國分功一郎さんインタビュー『原子力時代における哲学』に書かれた本質的な危機
記事:じんぶん堂企画室
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――福島の原発事故では「安全神話」が幻想で、日本という国の底が抜けていたことが明らかになりました。事故から8年経った今年、東京電力の旧経営陣が刑事責任を問われた裁判では無罪が言い渡され、関西電力の経営幹部たちが原発を誘致する自治体の元幹部から多額の金品を受けとっていたこともわかりました。不謹慎な言い方かもしれませんが、出版のタイミングが良かったように思います。
もちろん、タイミングを計って出版したわけではありません。この時期に出版したのは偶然です。本は6年前の講演の記録を加筆修正したものですが、アイデアは原発事故の直後に完成していました。でも、当時は原発について発言するのはセンシティブなことでしたから、僕の中にも躊躇(ちゅうちょ)があったんです。結果的にみれば、出版は原発事故の直後ではなくて良かったかもしれない。事故直後に出していたら、この本に書いた論考も情報が氾濫(はんらん)、錯綜(さくそう)する中で、消費されて終わったでしょう。
――著書の中ではハイデッガーの著書『放下(ほうげ)』について論考しています。世界が「核の平和利用」を信奉した1950年代に、ハイデッガーが福島の原発事故を予言するような言葉を残していたことに驚きました。
「決定的な問いはいまや次のような問いである。すなわち、我々は、この考えることができないほど大きな原子力を、いったいいかなる仕方で制御し、操縦できるのか、そしてまたいかなる仕方で、この途方もないエネルギーが――戦争行為によらずとも――突如としてどこかある箇所で檻を破って脱出し、いわば「出奔」し、一切を壊滅に陥れるという危険から人類を守ることができるのか?」(ハイデッガー、『放下』、ハイデッガー選集第15巻、辻村公一訳、理想社)
1945年に広島、長崎に原爆が落とされ、米ソによる核をめぐる競争が始まります。50年代に入り、ソ連が原子力発電所の建設を開始すると、米国は強い危機感を持ち、アイゼンハウアー大統領が国連で「原子力の平和利用」を唱える演説を行います。この米国の戦略が功を奏し、知識人を含め、それまで核兵器に反対していた人々たちも「平和利用」という言葉にのせられ、誰も人類が原子力を持つことを疑問に思ったり批判したりしなくなりました。そんななか、ハイデッガーだけが「核兵器が問題なのではない」「どんな理由であれ、核技術を持とうとしていること自体が問題なのだ。なぜなら……」、そう言って、そもそもなぜ人類は原子力を持とうとするのか、人間の本質に迫りました。
――ハイデッガーの哲学書『存在と時間』は多くの人に評価されています。一方、ハイデッガーにはナチズムを擁護(ようご)した哲学者、危険思想の持ち主という負のイメージもありました。
なぜハイデッガーが強固な異論を述べたのか、正確なところはわかりません。強烈な個性の持ち主だったからこそ、周囲に流されず、確信を持って「異」を唱えることができたのかもしれません。人は意見を持っていなければ、どんどん周囲に流されていくだけです。1950年代、「平和利用」という言葉を聞かされると、知識人たちまでもがみんな、原子力について思考停止に陥ったことは、いまも考えるべきテーゼだろうと思います。そして、そんなさなか、「我々は、この考えることができないほど大きな原子力を、いったいいかなる仕方で制御し、操縦できるのか」と問題提起したハイデッガーという人物の異常なまでの先見性も注目すべきです。
――話を本に戻します。この本を読んで、あらためて思ったのは「時間がたつと見えてくることがある」ということです。福島の原発事故で日本という国の底が抜けていたことが明らかになりました。その後もいろいろな分野で、この国の底が抜けている現実を見せられ続けています。大学受験の英語の民間試験導入をめぐる混乱ぶりもひどいものでした。
例えば、森友学園問題は大変な問題でした。権力者の知人が国有地を有利な条件で購入し、官僚が公的文書を改ざんしていることも明らかになりました。かなり深刻な事態です。でも、みんな、怒りませんでした。なぜでしょう?それは、やっぱり、みんなの中に確信がないから、これだけは譲れないというものをもっていないからです。ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』の中で、全体主義を用意した大衆社会における大衆は、「何も信じていないから何でも信じる」と言っています。これはワイマール期のドイツを分析した言葉ですが、しかし、驚くほど現代の日本に当てはまるのではないでしょうか。では、どうすれば我々は何かを信じることができるようになるのか。いま、すごくそのことを考えています。
原発事故は私たちが何かを信じるものを獲得することの必要をも教えていたように思います。しかし最近ではあまり話題にならなくなってしまいました。これだけの時間がたってからこの本を出したことに積極的な理由があるとすれば、それは、もう一度改めて原発について問題提起したかったということです。哲学者のニーチェに『反時代的考察』というタイトルの、同時代のドイツ文化を批判した本があります。「反時代的」というと反抗的で聞こえがいいわけですが、もともとのドイツ語のUnzeitgemäßeという言葉は、「時流に乗れていない」とか「時機を逸した」という意味なんですね。タイミングを逃すということも実は考える上では大切なのだと思います。
――いまの社会は「同調」を強いる空気が広がっています。自分の意見を言うことがますます難しくなっているように思います。
人と違ったこと、自分の意見を言うことに抵抗感を感じるのは、みんな、同じです。公の場で言うとなればなおさらでしょう。僕も新聞に文章を書いたり、本を出したりするときは緊張します。何を言われるかわかりませんから。でも、問題はいま人が意見を持ち得ているかということだと思います。
――ネットでは匿名でいろいろな意見が書きこまれています。
ネットにあるのは意見というより反応のように思います。何か自分の信じているものに根拠を置いていない。そして、今の時代、何かを信じることは極めて困難になっている。
――なぜでしょうか?
先に名前を挙げたハンナ・アーレントは「大衆社会とは部分社会がない社会である」と述べました。中間団体がないと言ってもよいでしょう。アーレントは具体的には階級の崩壊した社会のことを考えています。階級はその階級に属する人びとに一定の強固な価値観を植え付けます。ブルジョアはブルジョアの価値観を、労働者は労働者の価値観を身につける。それぞれの信じるところに従って意見が出てきて対立がうまれ、それが政治的に扱われることになる。アーレントはそれが正常な政治のあり方と考えていました。ところが、大衆社会ではそのような価値観が生み出されない。大衆はいかなる利害でも結びついていないし、いかなる信念もない。だからそもそも説得する必要もない。説得するためには相手が意見を持っていないといけないからです。このような社会ではプロパガンダや情報操作が圧倒的な威力を持つことになります。