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「ドラえもん論」杉田俊介さんインタビュー 歴代作品から読み解く、のび太の「弱さ」が愛される理由

文:若林良、写真:斉藤順子

とにかく怖かった「のび太の海底鬼岩城」

――杉田さんと「ドラえもん」の出会いはいつ頃でしたか。

 小学校3年生に上がる頃、映画4作目の「のび太の海底鬼岩城」を見たことが大きいですね。それ以前もテレビで見てはいましたけど、映画のインパクトがとにかく強かったんです。

――どのような感想を抱かれたのでしょうか。

 怖かった。その一言です。テレビで見る「ドラえもん」とは全然違うテイストでした。スネ夫とジャイアンが海底で、テキオー灯(どのような世界でも適応して生きていける道具)の効果が切れかけ、苦しんでいるところをおきざりにされる。ロボットの水中バギーは瀕死のふたりを見て、「死ヌンデスカ。人間ナンテイバッテテモ、コウナルトダラシナイモノダネ」と口にする。人間じゃなくてロボットなので理解はできるんですけど、ドラえもんに登場するキャラクターでこんなに冷淡になることがあるんだと、ぞっとしました。

 舞台となる海底そのものが持つ暗さや、人間が滅びた海底の都市で、機械だけが動き続けて世界を滅ぼそうとするという設定も怖かった。また、ラストも衝撃でしたね。ドラえもんたちが敵に追いつめられ、もはや絶体絶命というところで、バギーが自分に優しくしてくれたしずかを救おうとして、敵の親玉のもとに突っ込んで自爆するんです。ドラえもんのキャラクターは、基本的にテレビでは死なないじゃないですか。死なないはずのものが死ぬんだと、子ども心にショックを受けました。

「弱さ」という軸のはじまり

――『ドラえもん論』はどのようにスタートをされたのでしょうか。

 最初は「ドラえもん映画論」を考えていました。「のび太の恐竜」から「のび太の月面探査機」まで39作あります(2020年2月現在)けど、それを全部論じるという企画だったんです。ただ、書いていくうちに、例外はありますけど、藤子・F・不二雄先生の関わられたものの方が圧倒的に面白くて、そっちに自分にとっての「ドラえもん」の真髄があることがはっきりしてきたんです。

 そこで、まずは先生が原作を書かれた映画の話から書き始めました。書いているうちに、映画を論じるには原作の大長編、また短編を論じざるを得なくて、漫画を読み返しているうちに、大長編と短編の、有機的なつながり方が気になり始めた。よく大長編(映画)と短編ではのび太やジャイアンは性格が違うみたいに言われますけど、必ずしもそうじゃないと感じたんですよ。映画の中のジャイアンの優しいところや、のび太が勇気をもって立ち向かうところは短編にもところどころ描かれていて、それらは両輪なのではないか。藤子・F先生も大長編と短編、お互いを高め合いながらドラえもんワールドを展開されていったと思うので、藤子・F先生の「ドラえもん」の全体を、腰を据えて論じたいと考えるようになったんです。

(杉田俊介さん提供)

――著書の全体を貫くのは、「弱さ」というキーワードですね。

 大学で非常勤講師を受け持っていて、「弱さ」についての講義をしたことがあります。そこで、「弱いと言えばまず誰のことを思い出しますか」というアンケートをとると、かなりの確率でのび太なんです。いろんな年代を通して、のび太が弱い存在として浸透しているのは大きいと思ったんですね。また、その「弱さ」は決してネガティヴに受け止められてはいません。たとえば中国の留学生に聞くと、中国では立身出世主義というか、家族のため、国家のためにと過酷な勉強をさせられるので、のび太のように特別な能力を持ったわけではない、だらけがちな主人公を見ると、ちょっとほっとするらしいんですね。『鉄腕アトム』みたいに、王道の少年漫画は基本、強くなる少年の話ですよね。読者の立場からしても、そういう主人公に感情移入しがちなのに、のび太みたいに弱くてだめな主人公が広く愛されるのはなぜか。それを突きつめたいと思ったんです。

 「弱さ」とは長年の自分のテーマでもあります。最近の本でも、『長渕剛論 歌え、歌い殺される明日まで』(毎日新聞出版)では長渕さんの弱さがテーマで、『非モテの品格』(集英社新書)は「男にとって弱さとは何か」がサブタイトルでした。弱さを考えてきた人間として、のび太の「弱さ」は避けては通れなかったんです。

――そもそも、杉田さんの「弱さ」への関心はどこから来たのでしょうか。

 単純に、僕自身が弱いからですね。「自分はなんてだめなんだ」という感じが、この年齢になっても消えない。僕が子どもの頃に思っていた大人は、もっと強い、何事にも動じない存在だったんですけど、そうではない。また、言論の世界だと、希望が力強く語られたり、どういう生き方が正しいとかに行きがちなので、言論界の隅にいる人間として、「弱さ」を考えなくてはという思いはあったんです。弱さに関する本もありますけど、いわゆる自己啓発の文脈というか、「弱さを克服しよう」みたいになるか、「弱くてもいいんだ」というスピリチュアルなものになりがち。克服したり受け入れたりする前に、根底から「弱さ」を問い直す必要があると感じていました。

さまざまな角度から語られる「弱さ」

――「弱さ」はのび太に限らず、多くのキャラクターに共通します。

 たとえばドラえもんにも、ロボットとしての性能とは別に「弱さ」があります。のび太の弱さはもともとの能力の問題もありますけど、それ以上に他人に依存してしまうことが大きい。自分でやるべきことをドラえもん頼みにしてしまう。ドラえもんも、基本的にのび太を突き放せず、甘やかしてしまう。マターナリズム(母性主義)に近いですけど、良かれと思って保護することが、結果的に相手をだめにしてしまう。こういう構図は、教育の現場でもありえますよね。そういうところでリアルさとつながっている。

――神さまとか、強大な存在にも「弱さ」を見いだすのが面白いですね。

 そうですね。「のび太の創世日記」はのび太たち自身が神になって世界を作る話ですけど、そこにも試行錯誤があります。「ドラえもん」以外の藤子・F先生のSF短編「神さまごっこ」や「創世日記」は、普通の人間である主人公が世界を作って、自分のミスや、身勝手な理由で生命を奪ったりします。その結果、自分自身にもしっぺ返しがきて、存在が消えそうになったりもするんです。

 藤子・F先生に信仰があったのかは気になっています。ドラえもんを見ると、旧約聖書の話がかなり全面的に出てきます。アダムとイブのエピソードや、モーセのエピソードが紹介される。ただ、藤子・F先生にとっての神は、ヨブ記の神に近いと思います。すごく理不尽で、意味のわからないことで、神を敬虔に信じている善良な人間を殺したり、財産を全部奪ったり、めちゃめちゃなことをする。恵みを与えてくれるものとか、生態系を調和させるものというよりは、人間がどんなに頑張ろうとしても、押し流してかっさらうような存在です。弱い存在だから間違いを犯すし、弱い存在だからそれに振り回されてしまうんです。

(杉田俊介さん提供)

――「弱さ」から派生して生まれた、「のび太の命題」という言葉が印象的です。永遠に成熟できないけれど、それでも前を向き続けていくこと。

 自分はこのままじゃいけないと思って、何度も成長しようとするんだけど、また同じ間違いを繰り返してしまう。また、ドラえもんの世界はいわゆる「サザエさん時空」なので、キャラクターが年をとることはありません。つまり、多少の成長はしても、のび太たちが大人になることはない。そうしたどうどう巡りの限界を孕んだ構図は、個々人の生まれながらの性質にも当てはまるし、さらに言えば人類共通の問題でもあります。科学はどんどん進歩するんだけど、それを使う人間が成長できない。22世紀に作られたドラえもんの道具にも、「これは使い道ないんじゃないか」というようなものが多いですよね。また、見せれば何をしても許される「悪魔のパスポート」とか、使い方次第では破滅的な状況になるようなものもある。

 現実の科学がもたらしている弊害、たとえば震災から派生した原子力の暴走や、SNSで排他的な発言がはびこっているようないまの状況を見ると、ドラえもんの科学と、現実の科学は地続きだと思うようになりました。のび太の個人としての弱さと、どんなに技術が発達しても消えない、人間の根本にある弱さ。それでも未来を見すえて、なんとか成長しようと努力を続けること。そういうモードを「のび太の命題」と名付けてみました。

――「ドラえもん」は設定だけなら、万能な科学がだめな少年を救うという構造に見えるんですけど、読み込んでいくと、そういう感じでもないことがわかります。

 むしろ、科学や技術を使う人間に対してネガティヴな面もありますね。第1話からして印象的です。ドラえもんが未来から登場して、君のことはぼくにまかせておけと言いながら、最初からタケコプターをつけたズボンが脱げて、のび太がけっこうな高さから落ちてしまう。ギャグ漫画だからちょっとけがをしたくらいで済みましたけど、リアルな世界ならのび太が死んで終わる。

 また、「ドラえもん」は1巻目から、公害の問題とか、科学技術に対する不安とか、人類の文明の限界に対する言及がところどころに出ています。大長編でも「のび太とアニマル惑星」とか、90年代前後の作品では生態系の問題とか、いわば気候変動の問題が随所で語られますし、科学や文明に対する、根本的な反省意識が刻まれているんです。

特別ではないからこそ特別な、のび太のまっとうさ

――ここまではちょっと暗い質問が多かったのですが、杉田さんは「弱さ」にむしろ希望を見出されています。その鍵になるのが、のび太のまっとうさです。のび太には特別な才能や感受性があるのではなく、あくまでまっとうであると語られています。

 そうですね。藤子・F先生は「のび太は自分がモデルだ」と随所で語られていますけど、ごくありふれた、普通の少年ということを強調したかったようです。ものすごいだめな人間に見えるけど、とびぬけて「普通」からはみ出した人間ではない。

 のび太は勉強も運動もできないし、顔もいまいちということになっている。性格的にも出木杉くんに嫉妬したり、ゲームでいんちきをしたり、感心できないところが多い。だけど、そういう人間でもまっとうさ――他人への思いやりや共感――を失わない。

 またのび太は、何度も挫折を繰り返します。まともになろう、幸せになろうとして、ことごとく失敗してまずい方に言ってしまう。弱いから失敗をするわけですけど、諦めないで、まっとうな心を持ち続ける。それは同時に人類にとっていちばん大切な精神ではないか。それはひみつ道具という未来のテクノロジーの活用においてもそうで、のび太に限らず、いろんな人がなかなか使いこなせずに惨事を招いてしまう。でも、人類の未来が暗いものだと考えているかというと、そうでもないし、反科学論みたいに、人間は技術によってだめになるという考えでもない。100%の素晴らしい未来にはたどり着かないかもしれないけど、なんとかやっていけるし、少しずつ努力によってよくなっていく。

――飛躍的によくなるということはないと。それとつながる話だと思うんですけど、藤子・F作品では過去の選択肢において、選べなかった道を歩むことが何らかの形で実現しても、結局、置かれた状況はそんなには変わりません。

 そうですね。たとえば「分岐点」というSF短編だと、主人公が妻との関係が冷え切っていて、別な女性と結婚したパラレルワールドの世界に進みます。しかし、そこでも夫婦関係は変わらず、ぎすぎすしたまま。大長編ドラえもんにおいては、選択肢の問題はより大きな文脈で展開されます。人類ではない存在、たとえば地底人やロボットが進化して、発展して文明を築いても、結局、人類と同じような失敗を繰り返す。

 「のび太と鉄人兵団」はとくに印象的です。ロボットの少女・リルルがしずかの前で、自分たち鉄人がどのような歴史を歩んできたかを語り、いかに鉄人が素晴らしいかという話をするんですけど、しずかが「まるっきり人類の歴史を繰り返してるみたい」と言って、リルルが激怒する。痛いところを突かれたわけですね。人類がだめだったとして、鉄人が理想的な世界を作れるかというと、そういうわけではない。

 鉄人に限らず、海底人も、地底人も、天上人も、結局は人類と同じように、自分たちの気に食わない相手を滅ぼそうとしている。そう考えると根本的に救いのない世界のような気もするんだけど、かといって、必要以上に悲観しているわけでもない。楽観的ではないけど、楽天的。それがドラえもんワールドのよいところだと感じるんですね。

「やくそく」という言葉の重み

――ドラえもんの世界では、しばしば「やくそく」という言葉が登場します。

 今回読み直して、子ども同士の約束がすごく重要なものとして描かれていることが気になったんですよね。科学技術はどんなに発達しても、人間そのものは成長しないというジレンマの中で、未来への肯定的な気持ちを担保するためには、約束が重要になってくる。

 たとえば「あの日あの時あのダルマ」という短編では、のび太は「ダルマ」になること――転んでも転んでも起き上がること――をおばあちゃんと「やくそく」します。そのあとすぐにおばあちゃんは亡くなるんですけど、誰かとの関係を突きつめたときに、「やくそく」という言葉がよく出てくる。ドラえもんが未来に帰ろうとする時には、のび太は自分だけで頑張ることを「やくそく」し、ぼろぼろになりながらも、ジャイアンにけんかで勝ちます。

 現代社会においては、国会の場が象徴的ですが、約束が守られず、自分が言ったことすら裏切るような自己欺瞞が目立ちます。言葉の意味が翌日には変わってしまうような世界の中では、そもそも他人との約束は成り立たないし、誰とも友だちになれないのではないでしょうか。

 わかりあってるから、ある程度の時間を共有したから友だちになれるわけじゃなくて、約束を守ることによって友だちは友だちでありうるし、人間はまっとうでありうる、というのが「ドラえもん」の世界だと思います。

ドラえもんとのび太の友情

――「友だち」という言葉とも関連しますが、『ドラえもん論』の中には、のび太がドラえもんを選ぶか、ひみつ道具を選ぶかという問いもあります。

 筋肉少女帯の大槻ケンヂさんが、「ポッケのないドラえもん」という表現を一時期使っていたんですよ。この世で一番無駄な存在みたいな感じで(笑)。ドラえもんの世界において、のび太にとってひみつ道具が大事なのか、ドラえもんという存在が大事なのか、そういう葛藤はずっとあります。

 90年代のドラえもん映画、たとえば「のび太のドラビアンナイト」や「のび太と雲の王国」だと、ドラえもんの道具が使えなくなったり、ドラえもんが故障したりして、その中でドラえもんとのび太の関係が問い直されます。ひみつ道具が使えないドラえもんを選べるのか。でも、のび太の答えは決まっていますよね。何かに役立つとか、何かができることが必ずしも重要なんじゃなくて、ドラえもんの存在そのものが大事だし、そこに友情があるんです。

 妹のドラミちゃんの方が圧倒的にケアロボットとしては優れていて、一度ドラえもんはそれを突きつけられるんですよね。そこで、のび太のために身を引くべきだと、未来に帰ろうとする。でも、のび太は泣きながらそれを止める。それはスペックによる判断ではないんです。普通だったら、ドラミちゃんはいろんないいことができるけど、情感が薄くてあたたかみがないから、能力的には劣ってはいてもあったかいドラえもんの方がいいとか、そういう救い方をするのに、藤子・F先生はそれをしていない。ドラミちゃんの方が性格もいいし、ふたりの間には身もふたもない格差がある。でもやっぱり、のび太にとってはドラえもんの方がいい。考えてみると、これは驚くべきことですよ。

 藤子・F先生の没後の作品ですけど、映画『のび太のひみつ道具博物館』はひみつ道具が全部消える世界を描いています。そこでのび太とドラえもんの友情関係が改めて問われる。ドラえもんがのび太に少なからずうんざりしながらも、なぜ彼のもとを離れないのかという言及もあります。藤子・F先生の意志を確かな形で継承した、藤子・F先生以後の映画では一番好きな作品ですね。

――息子さんはのび太とほぼ同世代(小学4年生)とのことですが、ドラえもんを見られますか。

 見ます。テレビと漫画は保育園時代から触れていますね。不思議だなと思ったのは、ドラえもんって、漫画としてはかなり複雑なんですよね。過去と未来をいったりきたりするし、未来の人間が過去に干渉して状況が変わったりとか、4、5歳の子に細かな点を説明するのはすごく難しい。うちの子に限らず、なんであんな複雑な作品をみんな理解できるのかなあと。藤子・F先生の神がかり的なテクニックなんでしょうね。

 ただ、最近はポケモンのゲームにはまっちゃって。家の近くのTSUTAYAでドラえもんの映画を借りて、見ようぜと言うんですけど、90分は長すぎるようで。YouTubeとか、5分10分で終わるものじゃないと。ちょっと残念ではありますね(笑)。ただ、僕の方が今まで知らなかったポケモンの世界を逆に子どもから教えてもらっていますね。

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