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中国語を第二外国語に選んだのはなぜ? 樺美智子の問いからすべて始まった

5G、AI、量子コンピュータ……〈デジタル・レーニン主義〉の相貌を持って現れつつある「世界第二の経済大国」に、透徹した眼差しをそそぐ! 矢吹晋著『〈中国の時代〉の越え方 一九六〇年の世界革命から二〇二〇年の米中衝突へ』(白水社刊)は、未来を捉えた新たな社会主義論。

 一九五八年に大学に入り、三鷹寮経由で駒場寮中国研究会(中寮中研室)に密入寮した。第二次大戦後の自治寮駒場は戦前の一時期とは異なり、自治寮からの退寮処分が即退学処分となるほどの権限はもたなかったが、それでも自治の慣習はかなり生きていて、それは特に学生の政治的行動において顕著であった。学生自治会によるストライキ決議に先だって寮総代会でまずストライキを決議して、駒場全学にアピールするスタイルが慣習化しようとしていた。

 これに対して大学当局はまず勉学を妨げる行為を決議した責任を追及して退学処分を行い、次いで「改悛の情あり」として復学させるスタイルが定着しつつあった。私が入寮する前年には中国語クラス二年先輩の金山秀一(中研)が自治会委員長として退学処分を受けた。入寮した五八年後期には、一年先輩の小林清人委員長(中研)や杉浦克己副委員長(歴研)が退学処分を受け、これに抗議する運動の中心が駒場の寮生であった(三名とも、その後復学)。

 私は一九五九年前期の総代会議長としてストライキ決議の責任者(すなわち退学処分候補者)の仲間入りをし、処分を覚悟していたが、「処分・復学のイタチごっこ」に対する反省が学生・教授会双方にあり、岸信介内閣の反動政策に対しては教授間でも不満が広がり、そのような駒場教授会の雰囲気は事務局学生課長(西村秀夫助教授)を通じて、われわれ寮幹部や自治会幹部にも伝えられ、一種の協調ムードが生まれていたこともあり、ほとんど皮一枚で処分を免れた。

 六〇年安保闘争前夜は、このような牧歌的師弟関係が色濃く残っていて、七〇年代の敵対関係とはかなり異なっていた点が記憶されるべきだ。その象徴が樺追悼デモに掲げられた「樺美智子さんの死に強く抗議する」という横断幕の文言であり、抗議デモには教職員も多数参加していた。

樺美智子さんの死を悼んで開かれた学内合同慰霊祭のあと都内をデモ行進する参列者 =1960年6月撮影、朝日新聞

 駒場寮中研に入ることは、即活動家予備軍として先輩からオルグの対象と目されることになった。入寮してまもない一九五八年六月、林紘義、杉浦克己ら五七年入学組の引率で、西部邁、金田晉、今井武久らわたしたち五八年入学組が、和歌山勤評闘争への応援オルグ活動に誘われた。帰寮してまもなく、一年先輩の樺美智子が寮へ訪ねてきて目黒区内の各小中学校への勤評反対のビラ入れをやるので、手伝って欲しいと頼まれ、二人ででかけること数回に及んだ。

 道すがら彼女は、「なぜ中国語を第二外国語として選んだのか、中国研究を行う意味は何か」と鋭く質した。当時はスターリン批判の衝撃を受けてロシア革命の見直しをロシア語やドイツ語文献を読み直すことから始めようとする風潮が学寮歴研やロシア史研究会の間で盛んであり、毛沢東については、スターリンと同類の「民族主義者」であり、「研究に値せず」と見る風潮が特に新左翼学生の間では強かった。

 日中間の戦後処理や友好関係の樹立は、日本革命が成就してはじめて実現できるのであり、日中戦後処理や交流という「小事」は、世界革命という「大事」に従属すべきだと彼女は論じた。当時、私の周辺にはトロツキーの永久革命論に賛同する者が少なくなく(前掲小林清人や塩川喜信など)、私は一方の世界革命論の魅力と、他方の日中問題の戦後処理、国交正常化という民族的課題(新左翼のいう小事)との間で右往左往していた。

 一九六〇年前半の羽田デモから一連の国会デモまで、私は樺美智子の前列あるいは前前列でスクラムを組むことが多かった(六月十五日当日の学内隊列、国会南門前隊列もそうだ)。彼女の死後、毛沢東は「樺美智子は日本民族の英雄だ」と讃辞を送り、弔慰金を届けた。この讃辞を樺がもし耳にしていたら、どんな表情を浮かべたであろうか。彼女が素直に受け入れたとは思えない。弔慰には感謝しつつも、率直な拒否の返礼を述べたのではないか。代々木からすると、脱党し共産主義者同盟を組織した彼女は、裏切り者に過ぎない。

石橋湛山氏と若き日の著者(右)、東京・下落合の石橋邸にて1965年10月6日撮影[矢吹晋著『〈中国の時代〉の越え方 一九六〇年の世界革命から二〇二〇年の米中衝突へ』(白水社刊)より]。

 五八年夏休み前の勤評反対ビラ入れの際に、私は彼女から代々木への入党を強く勧められた。駒場細胞において多数派工作のために票数が必要だと彼女は説いた。私は多数派工作の論理は理解したが、彼女の中国革命観、毛沢東観には同意できなかったので、返事を曖昧にした。

 しばらくして彼女は一転、「あなたは断じて入党してはならない。われわれはもう見限った。新組織ブントを立ち上げる準備をしているから、それに参加しなさい」と断言した。五八年後半から六〇年前半にかけて、日本政治の潮流はおおきなうねりを見せ、その渦中に彼女は凛と立つ。

 こうして私自身は結局代々木に入党し、脱党する(除名される)ことはなく、またブント結成にも参加せず、反安保運動の核心部分と一般学生との間に立つ街頭左翼の部類にとどまった。

 五八年秋の駒場祭では老舎作「茶館」を翻訳・上演した。五九年秋の駒場祭では夏衍作「上海屋檐下」を翻訳・上演した。こうして世界革命の理想あるいは妄想と革命前中国社会のイメージの間で駒場の二年間は過ぎた。革命の理想を語るとき、われわれは計画経済を真に実現するためには、やはりコンピュータが不可欠であろう。そのコンピュータ時代はいずれ必ず到来する、と口角泡を飛ばした。

 あるとき神田警察署から学寮中研宛ての呼び出し状が届き、出向いたところ一九五四年に駒場寮に機動隊が入った際に押収した証拠物件の返却であった。要するに大躍進や人民公社を理解し、中国との関係を模索する知的欲求と世界革命への幻想との間で揺れ動く疾風怒濤の時代が駒場の青春であった。

習近平vs.トランプという米中覇権の行方を、ポスト・コロナの時代に見据える! 矢吹晋著『〈中国の時代〉の越え方 一九六〇年の世界革命から二〇二〇年の米中衝突へ』(白水社刊)目次より

【矢吹晋『〈中国の時代〉の越え方 一九六〇年の世界革命から二〇二〇年の米中衝突へ』序章「樺美智子からの問い」より】

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