要もなかったのだろうと。でもこの『絶対音楽』を読んで、いや全然そんなことはなく、他の分野と仲良くなって、また離れていくことに音楽は躍起だったんだと知りました。
西田:具体的にどんなところですか?
井奥:16世紀に音楽が数ではなく言語と結びつけられるようになったという点です(第3章)。しかもその結びつきは、言語が合理的なものだから、音楽の哲学的な性格を強調することでもあった、というのが興味深かったです。そうして自由学芸の四科のひとつだった音楽が、むしろ三科の修辞学にもっとも近いものになったと。これが18世紀における芸術概念の誕生へつながっていくのだろうなと納得しました。
西田:なるほど。
井奥:そのあと器楽が歌詞から離れていくプロセスについては、とても手際よく整理されていて、すんなり読めてしまいました。音楽には当てはめにくかった模倣理論が表現理論にとって変わられたとか、倫理と美が分離したとか、さらに天才という新しい概念が出てきて、音楽家が弁論家より予言者に近いものにみなされるようになり、そこに崇高論も関わってくるとか。予言者だから聴き手による解釈が要請されるようになり、そのことが近代的聴取の誕生と期を一にしているとか。
堀:ベートーヴェンが神みたいに崇められるようになった過程は、井奥さんも『近代美学入門』(2023)で追っていましたね。
井奥:ですが、音楽を言語に結びつけるのが16世紀の特徴で、ここが大きな転換のひとつだった、というのはすんなり腑に落ちないところもありました。むしろ近代以前の音楽は歌詞ありきだと思っていたので。16世紀以前も実践としては言葉との結びつきはあったものの、音楽の本質や効果を説明するときには言語から独立したものとして論じられていた、と理解すればいいんでしょうか?
堀:たぶんこういうことでしょうか。井奥さんのコメントのパラフレーズになりますが、この本では、歌で情念を動かす「オルフェウス」と、数の論理を強調する「ピュタゴラス」が2つの柱になっています。後者は「天上とのつながり」を数学によって直接に保証してくれるので、長らく力を保っていた。他のどの芸術にもみられない性質でしょう。
西田:そのあたりに、井奥さんが先ほど言った「音楽は自分だけで充足している」イメージの理由があるのかもしれませんね。
堀:そう思います。ところが16世紀になると「オルフェウス」に重点が動いて、そこに言語が欠かせぬ要素として絡んでくる。音楽美学史では定石といえる見解です。このように時代ごとの大きな地図を描くのですが、それをボンズは複線化もして来るんですよね。そういう戦略も、「すんなり腑に落ちない所もある」というご感想の理由かもしれません。
井奥:たとえばどういうところですか?
堀:いま挙げてくださった第3章「表現」は、とにかく人間の情念が主役なので、数学は親のカタキみたいな扱いですが、第5章の「形式」では、数学的な形式を重んじる思考が世紀を超えて延命していることを強調しています。この振り子は最終章でさらにぐっと進みます。あと、さっきおっしゃった「崇高」は、「美」の対義語であるのが美学史の常識ですが、超越的なものを「顕示する」機能において両者は同じだ、という言い方もする(第7章)。
井奥:なるほど。歴史を忠実に記述しようとしたら、道は錯綜としてきますよね。その意味で面白かったのは「歓喜」(ユビルスjubilus)の話です。
堀:「歓喜の声をあげる者は言葉を話さない」というアウグスティヌスの思想。62ページですね。
井奥:はい、そういう言葉を超えた「絶対性」を求める思想が、じつは時代を超えて反復しているという見方。
堀:そうですね、訳者あとがきで触れた点でもあります。
井奥:まったくの思いつきですが、ベートーヴェンの《歓喜の歌》は、声楽を導入したことで歴史を進展させたというヴァーグナーの意見と、一種の退行だというハンスリック派の意見と、二つに割れていましたよね。だとすると、そこに古代の「歓喜」の思想が入っていたとしたら、解釈がすごく広がりませんか?
堀:ベートーヴェンは、アウグスティヌスと逆に「言葉を付け加えた」わけですけどね。ちょっと18世紀の哲学書を対象にした『羅独-独羅学術語彙辞典』(哲学書房、1989)を開いてみましょうか。えぇと、フロイデ=歓喜は、たとえばラテン語のガウディウムと同じ用法ですね。出典はバウムガルテン『形而上学』(1757年)のようです。
井奥:そうでしたか!
堀:もっと調べたら深掘りできそうです。そもそもシラーの詩が、酩酊状態での昇天を歌っていますから、本当の歓喜は言葉を超えたところにあるのかもしれません。
井奥:古代や中世から近代を再考する点では、やはりハンスリックが鍵だと思いました。『音楽美について』初版(1854年)の結語では、ピュタゴラス的な音楽観を表明していたのに、それを徐々に削っていって、まさにいわゆる形式主義者になっていったという。
堀:森羅万象を愛でる古代人から、ラディカルな近代人へ。その変貌に肉薄した第9章が、本書の核心です。
井奥:こういう見解って、他の研究者からはどう受け取られているんですか?
堀:いくつか読んだ英語の書評では、そこにダメ出しをしたものは見当たりませんでした。国内の研究者は、すでに本書を英語で読んでいる人も含めて、かなり新鮮な学説として受け止めているみたいです。
井奥:そうなんですね。
堀:恩師の小田部胤久先生も本書の感想を送ってくださったんですが、ハンスリックが哲学者シェリングをここまで読み込んでいたこと、それと関連して古代的な「自然哲学」にまで話が広がっていくことに新鮮な驚きを綴っていらっしゃいました。それを掬い取るボンズの手際もよいですね、と。
井奥:本書で何回か出てくるプラトンの言葉が印象に残っています。「音楽の様式が変えられるときは、必ず都市のもっとも重要な法律にも変化が及ぶ」と(6ページほか)。
堀:『国家』の一節ですね。
井奥:私は3年半ロシアに住んでいたのですが、音楽学校では小学生でもショスタコーヴィチをピアノで弾いたりするくらい、自国の音楽がしっかり教育されていました。あの国にいると、芸術と社会の関係を考えざるを得なくなります。
西田:美学者として、そこに切り込んでいくのは難しいのでしょうか?
井奥:どうしても言説分析が中心の学問ですからね。でもドイツに留学していたころ、ファシズムと音楽の関係を研究していた人がいました。
堀:『近代美学入門』でも、ナチスのプロパガンダ映画を作ったリーフェンシュタールを紹介しながら、政治と美を切り離すことに警鐘を鳴らされていましたね。
井奥:はい。『絶対音楽』でも、社会変革によって芸術を正当化するヴァーグナーの姿が強調されています。さっきのプラトンに戻ると、音楽が政治を変えるのか、政治情勢が音楽に影響を与えるのか、どっちなのでしょう?
堀:ヴァーグナーは1848年の騒動で意を決しましたね。リストも、20代でリヨンの労働者蜂起に与して「労働に生きるか、闘争に死ぬか」とピアノ曲の冒頭に書きつけたりしています。どちらも相当なフォロワーを獲得しました。でも「革新」をどう捉えるかにもよりますよね。プーランクは「優れた音楽家がみな革新者であるわけではない」と言っていますから。総合的に論じるのが難しいテーマです。
井奥:いっぽうのハンスリックに「実践面で」影響を受けた人っているのでしょうか?
堀:党派的にいちばん近かったのはブラームスですが、『音楽美について』を送られたけど、くだらないから読むのをやめた!とかクララに書いたりしています(236ページ)。絶対性と言われても、当時の作曲家にはあまり刺さらなかったのでしょう。
井奥:早く生まれすぎた、という感じでしょうか。
堀:ですから「ラディカルだったのはヴァーグナーではなくてじつはハンスリックだ」と、ボンズはここでも通念をひっくり返しています。
西田:アバウトな質問ですが、絶対的か標題的かでいうと、井奥さんは音楽をどのように聴いてらっしゃいますか?
井奥:それについて思い出したエピソードがあります。藝大の院生だったころ、私がチューターを務めていたデンマーク人の留学生と邦楽科のコンサートを聴きに行ったんです。私はなんとか歌詞を追いながら理解しようとしたのですが、留学生の彼は、「すごく感動した」と言うんですね。
西田:言葉が分からないのに?
井奥:はい。その時は、「こんな純粋に聴くこともできるのか」と感心すると同時に、音楽の聴き方について少し混乱もしました。
堀:そういえば本書でもシェーンベルクが、いまの井奥さんに近い驚きを語っています(374ページ)。歌詞をシャットアウトして聴くなんて私にも不可能と思われますが、そこからふっと抜け出したときに、思いもよらぬ絶対音楽の経験が開かれるのかもしれません。今日は長い時間、刺激的なお話を本当にありがとうございました。