兵士の日記に綴られた、食べ物と酒にみる帝国陸軍の崩壊 『日本大空襲――本土制空基地隊員の日記』
記事:筑摩書房
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「戦争の悲惨さを語り継がねばならない」と、よくいわれる。だが、ここでいう「戦争の悲惨さ」とは、主として内地の女性や子どもたちが体験した、過酷な飢えの記憶である。それは、たとえばNHKの朝の連続テレビ小説における、戦時生活の描写からも明らかだろう。
しかし、このたびちくま学芸文庫より復刊された原田良次『日本大空襲――本土制空基地隊員の日記』がわれわれに教えるのは、同じ内地にいた兵士たちもまた、戦争末期には飢えていたという事実である。著者の原田は1917(大正6)年生まれの陸軍軍曹で、千葉県松戸の陸軍防空戦闘機隊に所属していた。
原田の日記の読みどころは多い。なかでも印象的なのは、1945(昭和20)年1月7日の日記に記した、周囲の兵隊たちに関する以下の観察である。
「理屈はともかく、一切はあてがいぶちのまま、一見戦い抜くことを宿命づけられ、没人格化された人間の集団のようにも見える」
これは徴兵制軍隊の本質を鋭く突いた指摘である。というのは、兵役の義務が「個人の利益にはつながらない強制」(同日の日記)である以上、軍は彼らの食事を「あてがいぶち」、すなわち官給にして、文句を一切言わせないことが必要だったからである。全員に同じものを黙々と食べさせることは、彼らを「没人格化」した戦闘機械につくりかえる早道でもあったろう。
兵食の官給は、たんなる兵役義務履行への報酬ではない。別の日の日記には、かつて原田たちに「“兵の喫食は即戦力エネルギー源”と喝破し、“食わざるは兵の義務遂行の忌避である”と断じた」主計大佐が出てくる(同年1月20日)。兵士たちへの「あてがいぶち」は、軍にとって最大限の戦力発揮の面からも、必須のはずであった。
ところが1945年の日本陸軍は、もはや内地の部隊ですら、兵士たちに十分に食わせることができなかった。原田たちは、軍の兵食だけではとうてい飢えを満たせないので、私費で民家から食べ物を買っていた。
たとえば、1944年12月22日には、年越し祝いのご馳走の鶏などを農家から買うため、原田たちは階級別にお金を出し合うことを決めている。原田は「私も三十四円也の軍曹の給与のなかから、食うためには十五円を出さねばなるまい」という。
同年12月29日には、兵長が餅を2升ほど仕入れてきた。代価は「煙草二個に金五〇円也」だった。お金に煙草を付けたのは、当時は金より物がものをいう時代だったからである。ただ、この価格は「これでも兵隊相場」であったという。一般国民のあいだに、まだ軍隊への期待が残っていたからか、あるいは義務兵に対する同情心のゆえか。昔の人の日記を読む醍醐味は、こうした当時の細かな空気を知り、追体験することにある。
ところで年越し祝いの必需品は、鶏や餅だけではなかった。同じか、もしかしたらそれ以上に必要だったのが酒である。原田たちは大晦日から正月にかけて、清酒と濁酒を大量に飲んでいる。これらが官給だったかはわからないが、もし酒が買えなければ「自由販売の朝鮮部落の濁酒(国民酒)でいこうと、衆議一決」(12月29日)していたから、自腹の可能性が高い。
興味深いのは、兵士たちは日々飢えていたにもかかわらず、酒は飲めたという事実である。酒があったのは、当時の日本政府が、貴重な米の一定量を酒造り用に確保していたからである。酒は兵士たちや一般国民の憂さ晴らし、士気の維持に必要不可欠だった。むろん質は極限まで落ちていたはずだが。
飲酒は軍隊秩序、軍紀を乱す要因とされる。しかし日本軍では、軍紀の維持上、酒は欠かせないものだったのではないか。敗戦直前、7月26日の日記にも、朝鮮人部落の濁酒を飲んだ話が出てくる。部隊の秩序が敗戦までまがりなりにも保たれた背景には、これらの酒の存在もあったかもしれない。
(「ちくま」2020年8月号より)