感染症が拡大し、中国が台頭する世界を予見! ジャック・ロンドン『赤死病』
記事:白水社
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ジャック・ロンドン(1876ー1916)は、作家自身が訪れた場所を舞台に、多くのジャンルの作品を書いたことで知られる冒険作家である。まずクロンダイク(アラスカ)ものがある。代表作『野性の呼び声』(1902)やもっとも有名な短篇「火を熾す」が展開する場所だ。自然回帰や原始の発見を主題とし、異人種との接触の模様が語られる。そして海洋もの。デビュー作「日本沿岸の台風」や、主人公の成長物語を含みつつ同性愛の可能性も感じさせる『海の狼』(1903)。アザラシ漁船に水夫として乗り込んだ経験が、作家のオリジナル・インスピレーションだ。海の手触りを取り戻すため、ロンドンは小さな舟を購入し、その中でこの作品を書いた。スナーク号で世界一周旅行に挑戦した際に生まれたのが、南海もの。『高慢な家系』(1908)などの短篇集が長篇小説『冒険』よりも、読み応えがある。タヒチ、ハワイ、メラネシアなどを舞台に、ここでも異人種が描かれるのだが、白人経営のプランテーションでの悲喜劇もあり、ハワイの神話も題材とされた。ジャンルを成すとはいえず、それ一作で芸術を成し遂げた、最高傑作『マーティン・イーデン』(1907)は虚構的自伝で、主人公はその圧倒的な情熱を武器に社会の底辺から這いあがり、作家として成功する。だが、成功の世俗的意味に幻滅して、南海において入水自殺する。この海中のシーンは現世を超越して美しい。おそらく、美しすぎる。
【映画『マーティン・エデン』予告編 主演のルカ・マリネッリは、2019年ヴェネツィア国際映画祭にて『ジョーカー』のホアキン・フェニックスを抑えて男優賞を受賞】
晩年、カリフォルニア州に、二人目の妻チャーミアンと居をかまえたロンドンは、あまり大きな冒険には挑戦しなくなっていった(小さいとは言えない冒険は、あいかわらず続けていたのだけれども)。南海の航海生活が彼の健康を損なってしまっていたからだ。これ以降に書かれた長篇小説三作は、田園小説というジャンルを成している。農園経営が作家の冒険となった。『バーニング・デイライト』(1909)は、クロンダイク、投機市場、田圏と舞台を大きく移す(三つのフロンティアという評言がある)。『月光の谷』(1912)ではヒロインが舞台の中心を占め、現実の娘ジョイの流産に由来する新生児喪失も描かれる。ここでのヒロインの心理描写は、読者の胸をつまらせるだろう。これは都会から田園への脱出を描くロード・ナラティブとなっている。『大きな屋敷の小さな夫人』(1914)において、ロンドンは、妻の浮気事件を題材に二人の男と一人の女の三角関係を描く。これは、ふつうの意味での冒険小説ではまったくない。ロンドンとチャーミアンの常識をくつがえす夫婦関係が、この時期、ロンドン最大の冒険だったと考える研究者もいるが。これらの舞台は、ロンドン晩年の地グレン・エレンだ。
ロンドンが描いた世界は、乱暴に素描しても、これぐらいの広さがある。これ以外には、主に海を舞台にした少年冒険ものとして『密漁監視隊の物語』他があり、忘れてはいけないボクシング小説群もある。「一切れのステーキ」は、一読忘れがたい瞬間を読者の脳裏に刻み込んだはずだ。途中をずいぶん省略しているのだが(『ジョン・バーリコーン』や『星を駆ける者』など)、最後にあげるべきなのが、社会主義関連の文明論的小説・講演・エッセイだ。長篇小説である代表作は『鉄の踵』(1906)、そしてエッセイ集『革命』(1905)。このたび白水uブックスに収められた三篇「赤死病」(“The Scarlet Plague,” 1910/2)、「比類なき侵略」(“The Unparalleled Invasion,” 1907/3)、「人間の漂流」(“The Human Drift,” 1910/2)は、このジャンルに属する。
ロンドンは、晩年、社会主義労働党から脱党することになったが、社会主義の信念は持ちつづけた。党を離れたあとのグレン・エレンでのコミューン建設の夢に、彼の信念はまだ生きていた。彼の社会思想は、しかし、マルクスの「社会主義」とは相当に異なる、ロンドン独自のものと言ってよいと思う。『アメリカ浮浪記』(1907)に題材を提供した北米大陸一周旅行時(1894)の、放浪者としての体験(ルンペン・インテリゲンチャとの邂逅)がいちばんの影響源だろう。この際、彼は放浪罪で約一か月の刑務所生活すら経験している。そこは、彼によれば、弱肉強食の完全な階級社会だった。ロンドンの思想的背景にカール・マルクスがいたことは事実だろうが、それに加えてチャールズ・ダーウィンの進化論やトマス・マルサスの人口論が基本的バックボーンとしてあった。「人間の漂流」で難解な一節が引用されるハーバート・スペンサーのことを、彼は、知的恩人として尊敬していた。けれども、スペンサーの社会進化論──手短にいえば、生物学的進化論の社会適用版で、当時の歯止めなき資本主義を正当化した──は、ロンドン得意の言説ではなかった。
この三つの作品は、細菌、戦争あるいは暴力、惑星の維持可能性、人類の宿命といった共通のモチーフで繋がっている。執筆順にそれぞれの作品についてコメントしてみよう。
「比類なき侵略」は、SF的想像力で細菌戦を描いている。執筆時から約70年先の未来、1975年に起こった、細菌兵器を使った西洋諸国による中国人のジェノサイド、というのが、より正確な要約となるだろう。マルサスに従っているのか、国力は国の人口で表されている。多産の中国人が世界を支配しようとしているというわけだ。まるで現代における中国の拡大、世界的覇権の掌握を語っているかのようだ。これほどロンドンがアジア情勢に精通していたのには、二回の訪日と滞在、日露戦争を従軍記者として観察し報道した事実がある。エッセイ「黄渦」では、新渡戸稲造を引用しているくらいである。時代の細菌に対する執着(マーク・トウェインの「細菌とともに三千年」やフランク・ノリスの『ヴァンドーヴァーと獣性』など)と同じくらいに興味深いと思うのは、知性の「進化」が語られる部分ではないだろうか。中国が覚醒し技術革新を進め世界の覇権を握るには、同じ象形文字である漢字を通じて日本が影響を与えねばならぬ、というのだ。共通のモンゴル系という根っこをもち、同じ精神過程を有する「生物学的変種」の日本人こそが、日露戦争に勝利した日本だけが、中国を目覚めさせられる。中国が目覚めると、日本はあっさり退場させられてしまう。このような思考の背景には、「人間の漂流」で展開される地球規模の文明観があった。
社会主義の考え方を遠景にもちながら、この惑星の歴史、人類の歴史を壮大に展開するのが「人間の漂流」である。食料への欲望ゆえに、アフリカ発の人類は、この惑星を漂流【ドリフト】しつづけ、あらゆる場所に住みつくことになった。やがて彼らの生産性は武器製造へも振り向けられることになるが、作家の想像力は、人類の細菌との戦いにまで及ぶ。細菌撲滅は不可能であると予感していたふしがあるが、戦争の時代のほうは、わりと簡単に終焉するらしい。確かに、ロンドンの時代以降に二度の世界大戦が戦われたのだが(密かに細菌戦もあった)、人類史を巨視的にながめてみれば、恐ろしい数の死者を出した戦争は、兵器の不効率性にもかかわらず、世界大戦以前に戦われたものだった。人口削減装置たる戦争に代わるのが、驚いたことに「産業」であるらしい。資本制工場労働機構がより多くを殺す。社会主義者の発想なのだろうか。けれど、ウィルスと経済の破綻のどちらのほうがより恐ろしいのかと考える現代人からすると、ロンドンの思考は示唆的ではある。少なくとも作家の人口爆発の予想は確実に正しかった。人口爆発と細菌の「底知れぬ多産」。どうやらこの二つはパラレルな関係にあるらしい。まるで映画『マトリックス』のエージェント・スミスの世界観である。「君たちに似た有機体が、この星にもう一つ存在する。ウィルスだよ。人類は病原菌なのだ」。
「赤死病」は感染症によるパンデミックを描き、感染拡大によるディストピア出現の語り──略奪、破壊、殺人の描写──が圧巻なのだが、不思議なのは、主人公の老人が三度口にする台詞ではないだろうか。「はかなきもの、あわのごとくついえ去り」。「人間の漂流」の「つかの間の仕組み(システム)は、泡のごとく消滅する」と同一であり、原文は “The fleeting systems lapse like foam” というものだ。これは、ロンドンが終生の親友としたジョージ・スターリングの詩「星々たちの証言」(“The Testimony of the Suns”)からの引用である。その意味は、重く深く神秘的だ。詩篇では、冬の夜空に展開する恒星たち(the Suns)の戦いが描かれ、太陽系、銀河系(the systems)の誕生と変化、死と永遠が語られる。ゆえに、「人間の漂流」では宇宙の文脈のなかで、「仕組み」が、はかなきものである人間に対照されている。では、「赤死病」では、どうなのか。
この中篇小説は、老人(スミス教授とのちに名前を与えられることになる)が三人の孫たちに対して、赤死病による人類滅亡の過程を語るというフレーム・ナラティブを採用している。感染症は2013年に発生した。物語の現在である60年後の2073年には、世界人口は数百人になっている。数百人とはいえ、すでに孫世代を生み育てて、この数にまで持ち返したのだ。赤死病の猛威を経験した老人の代から、赤死病を知らない孫の時代になっているのである。
小説の冒頭は、圧倒的な陰鬱さにもかかわらず強烈にパワフルだ。「火を熾す」や「生への執着」(クロンダイクもの)のような実存的な道が続き、そこをスミスと孫エドウィンが歩く。彼らの衣服が説明される。やぎ、熊、豚の亡骸が彼らを守っている。すると熊が現れ、やぎが紹介され豚も走り出す。どうやら、悪夢的に彼らは自然と一体化しているらしい。同時に「南海もの」のエコーも聞かれる。「未開」の部族は、耳や鼻に装身具をつけて着飾るからだ(たとえば南海もの「マウキ」が良い例)。女はネイティブ・アメリカンの女性を指す「スコウ」と呼ばれることもあり、クロンダイクものさながらに、彼らはモカシン靴を履いていたりもする。ジャック・ロンドン・ワールドが見事に展開しているのである。自然の再生力はすさまじく、道をなすレールを腐葉土や樹木が飲みこもうとしている。人類による搾取から解放され、惑星は自然に帰ったのだ。
地球は、生態系は、回復された。しかし残念なことに、我々にとっては、やはりこれは悪夢だとしか言いようがない。人口数百人の地球は悲しすぎる。それでも、この小説に希望がまったくないわけでもない。物語が光を手探りしていくからだ。光は、まず読者の理解の光として現われる。人物の名前と血族関係が徐々に明かされてゆき、物語世界の隅々が照らしだされる。邪悪な「おかかえ運転手」族の始祖であるビルですら、人類の再生に寄与していたことを我々は知る。孫の一人ヘア・リップは、その末裔だ。感染症発生前の独占資本主義社会も醜悪の極みだが、階級社会が一度は消滅し、しかしその憎悪とともにまた発生してくる歴史は、人の性【さが】の帰結として諦念をもって受け入れられるのだろう。老人はつぶやく、「真理はすべて発見され、嘘だって蘇り伝えられていく」。真理も嘘も、すでに一度、存在していたものなのだ。そして、最後にぼんやりと太陽が浮かぶ。赤い光を放つ太陽が、戦い愛し合うアシカたちを映しだす。夕方の弱々しい光だ。おそらく、スターリングが謳った、戦い消えそしてまた生まれくる恒星たちの一つであろう太陽のあと、大気汚染を知らない空に、恒星たちが輝き始め、光の饗宴となるのだろう。生命も非生命も繰り返して、循環するのだ。はかなきものは消えるが、やがて生き返るのである。「さあ、行こうぜ」との孫の言葉に、小説冒頭と同じく、老人は線路沿いにふたたび歩きだす。老人が倒れたあとも、きっと孫は歩きつづけるのだろう。
*作品名のあとに記した年数は、おおまかな執筆年である。
【ジャック・ロンドン『赤死病』(白水uブックス)解説より】