仏文学者・渡辺一夫、「人間」を見据えるまなざし 紀伊國屋書店員さんおすすめの本
記事:じんぶん堂企画室
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2011年3月の半ばのことです。
「こんな時は何を読めばいいんだろう?」 いつも以上に混雑するだろう埼京線を覚悟した出がけに本棚を見ると、どういうわけか『渡辺一夫』(ちくま日本文学全集)が目に飛び込んできました(この文庫サイズ上製版の全集、今は品切ですが、いいシリーズでした)。
それからしばらくは肌身離さず持ち歩き、食い入るように読み返していました。一文一文が、切々と胸に迫ってきたのをはっきりと覚えています。地震のことも電力のことも政治のことも一切書かれてなどいません。しかし、そこには「人間」を見据えるまなざしがありました。
期せずして、この碩学(せきがく)の言葉に、今まで以上耳を傾けなければならない時がきたように思います。
仏文学者・渡辺一夫は、常に一定の読者をひきつけるようです。亡くなってもう半世紀近くになりますが、その作品は、何年かごとに復刊や再編集版が出たりします。2019年秋には『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』(三田産業)と『ヒューマニズム考』(講談社文芸文庫)が出ました。今回は後者を取り上げたいと思います。
渡辺は、宗教改革の時代を手掛かりに「ヒューマニズム(ユマニスム)」とは何かを探っていきます。人間の救済とはかけ離れ、形骸化した「宗教」と、それに対抗した人々。しかし、どちらの側にも救済には程遠いふるまいがあり、残念なことに多くの命が失われてしまいました。そうした苦難の時代に「それは人間であることと何の関係があるのか。」と問いつづけた(非力な)ユマニストたちの姿を、渡辺は描き出します。
私の稚拙な国語力を棚に上げて申しますが、渡辺の文章を要約するのは至難です。平易な文章の根底にある「主調低音」が、一言一句をゆるがせにしません。とにかくぜひお読みくださいと申し上げるほかありません。
ですが、一カ所だけ、引用します。
ユマニスムとは、堂々たる体系をもった哲学理論でもなく、尖鋭(せんえい)な思想でもないようである。ユマニスムとは、わたしたちがなにをするときでも、なにを考えるときでも、かならず、わたしたちの行為や思想に加味されていてほしい態度のように思う。ヒューマニズム考(p.46)
「主義」や「主張」ではなく、「態度」。ここには汲(く)めど尽きせぬ意味があるように思います。
こうした考えを持つに至ったのは、渡辺自身の思索や体験によるのでしょうが、その師や同時代人の影響も少なくないはずです。それぞれ手掛かりとなる本を取り上げましょう。
『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』(中公文庫)は、渡辺の師・辰野隆(ゆたか)の随筆。漱石、鷗外、露伴、寺田寅彦といった先達へのあふれんばかりの思慕、友人・谷崎との交流などが綴られた、極めて貴重な近代日本精神史の記録といえます。
近代における「人間」の姿を見据えたのは、なにより文学者であったというのがよくわかります。その葛藤や切なさ、喜びに正面から向き合ってきた蓄積が、「それは人間であることと何の関係があるのか。」との渡辺の問いに受け継がれているといえましょう。
ついで、渡辺(1901年生)の同時代人として、同じ辰野門下の小林秀雄(1902年生)に触れないわけには参りません。が、ここはあえて、小林の膨大な作品よりも、大岡昇平による小林評・論をまとめた『小林秀雄』(中公文庫、オリジナル編集)を。
フランス語の家庭教師(小林)と教え子(大岡)という関係がもはやレジェンド。「年長の友人」として長く小林と接してきた大岡の小林評には独特の重みが感ぜられます。
アランの『精神と情熱とに関する八十一章』の翻訳を小林が手掛けている最中、大岡にはエントロピーのことを熱心に語っていた、というエピソードが紹介されています。人間と世界を、自分の目でしっかりと見据えてやる、という文学者としての気迫がうかがえるようで考えさせられます。ちなみに、『精神と~』の訳者後記には、渡辺一夫の助言を仰いだ旨が記されています。
渡辺と小林は、違った道を歩んだように見えるかもしれません。が、「人間」を見据えるという点において、どちらも偉大な文学者であることに変わりはありません。今を生きる私たちが学び取れるものは多いはずです。
なお、このオリジナル編集の文庫に解説を寄せているのは、山城むつみさん。2018年に記されたものですが、2020年の現在にも通ずる何ものかを、射ている気がしてなりません。