中国で誕生が確認された「ゲノム編集ベビー」いったい何が問題なのか 『ゲノム編集の光と闇』より
記事:筑摩書房
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香港の国際会議で賀建奎が語った内容は、おおむね次のようなものだった。
ゲノム編集のターゲットとしたのは、エイズウイルス(HIV)の感染に関係するCCR5遺伝子だ。CCR5はHIVが細胞に感染する時の「入口」になる受容体たんぱく質で、この遺伝子に変異があるとHIVが感染できなくなる。
賀はクリスパーを使い、マウスを使った実験や、サルを人間のモデルとして使った実験、シャーレの中でのヒト受精胚実験やヒトES細胞を使った実験を行い、最終的に臨床応用したという。
実験の参加者はエイズの患者団体から、夫がHIV陽性で妻が陰性のカップルをリクルートした。そのうち7組を対象に体外受精した受精卵にクリスパー・キャス9を作用させ、CCR5遺伝子のノックアウトを試みた。
このうち1組から双子の女の子が生まれたという。賀は双子を「ルル」と「ナナ」と呼んでいた。
体外受精に当たっては、受精卵へのHIV感染を防ぐため、精子洗浄をしてからマイクロピペットで精子を卵子に直接注入する顕微授精を実施した。受精から5日目に受精卵が胚盤胞になった段階で数細胞を取り出し「着床前遺伝子診断」を実施した。その結果、4つの受精胚のうち2つで目的の遺伝子に変異が入っていた。
1細胞の全ゲノムシーケンスの結果では、片方の受精胚に標的外の場所に変異が入るオフターゲットが1つ見られた。ただ、遺伝子と遺伝子の間にある配列で、どの遺伝子からも遠く、RNAの転写にも関係がないため、影響は考えにくいと判断したという。「両親にはこうしたリスクを伝えた上で選択してもらい、彼らは編集された2つの受精胚の移植を選んだ」と賀は主張した。
これを聞いた時には、「インフォームド・コンセント」(十分な説明を受けた上での同意)の名を借りた両親への責任転嫁ではないかと怒りが湧いた。
講演後の質疑応答でも同意文書や同意の取り方について質問が出たが、賀は「同意文書は複数の人に見せ、同意取得には米国や中国の教授が立ち合った」「両親は教育レベル高いので、よく理解していた」と述べたものの、同意が適切であったかどうかを知る手がかりはなかった。
双子を妊娠中に妊婦の血液に浮遊する胎児のDNAを調べた結果では着床前診断で見られたオフターゲットは見られず、双子が誕生した後に、臍帯血や臍帯、胎盤の細胞のDNAを分析した結果でも、オフターゲットは見られなかったと主張した。賀は「1細胞を診断したことによるデータの誤りか、もしくは診断した細胞だけに生じた変異かもしれない」と語った。
双子が実際にHIV感染しないか、本当にオフターゲットやモザイクが存在しないかについては、双子の細胞で確認しているところという。さらに今後18年間は彼女たちをモニターし、支援するとも述べた。
その後に質疑が続いたが、聞き終わって、脱力感を感じた。まず事の真偽だが、データを見せられただけではわからない。双子が実在しなくても、データは示せるからだ。実在を証明するには、まったく独立した第三者が、両親と双子の遺伝子を解析し、実際にゲノム編集が施されたことを確かめる必要がある。ただ、私が聞いてみた多くの科学者も、そして私自身も感じたのは、「本当であってもおかしくない」ということだった。なぜなら、クリスパー・キャス9を受精卵に使うことは、ある程度の知識のある研究者なら誰でもできるからだ。
ヒトの受精胚を扱えるのは産科婦人科医に限られるが、クリスパーを受精胚に注入する操作は通常の顕微授精と変わらない。
だからこそ、「ルル」と「ナナ」の実在は否定できないわけだが、その上で感じるのは非倫理的、軽率、無責任、不透明といったさまざまな問題だ。
まず納得しがたいのは、今回のケースでは受精卵のCCR5遺伝子を改変する医学的必要性がない点だ。父親がHIV陽性でも、生まれる子どもに感染させずにすむ方法はある。実際、賀は「精子洗浄と顕微授精」で感染を防いだと述べている。
だとしたら、なぜ、子どものCCR遺伝子をわざわざノックアウトする必要があるのか。周囲にHIV陽性の大人がいるからといって、子どもをHIV耐性にする必要はないだろう。しかも、この遺伝子をノックアウトすることによって、西ナイルウイルスなど別の感染症にかかりやすくなるリスクもある。こうした疑問に対する賀の明確な答えはなかった。
調べた範囲でオフターゲットやモザイクが見られなかったとしても、見落としもあるだろう。予想外の悪影響が出ることもありうる。実際、海外の研究者の間からは懸念の声が漏れている。賀の発表データを見ると、双子の1人は両親から受け継いだ2コピーのCCR遺伝子のうち1コピーしか編集されていない。するとこの子はHIV耐性にならないはずだ。もう1人は2コピーに変異が入っているものの、双子のどちらもCCR5遺伝子の通常の変異とは異なる変異が入っているようで、後々の影響はわからないと指摘する声もある。
子どもに異常が生じるリスクや、長年のモニターの必要性を考えると、子どもを実験材料に使ったとしか思えなくなる。今後もモニターされるという双子は、それに同意したわけでさえない。
これほど懸念材料があるのに、今回の試みがどのような倫理審査を経たかについても賀は明確に答えなかった。賀が双子を出産させたことについて、所属大学も知らなかったという。この研究に参加した夫婦には出産などの経費として約450万円が支払われたという報道もあり、その倫理性も問われる。
賀はヒト受精卵に「エンハンスメント」(強化)を施すことには反対だと言っているが、HIV耐性という医学的に不要な性質を子どもに付与することは「エンハンスメント」に当たるとも考えられる。「感染症にかかりにくい性質」を付け加えてもいいのなら、「がんにかかりにくい」も「高血圧になりにくい」もいいだろうし、「身長が高い」「運動能力が高い」といった遺伝子改変にもつながっていくだろう。
まさに、デザイナーベビーや優生学的利用、人類の遺伝子の改変に向けた「滑り坂」の第一歩という懸念がぬぐえない。