働き方の「ニューノーマル」へ 『オランダ流ワーク・ライフ・バランス』から考える
記事:世界思想社
記事:世界思想社
今にして思えば、「テレワーク」という単語を初めて耳にしたのはオランダだった。2002年のことである。当時のオランダでは、まさに働き方改革が進行中。ほかにも「4×9戦略」とか「パパの日」とか「24時間経済」とか、聞きなれない言葉が飛び交っていた。
新聞や雑誌のコラム、インタビュー記事のプロフィール紹介欄には、学歴や職業に加えて、「週当たりの労働時間」が必ず添えられていたし、ちょっとした集まりでも、「最近、どんなふうに働いている?」という会話がふつうに交わされていた。
在宅勤務とほぼ同じ意味で使われていたテレワークも、時間と場所にしばられない自由な働き方の象徴として、注目を浴び始めていた。
私はその頃、4歳になったばかりの息子と夫の3人で、オランダの地方都市に半年だけ滞在していた。日本にいる間、共働きの私たちはいつも何かに追われていて、週末の出張も多かった。オランダに行って初めて、平日の夕方や週末を家族3人で過ごす生活となり、回りを見渡してみると、それをあたりまえだと思っている人しかいない。
もちろん、オランダでも子育て中の人たちは忙しそうだった。時間に追われていないわけでもなかった。でも、何かがちがう。今のオランダ人の働き方の多様性、柔軟さを可能にしているものは何なのか、いつからそれがあたりまえになったのか。それが知りたくて、調査を始めた。
日本でも、1990年代末頃からワークシェアリングやワーク・ライフ・バランスといったテーマが取り上げられるたび、オランダのことは広く紹介されてきた。だが、政策の展開やモデルケースとなるような事例が強調される一方で、一般的な働き方がどういうものなのか、仕事や子育て、生活全般についてオランダの人びとがどのように考えているのか、社会通念がどのように変化してきたのか、などの点に踏み込んだ分析はあまり目にすることがなかった。
文化人類学を専門とする私は、政策論やモデル提示をめざすのではなく、社会制度や生活スタイルの変化の要因を追いつつも、人びとが日々何に悩み、何を喜びとしているかをつぶさに伝えたかった。それを通じて、私たち自身が働くことと生きることのバランスを振りかえり、あらたな可能性を思い描く一助になればと考えた。
2005年から10年にわたって断続的に行った調査では、関連する調査研究の成果や統計、オランダの新聞や雑誌、テレビ番組など、あらゆる情報を集める努力をしたが、核となったのは、子育て中の男女を主な対象とするインタビューである。
親しい友人たちから始め、順にいろいろな人を紹介してもらいながら続けたインタビューは、どれもが深く印象に残るものだった。子どもを寝かしつけた後のリビングで、職場近くのカフェで、あるいは家の近くを散歩しながら話を聞かせてもらった一人ひとりとの対話の情景が今でもはっきりと目に浮かぶ。
その人たちの多くは、正規のパートタイム勤務や育児休暇、柔軟な労働時間の確保など、1980年代末以降に次々に整備された制度を味方につけて、就労と子育ての両立を実現している。とはいえ個人のワークヒストリーに光を当てることで浮かび上がってきたのは、たゆまず「模索を続ける」姿だった。転職を繰り返したり、住まいを移したり、働く時間を見直したり、在宅勤務を活用したり――。
誰もが現状に満足していたわけではない。だがインタビュー時に強い不満を抱えていた人が、次に会った時には何かしらの選択をし、次の一歩を踏み出していたのも印象的だった。
オランダの事例を知るうえで重要なのは、昔から今のような働き方をしていたわけではないということだ。私の同世代、つまり1960年代生まれの人たちは、ほとんどが専業主婦の母親に育てられている。当時は女性が結婚と同時に退職することがあたりまえだったうえ、母親となった女性の就労などあり得ないと思われていた。かつてのオランダでは、夫=稼ぎ手、妻=専業主婦という性別役割モデルが広く実践され、日曜は必ず家族そろって教会に行くなど、社会全体が一定の生活リズムのもとに動いていた。
その後、世俗化、個人化、柔軟化といった社会変化を背景に、女性が結婚・出産後も働き続け、男性も家事・育児を分担する社会へと変貌を遂げた。そこに各種の労働・経済政策や福祉政策が影響を及ぼしているのはまちがいないが、人びとの意識も大きく変わった。
今のオランダ人にとって重要なのは、一人ひとりの生活上のニーズに沿った「組み合わせ」が実現することである。働くことと生きること、つまり「ワーク」と「ライフ」は拮抗し合い、天秤にかけるようなものではなく、生きることそのものが、働くこと、ケアすることを含めた多様な営みから成り立っている。その多様な営みの組み合わせは、一人ひとりが選択でき、その選択は常に修正可能であること。それがオランダ流ワーク・ライフ・バランスの真髄だと思う。