日本人の宗教音痴は、危険な水準にある! 橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』より
記事:筑摩書房
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日本人が仏教を理解しているか? 人間が死んだらどうなるか、日本人にきいてみます。すると、幽霊(魂)になって、しばらくその辺にいる、と答える。それからどうなる? と聞くと、三途の川を渡って、極楽に行き、仏さまになる。これが平均的な回答です。「お陀仏」というくらいで、人間は死んだら仏になると思っているのです。
インド人にこういうことを言うと、笑われます。仏教は輪廻の思想を前提にしていますから、死んだらもう一度、生まれ変わる。浄土宗が「極楽往生」の思想を広め、それが日本古来の霊魂観とごっちゃになって、「死んだら仏になる」という通念が生まれました。これはもともとの仏教と何の関係もありません。
こうした誤解はキリスト教にもあって、「人間は死んだら天国に行く」という俗説がまかり通っています(『マッチ売りの少女』の影響でしょうか?)。
神の国は、生きた人間の行くところで、神だってやっぱり生きています。死んでしまった人間はわざわざ復活して、最後の審判を受け、神の許し(救い)を受けた者だけが神の国に入る。これが正統なキリスト教の死生観です。
そもそもこういう誤解が生じるのは、日本古来の伝統にあります。イザナギは、妻のイザナミが死んで黄泉の国に行ったので、追いかけて行きました。神も死ぬのです。日本には八百万の神々がいますが、たぶんいまはもう死んでいる。神ばかりか、人間も死ぬと、神社に祀られたりします(菅原道真、徳川家康、明治天皇、靖国の英霊……)。日本の神は、死者であり、死者たちの神です。キリスト教のGodを「神」と訳したのが、そもそもの誤解のもとでした。
日本人は、神々の子孫です。従って神々は、日本人の祖先です。祖先であるからには、死んでいます。日本の神々は、日本の島々や、自然や、農作物や、日本人を「産み」ました。いっぽうそれに対して、一神教の神は、この宇宙と人間を「創り」ました。神の命令で、人間は死ぬのです。神自身は、生きており、永遠に生き続けます。ヤーウェもアッラーも、くりかえしこの点を強調します。
それでは、儒教はどうか?
江戸時代、幕府は儒教を奨励し、武士は儒教を学びました。江戸三百年の思想といったら、儒教しかないくらいです。明治時代の教育勅語にも影響を与えましたし、今でも『論語』の大好きな社長さんが沢山います。ですから、かつて日本は儒教国家だったのではないかと思うひとがいても無理はありません。
日本は儒教国家だったか? 儒教の本場である中国が、そう思ったことは一度もありません。李氏朝鮮は、真面目に儒教国家を建設し、科挙を取り入れ、文人官僚(両班といいます)が政治をし、家族制度や風俗習慣を儒教の古典に合わせて改めました。朝鮮は儒教化の進んでいない日本を、野蛮な国だと考えていました。中国=父、朝鮮=兄、日本=弟、これが当時の東アジアの秩序です。(そんな日本が明治になって「脱亜入欧」と言い出したら、中国、朝鮮の人びとはどう思うでしょう。)
日本は朝鮮と違って、政治制度や風俗習慣を儒教の原則に合わせて変えることはしませんでした。儒学者のなかには、科挙を実施しよう、儒教の儀礼を行なおうと主張する者もいましたが、科挙の実施は、江戸幕府の権力(幕藩体制)を否定することにほかなりませんから、あまりに非現実的です。日本人は、『論語』のような精神訓話が好きなだけで、儒教の儀式・制度にしたがって、冠婚葬祭も、政治も、なにもやりませんでした。儒教でいちばん大事なのは制度(それも政治制度)なのです。それを拒否したのですから、日本は儒教国家ではありえません。
日本人は、儒教を“思想”だと受け取りました。しかし儒教は、社会を実際に運営するための“マニュアル”なのです。この点を理解しない日本人は、儒教を誤解しています。
実例はもうこれぐらいでいいでしょう。
日本人は要するに、宗教音痴なのです。宗教を必要とせず、世界の主要な宗教にも無理解なまま、何千年も過ごしてきました。このまま国際社会に出るのは、大変危険です。