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西洋古代・中世でただひとりの女性歴史家 アンナ・コムネナとは?

歴史学はなんのためにあるのか? ビザンツ歴史文学の最高傑作を読み解く、井上浩一著『歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品』(白水社刊)。

アンナ・コムネナの著書『アレクシアス』最古のF写本(12世紀、フィレンツェ、ラウレンツィアーナ図書館蔵)。

アンナの自慢

 人は誰でも自分に誇りがある、自慢したいことがある。アンナの誇り、自慢は何だったのだろうか。『アレクシアス』の序文には次のような一節がある。

 私、アレクシオスとエイレーネー両陛下の娘として緋の産室に生まれ育ったアンナは、読み書きとは無縁でないどころか、正しいギリシア語を修めたのち、修辞学をしっかり学び、アリストテレスの作品やプラトンの対話篇を熟読し、四つの学問(天文学・幾何学・算術・音楽)で知性を磨いた。(序文一章2節)

 アンナの誇りは皇帝の娘であること、そして高度な学問を修めたことであった。この引用文は、間近で見ていた父の偉大な業績を、自分の学問・教養を駆使して書き記すという執筆宣言であるが、同時に私はこういう人間なのだという自己紹介でもある。やや自慢たらしいところがアンナの特徴であろう。微笑ましいとみるか、図々しいと思うか、受け取り方は自由である。

 親を選ぶことはできないのだから、緋の産室で生まれた、皇帝の娘だと自慢するのはいかがなものかと言われても、アンナにとっては何物にも代えがたい宝であった。もちろん、学問を究めたことは誰に遠慮なく誇ってよいだろう。とりわけ女性の場合、深い教養を身につけることが難しかった時代、学問好きで本に親しんだという母エイレーネーも、署名するのがやっとの有様、そのような時代のことである。大したものだと言わざるを得ない。アンナも自分の学問について述べたあと、「努力して獲得したことを述べるのは、けっして自画自賛ではない、堂々と語ってよいはずである」と言っている。

 アンナは、『アレクシアス』の随所で古典の教養を披露しつつ、末尾近くの十五巻七章でもう一度、自分の学問を誇らしげに記している。序文での自己紹介を繰り返したもので、「初級の勉強を済ませたのち、修辞学に進み、哲学に取り組んだ。そしてこれらの学問と並行して、詩人や散文作家を読み耽った」とある。くどいと言われようが何度でも言いたい、自分の存在証明であった。

歴史学者の疑問

 歴史学者はものの見方がひねくれているようで、私なども、アンナが学問を修めた、教養を身につけたと言うのを聞くと、反射的に疑ってしまう。かつてK・マルクスは、歴史学の素朴な認識を批判して次のように述べた。

 日常生活ではどんな商売人でも、ある人が自称するところと、その人が実際はどういう存在なのかをちゃんと区別するのに、我々の歴史記述はまだこのありふれた認識にも達していない。歴史学者は、それぞれの時代が自分自身について語るところを言葉通りに信じている。(『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳、一部修正)

 マルクスの認識の基本となっているもので、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』など、他の著作でも同様の趣旨を繰り返している。しかし現代の歴史学には当てはまらないようである。「必ず返す、私が言うのだから間違いない、大丈夫」と言われて、安心して金を貸す歴史学者はいないだろう。本人の言うことは信用できないというのが歴史学、史料批判の原則である。アンナについても本人の言い分だけではなく、まわりの人々の証言を聞かなければならない。

客観的な評価

 アンナの学問自慢は自画自賛ではなかった。同時代や少しのちの人々からも、女性には珍しい教養ある文化人とみられていた。前章で紹介したケカリトメネ修道院の文人たちは、口を揃えてアンナの学問を称えている。まずは面識のあった人々の証言を聞こう。

 アンナがケカリトメネ修道院に入ってまもなく、息子のアレクシオスとヨハネスが同時に結婚式を挙げた。弁論家プロドロモスは「もっとも幸福なるカイサルの息子たちへの祝婚歌」と題された頌詞を読んでいる。『祝婚歌』は、頌詞の決まり通り、祖父アレクシオス一世をはじめとする、新郎の祖先・親族を称えている。両親についてはまず母のアンナに言及し――ここにも夫婦の関係が反映している――、「緋色の生まれ」の母は哲学を学び、「十番目のムーサ(学問の女神)」とも言うべき存在だとまで称えている。

 1130年頃に書かれたと思われる『アンナ・コムネナの遺言状序文』は、アンナの学問について『アレクシアス』とほとんど同じことを記している。もしイタリコスの作品だとすれば、アンナの自画像を裏付けるものである。ただし、いくらかの違いも認められる。『遺言状序文』では、アリストテレスやプラトンへの言及はなく、代わりに神の言葉を深く学んだとなっている。アンナの学問を紹介するのに、異端の疑いを招きかねないアリストテレスではなく、聖書や神学を学んだことを強調したのだろうか。イタリコスは総主教座の学校で福音書を講義したこともあり、のちにはフィリッポポリスの府主教となった。教会人として気を利かせたのかもしれない。

 トルニケスの『アンナ・コムネナ追悼文』は、お悔やみが遅れたことへの弁解から始めて、アンナの学問について詳しく述べている。知恵や学問を愛するアンナは、両親が止めるのも聞かず、読み書きを学んだ。父の死とともに哲学に没頭するようになり、親しく交わっていた文人にアリストテレスの注釈書の作成を依頼した。父アレクシオス一世の業績が忘れられないようにとみずから歴史を書いた。その歴史書『アレクシアス』は華麗な文体で明快に書かれている。神学はもちろん、医学の知識もあると、あらゆる学問を修めた奇蹟の女性と称えている。

 このようにケカリトメネの文人たちはアンナの学識を口々に称賛している。親しい友人が褒め称える趣旨で書いたものなので、これまた、どこまで信頼すべきか疑問はあるとはいえ、根も葉もないことを褒めるわけにはゆくまい。事実とまったく異なることを書いたなら、とりわけ聴衆を前に読み上げる頌詞や追悼文の場合、嫌味にしかならず、失笑を買うのが落ちであろう。

アンナの弟ヨハネス二世と妃ピロシュカ(右)を描いた壁画。アンナの面影を伝える肖像は見つかっていないが、ここから当時の皇族女性の華麗な装束をしのぶことができる。なおこの壁画は、現在モスクとしての使用がニュースとなっているアヤ・ソフィヤにある。

第三者の評価

 仲間内の文人たちの証言に加えて、第三者のより客観的な評価を聞く必要もある。アンナはアレクシオス一世の没時、さらにはヨハネス二世の即位直後の帝位をめぐる争いに関与したので、歴史書でもしばしば言及されている。歴史家たちはアンナの政治的行動にあまり好意的ではないが、その学問については、同じ知識人、歴史家として高く評価している。アレクシオス一世末期の帝位争いについて記すにあたって、歴史家ゾナラスは次のようにアンナを紹介する。

 ブリュエンニオスは学問にも通じていた。彼の妻は夫に負けず劣らず、いやそれ以上の智者で、アッティカ風の古語を正しく使い、高尚な問題に対する優れた理解を有していた。もって生まれた洞察力と努力によってそうなったのである。彼女は書物や教養ある人々を尊重し、彼らとの交流も通り一遍のものではなかった。(『歴史要略』十八巻二十六章)

 ヨハネス二世以降の歴史を書いたキンナモスはその序文で、なぜヨハネス二世時代から書き始めるかについて説明している。それによると、アレクシオス一世の時代については、同皇帝に好意的な歴史家たちによって満足すべき歴史書が書かれているから、今さら書く必要はないという。アレクシオス一世に好意的な歴史家とあることから、名前は挙げられていないもののアンナを念頭においていることは間違いあるまい。

【井上浩一著『歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品』(白水社刊)第一部9章「学問の世界に」より】