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『コレラの世界史』 人類と感染症との壮絶な戦いの記録

『コレラの世界史』(晶文社)

ふたつの世界の「伝染病対策」の違い

 黒死病はヨーロッパ史上未曽有の大惨事となったが、中東でも猛威をふるい、全人口のおよそ四分の一ないし三分の一が死亡したと推定される。以後、ふたつの世界は間歇的に襲来するペストの流行に同じように悩まされたのであった。

 一七世紀がユーラシア大陸ペスト史の大転換点となった。ヨーロッパ世界がペストから半永久的に開放されたのである。ところが中東世界では一九世紀中葉までペスト禍が続行したのであった。この明暗はどう説明されるのか。

 ペストとの戦い。その中からヨーロッパでは「公衆衛生」の制度が誕生した。ここでいう「公衆衛生」とは、都市の「公」的な機関が集団の次元で流行病対策につとめることを指す。それは何よりもまず、「私的」家族圏とも「国家」とも区分される「市民的公共性」の世界の生成過程の一環として理解すべきものである。

 つぎに、ヨーロッパのペスト対策の根幹をなす病理観は「接触」伝染説と呼ばれるものであった。ごく簡単にいえば、ヒトの身体を「病毒」の再生産の舞台とみる見方である。あとでふれるがキリスト教の原罪思想がおそらくその底流にあったと考えられる。それにもとづいてヨーロッパ世界ではつぎのような行動がとられることになった。「公」的な機関が病人ないし潜在的な「保菌者」を摘発し隔離する。死者を迅速に処理する。他者をすべからく「保菌者」とみて、できるだけ「接触」を絶つ。

 このように、都市の自治を基礎に、「接触」伝染説にもとづく「公衆衛生」の政策がとられたこと。それがヨーロッパが一足先にペスト禍を脱出できたことを説明するさいの定型となった。

 この説明方法は、一八世紀以降も中東社会およびオスマン=トルコの支配下にあるバルカン半島でペストの流行が続いていたことで、なおいっそうの説得力をもつことになった。ヨーロッパは隣人の不幸を見やることで、「進歩」を文字通り肌身で実感できたのである。

 「公共」の「利益」のために強行される患者の隔離政策。それにたいしてイスラム教徒はペストの流行時にあっても私的な人間関係を大事にする、とヨーロッパ人はみた。

 “トルコ人は宿命論の考えにとらわれていて、人間は神の絶対的な命令を変えることはできないと考える。したがって、この疫病にたいしヨーロッパ人が予防策を講じることは無益であるどころか、犯罪的だとみる。彼らは近しい病人を看護することを厭わない。”

 中東黒死病の研究のなかでミッチェル・W・ドルスは言う。「黒死病に直面したヨーロッパ人は宗教儀礼を放棄し、死者の弔いを止めてしまった。逆に中東では、伝統的なイスラムの宗教儀礼が厳格に執り行われたようにみえる」。一八~一九世紀中東ペスト史研究のなかでダニエル・パンザックはそれを「原罪」観念の違いで説明している。

 “ペストの流行にたいするイスラム教徒の対応で決定的に重要なのは、宗教である。神こそペストの生みの親である。このように考えることは、それに対抗するという考え方をあらかじめ封ずることになり、むしろ神の意志に従うべきことを諭すことになる。”

 ペストという共通の疾病に対する二つの「病の文化」の対照的な対応ぶり。ヨーロッパでは、ユダヤ人虐殺に象徴されるスケープ・ゴート探し、病人の隔離、死者の迅速な「処理」などの「主体的」な対応ぶりがみられた。ユダヤ人虐殺と公衆衛生は同じメダルの表裏をなしていたのだ。

 それにたいしてイスラム教の世界では、「宿命」を甘受し、病人や死者にたいする義務を最後まで果そうとする姿勢が(少なくともヨーロッパ人からみれば)顕著であった。もちろんヨーロッパのペスト史でも献身的な奉仕の話がいくつも伝えられているし、逆に中東の側でも不人情な振る舞いが当然あったはずである。しかし全体としてイスラム教世界では、病人・死者を見捨てないという「たてまえ」が強くはたらいていた、とみてよさそうである。

ふたつの世界の命運

 やがてヨーロッパでは、このようなイスラム教徒の「人間的な」振る舞いを否定的にみる見方が有力になってゆく。

 ヨーロッパ側がいだく「アジア」の「病いの文化」のイメージをまとめれば、それは「女性」的であり、運命にたいして受け身的である、となろう。それにたいして西洋人は「男性」的であり、運命に対して雄々しく立ち向かう、となる。二〇世紀初頭のフィリピンでコレラ対策に取り組んだあるアメリカ人医師はつぎのように言う。「アメリカ人はコレラと断固戦う。……原住民を特徴づけるあの無気力ぶりや絶望感はまったくみられない。……わが同胞は戦場でも病院でも最後まで戦い抜くのだ」。

 一八三一年のコレラ流行が公衆衛生制度の本格的な導入の起点となった。オスマン=トルコおよびエジプトで西洋列強諸国の干渉ないし指導のもとに、検疫制度、種痘をはじめ各種の西洋式の衛生対策が講じられるようになった。その結果、ペストおよび天然痘についてはたしかに目ざましい成果がみられたのである。一八五三年、フランス領事は本国につぎのように報告した。「トルコとエジプトの衛生制度はまだ完璧なものだとは言えないが、それでもヨーロッパにとっては安心できる状態になっている。ペスト患者の存在を衛生監督官が見逃すことのないように制度が機能しているからである。……トルコでは一八四三年、エジプトでは一八四四年以降、医師によって認定された真性ペスト患者はひとりも見つかっていない」。

 一七二〇年代のマルセイユ・ペストを起点にすればおよそ一世紀半、東欧をのぞくヨーロッパ全体についてみれば一七世紀中葉から数えておよそ二世紀遅れて、ようやく中東のペスト流行に終止符が打たれたのである。フランスの高名な社会史家ル・ロワ・ラデリュはつぎのように言う。「西洋でペストが消滅した後も、イスラム国家では一八四〇年代までペストの流行が続いた。ところがその時期に、一六世紀中葉以降にヨーロッパでとられたのと同じ簡単な予防措置(検疫その他)がとられるようになり、イスラム世界におけるペストの流行の発生件数が減少したのである」。

 今日のペスト史流行史研究の水準からみて、通説はそのまま通用するのだろうか。そもそもヨーロッパにおけるペストの消滅についても、まだ定説はないのだ。だが、ことの真相はどうであれ、ここで「伝説」が生まれた。ヨーロッパの技術は中東でも自然界の災いに勝利したとする伝説である。

 パンザックによれば、一八世紀以降、ふたつの世界の命運はペスト体験の違いのために大きく分岐する。この時代、ヨーロッパは人口「革命」を体験した。人口数はそれまでのように疫病や飢饉によって増加にストップがかかることがなくなり、一本調子でふえてゆくようになった。ペストの消滅がそのもっとも重要な条件のひとつだったことは間違いない。他方、中東では一九世紀前半まで人口が停滞した。その「決定要因のひとつ」は、ペストの流行が続いていたことである。パンザックにいわせれば、それがひいては「ヨーロッパに対して、オスマン帝国の国力をとみに弱体化させたのである」。

植民地支配の道具としての医療

 そのうえでパンザックが強調するのは、近代的な衛生政策の導入が、西洋の覇権に従属していくさいの重要な契機になったことである。

 “ヨーロッパによる干渉政策のなかでももっとも根が深く、拘束力が強かったのは衛生改革である。……一八三〇年代以降、ヨーロッパ人は西洋のやり方をオリエントの地で実行されるように依頼されるようになった。……こうしてエジプトやトルコのような独立した主権国家の内部に、ヨーロッパ人が指揮をとる衛生制度がもうけられたのである。(以下略)”

 対西洋従属化の過程の一齣としての衛生改革。それは日常的な身体レベルでの従属である。むきだしの暴力による支配ではなく、真綿で首を絞めるような。おまけに「価値中立」的な「科学」という外装をまとった支配であり、しかも住民の福利厚生の改善にたしかに貢献したのである。侵略する側も少なくともこの点にかんしては良心の呵責を感じないですんだ。それどころか、いっそう帝国主義支配の使命感に燃えることにもなったのである。

 (見市雅俊『コレラの世界史』より抜粋)

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