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暗殺者教国ニザリとセルジューク・トルコ族の攻防 『暗殺者教国』より

記事:筑摩書房

original image: Jakub Krechowicz / stock.adobe.com
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 ニザリ暗殺団がその猛威をふるいはじめた1100年ころには、セルジューク勢力はまだ健在であった。しかしスルタン・マリックシャーが死に、セルジューク軍隊が分裂すると、その将領たちは、おたがいの間で単に自己の勢力拡張のために、全く意味も、目的もない戦いに耽り出したのである。

 ニザリ教団はこの虚に乗じて、一方では自らエジプトのファーティマ王朝と分離し、他方では西アジア、中央アジアに幾多の根拠地を獲得し、あるいは要衝を奪取した。このようなニザリ教団の攻勢に対し、マリックシャーの後継者をめぐる紛争、セルジューク領主たちの勢力争いは、さらにニザリ派の跳梁に好機会を与えるに過ぎなかった。

 ニザリ教団がまずその勢威を固めたのは、カスピ海南岸のルードバール地方、エルブルズ山脈地方、イラン高原東部のクーイスタンなどにおいてであった。内乱のさなかにあったとはいえ、マリックシャーの後継者バルキヤールックはニザリ教団の脅威に対して強硬な対抗措置を採り、ニザリ教徒の大量殺戮を行なった。ゲリラ戦や暗殺に対抗するためには官憲にのみ頼ることはできないので、地方の有力者や村や町はおのおの自らの手でニザリの駆逐を試みた。しかしこういう私的組織の指導者はつねに暗殺者に狙われ、多くの場合生命を失うのであった。イスマイリ派教徒が目的のためには手段を選ばず、あらゆる詐術、謀略、奇計を使ったと同様、スンニ宗徒の側でもあらゆる方法で対抗した。ただ両者の相違はスンニの場合は、ニザリのような強固な思想的根拠と組織を持っていなかったという点である。

 ペルシア東部のクーイスタンにあるアラジャンというオアシスの町にジャーワリという地方的指導者がいた。かれは後にシリアで活躍するのであるが、このジャーワリは、付近の有力領主に対して献上する貢物を携えて近くアラジャンを出発するという噂を流布させ、同時に数名の腹心の部下に改宗者を装わせて、ニザリの城寨に潜入させた。これらの部下はジャーワリ一行を途上で襲い、貢物を掠奪しようといって、ニザリを煽動した。三百人のニザリたちはまんまとこの罠にかかり、辛うじて脱出した三十人を除いて他はすべて虐殺された。

 ペルシア東南部の大オアシス都市として知られるケルマンのセルジューク領主イランシャーに仕えるあるニザリ派に属する書記があった。イランシャーは自分の身辺に奉仕するこの書記の熱心な奨めでニザリ派に改宗した。これを聞いたスンニのカディ(律法学者、司法官)は領主にイスマイリが危険な異端者であり、邪教にすぎないことを説き、再び正統スンニに復帰すべきことを要求した。ところがこのカディはその夜、たちまち暗殺されてしまった。イランシャーの麾下の軍隊はこれを知って、領主に反対し、ケルマンから放逐した。イランシャーはやむなくニザリに同調している付近のセルジューク領主を頼って亡命したが、そこからもまた放逐され、ついにかれの旧部下の手によって殺害されてしまった。

 このような悲惨な事件が各地で繰り返されているうちにも、ニザリの奇怪な勢力はさらに上昇しつつあった。

 イスマイリは散発的な、地方的な奇襲によるオアシスの掠奪、城寨の略取だけで満足せず、大オアシス都市イスファハーンやギルドクーなどの付近では組織的にオアシス農村から定期的に定額の税を取り立てるようになった。こうすることは一つには収入の増加にもなり、同時にセルジューク政権の財源に組織的な打撃を加えることを意味していた。

 スルタン・バルキヤールックはしばしばニザリに加担しているという噂があった。かれはその敵に対してニザリ暗殺者を利用して脅威を与えることもあったらしい。ところが皮肉なことには、まもなくかれ自身が暗殺者に狙われ、辛うじて難を避けることができた。そこでスルタンもニザリに対する態度をはっきりさせる必要に迫られ、かれの異腹の弟でペルシア東北部のホラサン地方に勢力をふるっていたサンジャールと協議した結果、両者で力を合わせてニザリの殲滅を企図することになった。

 サンジャールはただちにニザリの跳梁するクーイスタンに麾下の将軍バズガーシュを派遣してこの地方のニザリを掃討したが、山中深く閉じこもった者までを殲滅するには至らなかった。それで3年後にはさらにニザリに対しジハード(聖戦)を宣言したスンニ教徒を加えて再びクーイスタンに侵入し、ニザリを殺戮し、その城寨を徹底的に破壊し、オアシス住民から今後絶対にニザリと交渉を持たない旨の誓約を取って引き揚げた。ところがその翌年になると、どこから現われたのか、ニザリは再び頭をもたげはじめ、討伐への報復として聖地巡礼者、隊商に対する掠奪などを開始した。他方、バルキヤールック自身も1101年にはイスファハーンのニザリに対し大規模な攻撃を加え、大虐殺を行ない、ついでシリアのニザリの討伐を始めた。このような凄惨な攻撃と反撃の間にあって、スンニの間でも、ニザリの間でもこの争いを利用して私怨を晴らし、あるいは私利を図ろうとする者が介在し、闘争はいっそう凄惨の度を加えていった。

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