日本の「第九」 いかにして毎年の恒例に? 矢羽々崇さん(獨協大学教授)
記事:白水社
記事:白水社
1925年頃から1955年頃の日本は、日本軍部とGHQの軍政の時代だった。しかし、その時代に、「自由」や「民主」、「人間愛」を謳うベートーヴェンの『交響曲第9番』(1824年)、いわゆる『第九』が日本で盛んに演奏されていく。何よりも眼を引くのは、アマチュアの合唱がすでに第二次世界大戦前から『第九』の演奏において重要な役割を果たしており、戦後には新しい日本を創ろうという原動力となっていたことである。
これまでに著者は、『第九』に関する著作『「歓喜に寄せて」の物語』(2007年、改訂版2019年)と『第九 祝祭と追悼のドイツ二〇世紀史』(2018年)を発表した。
本書では、日本における初期の『第九』受容に焦点を当てる。そこには、18世紀末から19世紀初頭の西欧に生きたフリードリヒ・シラー(1759─1805)やルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770─1827)の思いに共鳴しつつ、『第九』を演奏しようとする人びとが見出される。
調べ始めると、第二次世界大戦に日本が負けてから、私が想像していたよりもずっと早い段階で、『第九』は市民参加型の合唱団によって上演されていたことが分かった。それは、東京や大阪のような大都市に限らない。確かにこの両都市では、1948年には市民参加型のアマチュア合唱団による上演が確認できる。
ほぼ時間をおかずに、地方都市でも、例えば、広島や松本では1949年に(広島は第4楽章のみ)、名古屋や岡山では1950年に、札幌では1952年に、『第九』のアマチュア合唱団による演奏が行われていた。
日本で『第九』が演奏されるようになった時代、それはクラシック音楽の聴衆が特定の階層に限られていたのが、次第に多くの人びとに開かれるようになった時代でもあった。ヨーロッパで100年以上かかったプロセスが、近代化を急速に推し進めた日本ではずっとはやく動いた。そこでは、レコードやラジオが普及に大きく貢献したし、多くの音楽評論家や愛好家の筆がさらに後押しした。
それは、軍部独裁の色が濃くなっていく時代でもあった。その時期に、「すべての人間は兄弟になる」と歌うことは、体制への密やかな抵抗でもあったのではないか。さらに戦前にすでに私立学校の生徒たちによる『第九』合唱が始まっていた。これらの私立学校は、新しい自由な教育を標榜し、芸術に高い意義を認めていた。
そして、まがりなりにも民主化した戦後になると、裾野はさらに広がっていった。合唱という、お互いに声を出しつつ、お互いの声を聴いて音を合わせる経験は、人びとが一体となっての自己表現であり、実際に「兄弟になる」感覚を与えるすぐれて民主的なものであったのではないか。
その意味で、『第九』を歌う背後には、日本人の自由や平等への思いがあったと言える。それは大文字の日本史からは見えてこない、多くの人びとの心の文化史の一部なのだろう。
特に敗戦直後の日本において、自由や平等、平和、あるいは連帯のイメージとともに『第九』は語られ、演奏されていた。また、岡山での『第九』上演を主導した糸賀英憲は、戦争で死んでいたかもしれない自分が戦後の活動の原点にあることを語っていた。そう語る彼は、戦争での多くの死者とともに自身の生があることを意識していたはずである。
それは同時代の人びとに共通する思いだったはずだ。その彼らが『第九』を上演し、「歓喜に寄せて」を歌うとき、生きている(生き残った)「歓喜」とともに、「死者もまた生きよ」という思いを抱いていたと思われる。連帯の意識は、生者と死者も結ぶものであった。
紛争や混乱が続く地域は世界からなくならない。そうした地域の人びとは、自由や平等、さらには平和や安寧を、心から願っている。そうした場において、「歓喜に寄せて」と『第九』のメッセージはアクチュアルであり続ける。
まだまだ「すべての人間が兄弟になる」世界は遠い。それでも、自由で平和な世界への思いは、「歓喜に寄せて」(1786年)の詩が発表されてから、そして『第九』(1824年)が初演されてから、ずっと多くの人びとが抱き続けてきたし、そして今も生きている。
これからも、『第九』は人びとの思いを乗せて演奏されるのだろう。その場は、コンサート会場という近代の装置の外へと広がっている。
矢羽々 崇